教室の魔法使い

中富虹輔

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プロローグ

プロローグ 教室の魔法使い

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 土曜日の午後三時。体育館の方から聞こえてくる運動系クラブの連中のかけ声を聞きながら、ぼくは人気のない廊下を、忘れ物……国語の教科書……をとりに、教室へ向かって歩いていた。
 ぼくの所属している幻文……幻想文学研究会……が二ヶ月に一度発行している、「幻文だより」の制作が間にあわず、みんな……といっても、ほんの七人しかいないのだけれど……で、今日、仕上げてしまおう、ということになった。それは無事に終わったのだけれども。
 ……それにしても中途半端な時間になってしまったものだ。
 このまま家に帰っても時間を持て余してしまうだけだし、だからといってこれからどこかに遊びにいくには時間が足りなすぎる。ついこの間、読みかけの本を読み切ってしまった上、小遣いまではまだ時間があるので、新しい本を買うわけにもいかない。
「あーあ、どうすっかなぁ」
 小さくつぶやきながら、ぼくは教室の扉を開けた。
 その瞬間、ぼくと彼女の目がばったりとあってしまった、というのは、できすぎた偶然だったのか、それとも何らかの、目に見えない作為が働いたのか。
 一時、ぼくの中で時間が止まった。
 深緑色のブレザーと、同じ色のスカート。そして胸のポケットに大きく縫い取られている、ぼくの知らない学校の校章。
 それは、ぼくの知らない学校の制服だった。
 長い髪は緩やかなウェーブを描いていて、今時のぼくらの年代の女の子には珍しく、髪を染めてはいなかった。
 顔立ちは、「美人」の範疇にはいるだろう。細面で、何よりも印象的なのが、彼女から勝ち気な印象を発散させている、瞳だった。
 彼女がぼくに向かって微笑みかけるのと同時に、ようやく、止まっていた時間が動き出した。
 彼女の微笑みにつられてぼくもぎこちない笑みを返し……そしてぼくは、彼女がぼくの席に座っていることに、ようやく気づいた。
 微笑みをかわしてから、なにをいえばいいのかわからなくなってしまい、いうべき言葉をさがしてみたけれども、どうにもうまい言葉が浮かんでこない。まごまごしているうちに、再び彼女はぼくに微笑みかけ、そして口を開いた。
「はじめまして」
「……あ、……えーと……はじめまして」その言葉に引っ張られるように、ぼくは言葉を返し、そしてあわてて付け足した。「転校生?」
「うん」彼女は応え、「来週から」立ち上がった。「ここ、あなたの席なんでしょ? 峰岸くん」
 ……彼女の言葉の意味を理解するのにたっぷり五秒はかかっただろう。……いや、別に彼女が外国語を話していたわけではないのだから、その言葉は、簡単に理解できた。問題は……そう。なんで彼女がぼくの名前と……そしてその席がぼくの席だということを知っていたか、なのだ。
 思わずぽかんと彼女を見つめたぼくに、彼女はまた、小さくくすりと笑ってみせた。「びっくりしたみたいね?」
 この期に及んで、驚くな、という方が無理な話だろう。初対面の相手が自分の名前と……そして教室の席の位置まで知っているのだ。これで驚かない奴がいたら……隣のクラスに、こんな場面に遭遇しても驚きそうにないやつが一人いることをふと思い出したけれども、ひとまずそいつのことは頭から追い出した……お目にかかりたいものだ。
 ぼくの反応が予想通りだったのだろう。彼女は楽しそうに、いたずらな瞳でぼくを見つめている。「……ど……して?」ようやくのことでぼくはそれだけを問い、
「あ。あたしはね、宮島、っていうの」突然のとんちんかんな返答に、ぼくは拍子抜けして、身体の力を抜いた。どうやら彼女にはそれも計算のうちに入っているらしく、「座らないの? 忘れ物、取りに来たんでしょ?」
 ……もうどうにでもしてくれ。ぼくはため息をつきながら、彼女にいわれたとおりに、自分の席に座って、机の中の国語の教科書を取り出した。初対面の人間の名前と席を知っているようなのが相手なのだ。ここに来てぼくがなんでこの教室に来たのかを彼女が知っていたって、驚くにはあたらないだろう。彼女……宮島……は、ぼくが教科書をカバンに詰め込む間に、ぼくの前の席のイスを引っ張って、ぼくに向かい合うように腰掛けた。
「……なんであたしが峰岸くんのことを知っていたのか、知りたい?」
 ぼくがカバンに教科書を詰め終えるのを待って、宮島は問うた。ぼくはうなずきを返して、「そりゃ、ね」どうにかそれだけを応えた。
「素直でよろしい」宮島は満足げにうなずくと、わざともったいぶった様子で、しばらくの間口をつぐんでいた……その間、微笑みを絶やさずに……。たっぷり十秒ほども費やしただろうか。いいかげんぼくがじれてきたころを見計らったように、彼女は口を開いた。
「……魔法使いなんだ、あたし」
「はいはい」あきれかえって……というのはあまり適当ではないかもしれない。とにかくぼくは、彼女のその突飛な言葉に、投げやりに返事を返した。
「……あー、信じてないでしょ?」宮島はぼくの反応に、頬をふくらませた。「……信じろ、っていうほうがどうかしていると思うけど?」ぼくはため息まじりに言葉を返す。「……証拠をみせてもらえば、信じてもいいよ」
「いったわね?」ぼくの言葉に、彼女は挑戦的な目を向けた。「じゃあ、あたしが本当に魔法使いだったら、どうする?」
 ……どうする、っていわれても……。「宮島は、ぼくにどうしてほしいの?」ぼくは逆に問い返した。「……そうねぇ……」そのまま思案顔で天井を見上げる、「自称」魔法使い。しばらくの沈黙があって、やがて彼女はぱん、と手を打ち「うん、そうだ!」明るい声でいった。
「この前、新しい魔法の薬を作ったの。その実験台になってちょうだい」
 魔法の薬の実験台? 一瞬、本当に彼女が魔法使いで、その薬がなにやら怪しげなものだったら……などという考えが頭の中を横切っていったけれども……それもそれでまた一興だろう。彼女が本当に魔法使いなら、それはそれで何かの話の種になるかもしれない。そこまで考え、ぼくは彼女の言葉にうなずきを返した。
「わかった。じゃあ、宮島がもしも魔法使いじゃなかったら?」
「峰岸くんは、あたしにどうしてほしいの?」同じ言葉をそっくりそのまま返されてしまい、ぼくもまたさっきの彼女と同じように、天井を見上げ……考えはすぐにまとまった。
「明日の日曜日、ぼくとデートする、なんてどう?」
 宮島はくすりと笑い、「ふーん。初対面の女の子をデートに誘うなんて。峰岸くんて、意外と大胆なんだね」
 ……魔法の薬の「実験台」なんかよりはよほどおとなしいんじゃないか、と思ったけれども、口にはしなかった。「あたしはそれでいいよ。……どっちにしたって、この賭けはあたしの勝ちなんだから」
 自信満々にいって、彼女は芝居がかったしぐさで立ち上がった。「よーく見てなさいよ」前置きして、彼女はぱちん、と指を鳴らした。
 そのとたん。
 ぽん、なんていう擬音と一緒にでてきそうな煙が彼女の身体を包み込み、そしてその煙が晴れると……彼女が着ていた、よその学校の制服は、見慣れた、この学校のそれに変わっている。ぼくは呆気にとられてそれを見つめ、……そしてどうにか、言葉を出した。
「……なに、今の? 手品?」
 苦笑を返す宮島。「往生際が悪いわねぇ。魔法よ、ま・ほ・う」いって、もう一度指を鳴らす。今度はなんの前触れもなく、彼女の手の中に古ぼけた竹ぼうきが現れる。「乗り心地が悪いから、本当はほうきに乗るのはいやなんだけどね」いいながら彼女は、スカートのままそのほうきにまたがった。
 彼女がとん、と床を蹴ると……
 そのままほうきは空中で静止した。そして、ゆっくりと、彼女の身体が浮かび上がっていく。五センチ、十センチ、十五センチ……。
 まだ自分で見ている現実が信じられずに、ぼくは立ち上がると、宮島と、そしてそのほうきを宙につり上げているピアノ線か何かがないかどうか、宙に手をはわせてみた。
 予想通り、というべきなんだろう。彼女はいっさいのトリックなしに、宙に浮いていた。
 ……冗談だろう? いくらなんでも? ぼくはさっきとは別の意味で脱力して、自分の席に腰を下ろし、その様子を見ていた宮島は、満足そうに床に降り立つと、また指を鳴らした。ほうきが消え、彼女が着ていた制服も、元に戻る。
 「はい、かけはあたしの勝ちね。……文句、ある?」ぼくはため息をつきつつ、首を横にふった。「……ありません」

 そしてその翌日の日曜日。ぼくは彼女にいわれたとおりに、駅前の待ち合わせ場所へ向かった。約束の時間は九時だったけれども、時間に余裕を見て八時五十五分にその場所……駅のすぐそばにあるファーストフードショップ……に、ぼくは到着していた。
 ほどなくして、ハンバーガーを抱えた宮島が、店の中からでてくる。てっきり外からやってくるものだと思っていたので、思わぬ彼女の登場のしかたにぼくは少し意表をつかれ、「遅い!」という彼女の言葉に、さらに面食らった。「……約束の時間は九時だろ? まだ五分もある……」
 彼女は右手人差し指を立て、ちっちっち、と、その手を振った。「女の子と待ち合わせするんなら、十分前に来るのが礼儀ってもんでしょ?」……そんな礼儀、誰が決めたんだ? 反論する余地もなく……それに、彼女自身それを本気でいっていたわけではないのだろう……彼女は「さ、いきましょう」ぼくを先導するように、歩き出した。
「……どこへ?」
 ぼくの問いに、彼女は立ち止まり、大仰にため息をついた。「まさかこんなところで魔法の薬を飲まされるとでも思っていたの? ……薬はあたしの家にあるから、家までつきあってもらうわ」いってから、彼女は思いだしたように、つけ加えた。
「……家、駅からけっこうあるんだけど、どうする?」
「どうする、って?」
「歩く? それともバスを使う?」
「歩いてどのくらいかかるの?」
「……うーん、三十分くらいかなぁ」
「そのくらいなら、歩くよ。天気もいいし」
 いって、ぼくは空を見上げた。秋の高い空に、いくつか浮かんでいる雲がちょうどいいアクセントを添えている。秋もだんだん深まってきているから、だろう。朝九時の空気はまだ少し冷たく、けれどもそれは、とても心地よかった。
 ぼくの言葉に、宮島は「そういうと思った」彼女の顔をぼくは見ていなかったけれども、彼女がたぶん微笑んでいるだろう、というのは直感でわかった。「あたしも、歩く方が好きなんだ」
「魔法使いが?」
 ぼくは少し意地悪く問うたけれども、彼女はそれを軽くかわした。「いったでしょ? ほうきは乗り心地が悪いから嫌いなの」
「馬車でもなんでも作ればいいじゃないか」
「……あのね。今時、町中を馬車が闊歩してたら、他の人がどう思うと思っているの?」
 心底あきれた、というようにため息をついた宮島に、「冗談に決まってるじゃないか」ぼくはあわててつけ加えた。

 そんなふうに……初対面とは思えないくらいに……冗談を飛ばしあいながら、ぼくらは彼女の家についた。彼女の家は、どこにでもあるような、ごく普通の一戸建てだった。……まあ、別におどろおどろしい、いかにも「ここは魔法使いの家でござい」というような家を期待していたわけではないけれども、なんだか拍子抜けしてしまった。
 ぼくが家を眺めている間に、宮島は家の鍵を開け、玄関のドアを開いた。「さ、入って。今日は誰もいないから、大したもてなしはできないけど……」
 『誰もいない』の言葉に、妙な想像を働かせてしまったのも一瞬のことだった。宮島の家の居間に通され、そして彼女自身は二階……たぶん、自分の部屋があるんだろう……へ、階段をかけのぼる。ややあってから、階段を駆け下りるばたばたという足音が聞こえて、思わずぼくは、もう少し女の子らしくしたほうがいいんじゃないか? などと、くだらないことを考えてしまった。
 居間の障子を足で(!)開き、彼女はぼくの目の前に、透明な液体が八分目まで入った小瓶を二つおいた。
「……これが、その魔法の薬?」ぼくの問いに、「そう」と宮島はうなずきを返した。「で、これはなんの薬なの?」
「……惚れ薬」彼女のにやにや笑いで、ぼくはそれが彼女の冗談だということに、すぐに気づいたけれども、返す言葉が見つからず、ぼくは沈黙した。
 その沈黙をどうとらえたのだろう。「……冗談よ。飲んでみればわかるわ」彼女は「惚れ薬」というのをすぐに撤回して、小瓶を一本手にとって、ふたを開け、それを一息で飲み干した。
 ……おいおい。ぼくを「実験台」にするんじゃなかったのか? ぼくはぽかんとその様子を見つめ、そしてぼくの視線に気づいたのだろう。宮島は、ぼくに向かって微笑みかけた。
「さ、はやく飲んでよ。……見てたでしょ? 別に毒じゃないから、安心なさい」
 いわれるままにぼくは小瓶を手に取り、そしてふたを開け、彼女がしたのと同じように、一息でそれを飲み干した。甘いような、苦いような、何ともいえない不思議な味が口の中に残る。
 少しの間、ぼくはその薬の効き目があらわれてくるのを待ち……けれどもなんの変化もないことに、少しほっとしたような、残念なような気持ちになって、自分の手のひらを見た。「……別に、なんにもないじゃない?」ぼくの言葉に、宮島は「変ねぇ?」とつぶやきながら、立ち上がった。
 ……いや、正確には、立ち上がろうとした。
 そう。立ち上がろうとした彼女が腰を浮かせると、そのまま彼女はふうわりと、宙に浮き上がったのだ。驚きに目を丸くするぼくに、「やった! 大成功!」宙に浮いたまま、宮島は満面の笑みを浮かべた。
「峰岸くんも、ちょっとやってみて?」彼女の言葉に我に返ったぼくは、彼女がやったように……けれども少しおそるおそる……腰を浮かせた。
 ぼくは、彼女のようには宙に浮くことはなかった。けれども、なんだか不思議な浮遊感が、ぼくにつきまとっている。あるはずの体重が消えてしまっているような……足が地面にしっかりとついていないような、そんな不安定な感覚。
 ぼくは、そっと、床を蹴ってみた。
 ぼくの身体はゆっくりと宙に浮き、そして床から十センチほどのところで、静かにとまった。
「……宮島……この薬……?」
 よほど不安げな顔をしていたのだろう。ぼくの言葉に、宮島は「そんなに不安そうな顔、しなくたっていいじゃない。……安心なさい。薬の効果は、一時間くらいで消えるはずだから」いって、微笑んだ。
「さ、いきましょう。薬の効果が消えないうちに」宮島は、うながすようにぼくの手を取った。ぼくの手を握った宮島の手は、小さくて、柔らかくて、突然ぼくは、目の前の彼女が女の子だ、という事実に……あらためて……思い至った。
 内心の動揺が気取られませんように。ぼくは思いながら、ぼくの手を引っ張って家の玄関へ向かっている彼女に問うた。
「いくって、どこに?」
 宮島はぼくを振り返り、にこりと笑った。「決まってるでしょ? せっかく空が飛べるんだから……。空の散歩よ!」
 そうしてぼくらは家を出て、空へ舞いあがっていった。

 なれてしまえば、空を「飛ぶ」のは簡単だった。地面を蹴るのと同じ要領で、空気を蹴り上げることができるのだ。空気を蹴り上げ、上昇して、そして上昇の速度がゆるんだら再び空気を蹴り上げる。それはけっこうな労働だったけれど……二十分ほどもかけて上昇した空の上から見る街の景色は、……絶景だった。
 ぼくらはいま、相当な高さ……何メートルくらいなのか、判断するのは難しかったけれど……から、街を見下ろしている。
「うわ……あ……」乱れた呼吸を整えるのも忘れて、ぼくはそう簡単にはお目にかかることのできない景色を、見ていた。
「どう? ちょっとしたもんでしょ?」運動不足のぼくが息を切らしているのとは裏腹に、宮島の呼吸はいたっておだやかだった。彼女の言葉にぼくはうなずきを返して……
「あたしね、転校することが決まってから、一度この街に来たことがあるんだ」
 宮島は、ぼくのそばにゆっくりと近寄った。
「……街の中を歩いて、それからあたしが通う予定の学校を見て……」へえ、と驚いて、ぼくは彼女の方に顔を向けた。と、はじめて彼女とあったときのように、彼女の視線がぼくのそれとぶつかる。宮島は小さく微笑み、
「そしたら、校門から、峰岸くんがでてくるところだったの。……友達と、まじめな顔で妖精談義をしながら」
 ……いつのことだろう? 妖精談義とか、魔法の話とか、けっこうしょっちゅうしているから、それを特定するのは難しい。ぼくは即座にその日を特定することをあきらめて、宮島の言葉に耳を傾けた。
「おかしかったわ。現実にはいもしない妖精のことを、まじめな顔して話しているんだもの……」
 ……よくいうよ。自分だって、本当なら「現実にはいもしない存在」のくせして。思いはしたけれども、もちろん口には出さなかった。
 そして彼女はぼくに微笑みかけ……「だからね、あたし、決めたんだ。こっちに引っ越してきたら、峰岸くんに、妖精を見せてあげよう、って」
「それは……何というか……うれしいね」彼女の言葉にぼくはようやくそれだけを応え、
「だから、これはまず手始め。もうしばらくの間、峰岸くんにはいろんな魔法に触れてもらって、そうしたら、妖精たちにあわせてあげるわね」
 ふふふ、と、宮島は微笑み、そして「いけない。急がないと、薬の効果が切れちゃう。さ、帰りましょう?」ぼくをうながした。

 これが、ぼくと彼女……魔法使い、宮島順子……との長いつきあいの、はじまりだった。
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