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純粋な狂気

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 声をかけられて、私を見たナバート師は、本の影を指した。
隠れていろ、というのだろうか。困惑していると、顎で早く、と催促される。

仕方なく指示通りの場所に身を隠した。それを確認してドアを開ける音がする。
この場所からではドアが見えない。

「なんじゃ、騒々しい」
面倒くさそうに答えるナバート師。

「先生、お騒がせして申し訳ありません。人を探しておりまして……」
男は、とてもへりくだった物腰で話しかける。

「今大事な計算式を記しておった。間違った数値になったらお前さんがた、責任を取れるのかね」
凄みを増した声で言い募つのる。

「お邪魔をして申し訳ございません。が、しかしここに招いた客人が迷子になったようでして」

「そんなことわしに何の関係があるのだね? 研究の邪魔をしおって……」

その勢いに男たちも二の句が告げない様子だった。

「邪魔じゃ。まったく先程もアダラとかいう女と手下が2階で騒いでいて迷惑したのじゃ」

その一言に、男たちはざわめいて失礼しました、と慌てて屋敷を出て行った。


 静かになった屋敷の様子に、ナバート師は、もう出てきていいぞ、と声をかける。

「あの……ありがとうございました」

 若干埃まみれになったが、かくまってもらってとても助かった。でもなぜ?

「ふん。礼などいらんよ。勝手にやったことじゃからな」

そっぽを向いて鼻を鳴らす老人は、なぜか無表情だった。

「それにな。気が付いたんじゃ。わしは、何をやっているんじゃろう、とな」

「え?」

 私は思わず聞き返した。しかし、それに答えることはなく、ナバート師は自分の事を語り始めた。

 それは、私財をなげうち、薬草の研究をしていた若かりし頃の話から始まり、資金が底をついて
貧乏に喘いでいた時代、そして、薬草のさらなる可能性として、毒草をなんとか人の体の役に立つ
物として使えないか、そしてそれがやがては国の力になるだろうと考えて研究していた事。

 そんな時、ある男からの資金提供の話に乗り、今ここにいる事等を。

「その資金提供してきた男って言うのは……」

「知らん。ただ、わしの研究成果の毒を投与して、同時に渡した解毒剤を高く売りつけて
随分名を上げたようだったからな。今じゃ国一番の名医と言われておるそうじゃ。
わしは、研究が出来ればそれでよかったからな、そんな些細な事気にせんが」

「全然些細じゃないわ!それって詐欺じゃないんですか?! 人の命を弄もてあそんで!!」

 私は怒りのあまり気が遠くなりそうだった。しかし、ナバート師は淡々と話を続ける。

「研究さえ出来ればそれでよかったんじゃよ。でもな、ここに来て20年。さすがにわしも
この年になって振り返ってみたんじゃ。今までやっていた研究で、わしの作った薬を投与した
少女が昏睡している様子を見たら、これでよかったのか、とな」

「昏睡している……少女?」

「先日、夜半に奴らが少女を連れてきてどこかの部屋にかつぎ込んでいた。話ではわしの作った
薬を投薬して、解毒したという話だった。自分の研究成果を見たくて覗きに行ったよ」

「その子は、今はどこにいるんです?」

「大事ななんとかと言っておったから、死んではおらんじゃろうが、今はここにはおらん」

「どこに連れていたれたんですか?」

「さすがにわからんが、おそらくは、ユーラーティ神殿の地下にある研究室じゃろう。あいつが
頻繁に名前を出しておったからな」



「ところで、ここはどこなんですか?」

 はたと、今自分がどこにいるのかを聞くのを忘れていた。

「そうか。お前さん、かどわかされた人間じゃったのか」

ナバート師は、考え込み少し待つように言って奥の部屋から何か手にして戻ってきた。

「これを持っていけ。何かの役に立つじゃろう。それと、ここいらの地図じゃ」

 見ると、どこかの抜け道の図面のようだ。

そして、驚いたのは、もう一枚の物。それは、あのサラエリーナの主治医の家にあった額縁の裏の調合表の完全版だった。

「これは……調合表?」

思わず見入っていると、ほほう、とさすがにナバート師は声を上げる。

「お前さん、ひと目で理解するとは確かに優秀なんじゃのう」

 その言葉に何も答えず、扉に手をかける。そんな私にナバート師は声をかけた。

「10年前、毒薬を完成させた。一番最初の被験者は、ここから遠い街の薬草師の妻だったそうじゃ。
その女には子供がいて、ずっと母のそばで泣いていた、と聞いたことがあった。もし、機会があったらその子供が今どうしているのか調べてくれんか」

 その言葉に心臓が掴まれそうな思いがした。

母の事だ。母はこの男の作った薬で命を奪われたのか……。

そう考えると、心臓の鼓動が激しくなる。

「知ってどうするんです?」

 努めて冷静に答える。声に感情はこもらない。

すると、ナバート師は、静かな声で答える。

「わしの居場所を伝えてくれんか。もうわしも長くないからのう、ここまでの悪事を犯したんじゃ。
安楽に死ねるとは思わんが、どうせならその子供がわしを殺したいなら受け入れるつもりなんじゃ」

 覚悟を決めた目をしていた。穏やかでいて、強い光。

私は、何も言葉を発する事ができず、扉を開けて屋敷を後にした。
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