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第三章・二番目のお客様
次の日・新しい客、種村一哉
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銀猫旅行社は選ばれた者しか見つけられない。
それも、単に金や力があるだけではなく、「消せない過去を持ち、それでも前に進もうとした者」にだけ門が開く。
種村一哉は、ゲーム会社のCEOで34歳。夜のネットサーフィンをしていた。
いつもの何気ない検索のつもりだった。
「忘れられない人 死んだ恋人 なぜ死んだのか」
深夜二時。部屋の明かりを消してパソコンのモニターだけが煌々と光り輝いていた。
そのとき、画面に、ふと浮かび上がった一行のリンク。
《時間旅行や夢旅行をご希望ですか?》
手が止まった。そのリンクは、他のどれとも違って見えた。
フォントも、色も、ごく普通。なのに、そこだけ異常で静かに感じられた。
興味でカチ、とマウスを押した瞬間、画面がふっと暗転した。
次に表示されたのは、真っ白な画面に、ただ一言。
《あなたの時間を巻き戻すには、覚悟が必要です。》というリンク。
更に進むうち眠気が勝ってしまい、その後のことは覚えていない。
翌朝、何度検索しても、昨日のリンクは出てこなかった。
履歴も、キャッシュも、どこにも残っていない。
でも、彼のデスクトップには――
ひとつだけ見覚えのないPDFファイルが落ちていた。
【ツアー申込書_過去.pdf】
PDFをダブルクリックすると、真っ白な背景に突然文字が浮き上がった。
ようこそ。あなたの“後悔”に対応する時間旅行ツアーへのご案内です。
■対象時刻:10年前・6月12日・午後8時~午前0時
■対象場所:日向香織邸付近
■目的内容:観察・記憶再確認
■見積内容:一億円(明日当日払い)
▼本申請を希望される方は、本ファイルを印刷し署名の上、封筒にてご送付ください。
※送付先は住所封筒書き入れ時にのみ表示されます。
二回最後まで目を通すと、PDFはまた真っ白な背景だけになった。
支払いが明日と書かれていた為、急がなくてはならない気がして、一哉はすぐに印刷用紙をセットする。
印刷している間も、一哉は何故、香織の名前が出てきているのか半信半疑だった。香織は一哉のいわゆる元カノだったが、10年前に別れを告げた日の次の日に遺体として発見された。死因は不明だった。自分が別れていなければ、そこに泊まっていれば、阻止できたかもしれないという”後悔”が、一哉に纏わり付いて離れないのだった。
そうするうち、プリンターが唸りを上げて止まる。
印刷されたPDFには、確かに自分の名前と、あの日の日時と、香織の名前が記されていた。
一哉は、インクの乾きを確認してから、ペンを手に取った。
何も特別なことじゃない。ただの申込書の送付だ。
だが、そう自分に言い聞かせながらも、手はわずかに汗ばんでいた。
白い封筒に、自分の名前を書いたあと、宛名の欄にペン先を近づける。
……そのときだった。
ペン先が、封筒に触れた瞬間、一哉の耳に、“音のない音”のようなものが走った。
ふ、と部屋の空気が変わった。
壁の時計が、わずかに遅れて“コッ”と音を鳴らしたように聞こえた。
光の加減すら、まるで一瞬だけ、昼と夜の境界を踏み外したように思えた。
そして――
何も書いていないはずの封筒の宛名欄に、ペン先が触れた場所から、黒いインクがじわじわとにじみ出した。まるで封筒そのものが、一哉の意志を読み取ったかのように。書いていないのに、文字が浮かび上がっていく。その文字は、すでに最後まで正確に、整然と浮かび上がっていた。
《東京都新宿区高田馬場2丁目……》
「……書いていないのに……なんだったんだ?」
インクが乾く間もなく、その封筒はまるで“目的を得た器”のように、重くなった気がした。
一哉はとりあえず、スマホで住所の撮影を試みたが、何度撮っても住所が写らない。何も書いていない封筒だけが写る。ゾッとして怖くなったが、過去、自分が帰宅した後に何があったのか知りたい欲求が勝った。
写真が駄目なら書き写せばいいと、ペンとメモを持って再度封筒の前に立つと、今度は封筒が忽然となくなっていた。次にはドアホンが鳴った。オートロック式の家のドアすぐ前に、3つのセキュリティロックを突破して、誰かが立っている。
「どなたですか?」
聞いても答えず、ふと目をずらした途端、そこに写っていた誰かの影はもういない。一応確認のためにドアを開けると、足下に黒い封筒が落ちていた。
封筒を開けてみると、黒い封筒の中には、何かを閉じ込めたような静寂があった。
中から出てきたのは、黒一色の厚紙でできたタクシーチケットと、わずかに銀の光沢を持つ文字で印刷されたカード。
【銀猫旅行社】
お迎え時間:明日 午後13:00
乗車地:高田馬場駅前 ロータリー裏
※このカードは、人の目に触れると消失します。
※タクシーは黒の「専用車両」です。
書いてある通り、カードの文字はみるみるうちに見えなくなった。
「13時か、先に銀行に行って金を下ろさないとな……銀行に電話入れとくか……とりあえず会社は休もう」
*
次の日、一哉は銀行に寄って金を下ろすと、高田馬場に向かった。
13時ぴったり。ロータリー裏。
一哉の前に停まった黒い車は、ナンバーも会社名も一切なかった。
後部座席の窓が、音もなく開く。
「……種村一哉様ですね?」
運転席の声は、機械の合成音声そっくりだった。
一哉は、シートに背中を預けると、車内の空気は異様なほど無音だった。
エンジン音すら聞こえず、風景が静かに後ろへ流れていく。
それに反して、一哉の頭の中には、あの夜の言葉が、くっきりと甦っていた。
「……別れたくないって、言ったら困る?」
香織は、いつもの冗談めかした声でそう言った。
一哉は、まっすぐには答えられなかった。
「……香織、そういうの、ずるいよ」
「ふふ……そうよね。私、ずっとずるかった」
そのとき香織は笑っていた。
けれど、その笑顔の奥に、“なにか”を隠していた気がする。
それに一哉は、一切気付こうとしなかった。
車は滑るように住宅街を抜けていく。
金曜日の昼下がり。犬の散歩をする老夫婦、ランニングをする人。
けれど、そのすべてが、一哉の目には遠くの幻のように映っていた。
香織の顔が、車窓に映った。振り返ればいつも、優しい子だった。
怒ることも責めることも、なかった。
だからこそ、別れた。その優しさが、怖くなった。
「……俺は、あの時、何を怖がってたんだ」
一哉は、窓にもたれかかりながら呟いた。
耳に残っているのは、あの夜の、香織の声。
「私、ちゃんと、さよならって言えないかもしれない」
「ずるいよ、それ……」
「そう。だから、言わない」
ただ微笑んで、彼女は黙った。
その沈黙が、ずっと一哉の中に残っていた。
手に握った黒封筒が、ぬるりとした質感を伝えてくる。現実のそれとは思えない、夢の膜のような感触。香織が死んだ翌朝、警察に呼ばれ、説明と昨日の晩に何をしていたか聞かれた。そのまま帰されたが、一哉はその日、何も考えられなかった。ただ、光が差し込む部屋の中で、ずっと椅子に座っていた。
今なら言えるかもしれない。
あの時、言えなかったこと。
それを伝えることはできないかもしれない。けれど、見届けることならできるかもしれない。
彼女の、あの夜の“本当の顔”を。
そのとき――
黒い車は、静かに停まった。
車窓の外に、優美なアイアンゲートが見えた。
銀色の猫の飾りが、光を受けて静かに輝いていた。
門には、艶やかな銀の文字で刻まれたプレート。
《銀猫旅行社》
運転手は何も言わず、黒い車のドアが音もなく開いた。
一哉が足を外に出すと、そこは――静かな住宅街の片隅に、違和感のように佇む洋館の前だった。
レンガの塀に囲まれた庭。
黒くて丸みを帯びたアイアンゲートには、銀色の猫の装飾が絡まっている。光を浴びてきらりと輝いたその瞬間、一哉はなぜか”時間が呼吸した”ような気がした。ゲートには鍵もなく、触れずとも――静かに、音も立てずに開いた。
小さな砂利の小道を進むと、重厚な石造りの玄関ポーチ。枯れた気配のないバラが咲き、空気はどこか、季節から切り離されたような匂いをしていた。
ドアの前に立つと、インターホンのボタンを押す。
ピンポ――ン
ガチャリとドアが開くと、黒装束の女性が現れた。
「種村一哉様ですね?」
一哉が玄関の敷居をまたぐと、空気が変わった。外の昼下がりの光が嘘のように、玄関ホールは穏やかな夕暮れ時の色に満たされていた。天井は高く、木の梁が走っている。壁にはヴィクトリアン調の淡いグリーンの壁紙。中央には、大理石の螺旋階段がゆるやかに登っていて、柱の根元には銀色の猫の彫刻があしらわれていた。
足元には、まるで音を吸い込むような深い藍色の絨毯。
絨毯の縁には、時間の象徴のような文様が織り込まれている――
砂時計、星図、月齢、歯車、時計の針。
柱時計がひとつ、音を立てずに時を刻んでいた。
その秒針は、“止まったり進んだり”を繰り返していた。
「こちらです」
黒装束の後ろ姿は、まるでこの家そのものの“影”のようだった。廊下は長く、天井には大小様々なシャンデリアが並んでいる。夕方の光が、季節も時間も関係なく、静かに降り注いでいる。
通されたのは、応接室というにはあまりに重厚な一室だった。
マホガニーのテーブル、上には温かい明かりが灯るライト。窓辺には一冊の古書と、銀猫をかたどったブックエンド。壁には、時間の風景を描いた油絵が並んでいた。朝焼けの部屋、砂嵐の中の家、沈む月と溶ける時計……どれも、どこか“あり得そうで見たことのない”世界だった。
一哉はふと、壁の一角にある大きな本棚に気づいた。そこに収められているのは、本や書類ケースだった。黒く装丁されたファイルや、見たこともない形の書類ケース。背表紙には、まるで日付のような、過去や未来の記録の羅列。
「あれは……」
「“お客様の時間”です」
黒装束の女が答える。声は柔らかいが、その言葉の重さが空間に沈む。
男が後ろで立ち上がる。
「銀猫旅行社へようこそ。私が代表の黒川終一です」
「種村です。どうぞ宜しく……」
「今コーヒーを煎れさせていますので、お掛けになって暫くお待ちを……」
「分かりました」
「敬祐、そろそろ出せるかい?」
社長にそう言われ、僕は銀盆を片手にコーヒーを運んでいった。
それも、単に金や力があるだけではなく、「消せない過去を持ち、それでも前に進もうとした者」にだけ門が開く。
種村一哉は、ゲーム会社のCEOで34歳。夜のネットサーフィンをしていた。
いつもの何気ない検索のつもりだった。
「忘れられない人 死んだ恋人 なぜ死んだのか」
深夜二時。部屋の明かりを消してパソコンのモニターだけが煌々と光り輝いていた。
そのとき、画面に、ふと浮かび上がった一行のリンク。
《時間旅行や夢旅行をご希望ですか?》
手が止まった。そのリンクは、他のどれとも違って見えた。
フォントも、色も、ごく普通。なのに、そこだけ異常で静かに感じられた。
興味でカチ、とマウスを押した瞬間、画面がふっと暗転した。
次に表示されたのは、真っ白な画面に、ただ一言。
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更に進むうち眠気が勝ってしまい、その後のことは覚えていない。
翌朝、何度検索しても、昨日のリンクは出てこなかった。
履歴も、キャッシュも、どこにも残っていない。
でも、彼のデスクトップには――
ひとつだけ見覚えのないPDFファイルが落ちていた。
【ツアー申込書_過去.pdf】
PDFをダブルクリックすると、真っ白な背景に突然文字が浮き上がった。
ようこそ。あなたの“後悔”に対応する時間旅行ツアーへのご案内です。
■対象時刻:10年前・6月12日・午後8時~午前0時
■対象場所:日向香織邸付近
■目的内容:観察・記憶再確認
■見積内容:一億円(明日当日払い)
▼本申請を希望される方は、本ファイルを印刷し署名の上、封筒にてご送付ください。
※送付先は住所封筒書き入れ時にのみ表示されます。
二回最後まで目を通すと、PDFはまた真っ白な背景だけになった。
支払いが明日と書かれていた為、急がなくてはならない気がして、一哉はすぐに印刷用紙をセットする。
印刷している間も、一哉は何故、香織の名前が出てきているのか半信半疑だった。香織は一哉のいわゆる元カノだったが、10年前に別れを告げた日の次の日に遺体として発見された。死因は不明だった。自分が別れていなければ、そこに泊まっていれば、阻止できたかもしれないという”後悔”が、一哉に纏わり付いて離れないのだった。
そうするうち、プリンターが唸りを上げて止まる。
印刷されたPDFには、確かに自分の名前と、あの日の日時と、香織の名前が記されていた。
一哉は、インクの乾きを確認してから、ペンを手に取った。
何も特別なことじゃない。ただの申込書の送付だ。
だが、そう自分に言い聞かせながらも、手はわずかに汗ばんでいた。
白い封筒に、自分の名前を書いたあと、宛名の欄にペン先を近づける。
……そのときだった。
ペン先が、封筒に触れた瞬間、一哉の耳に、“音のない音”のようなものが走った。
ふ、と部屋の空気が変わった。
壁の時計が、わずかに遅れて“コッ”と音を鳴らしたように聞こえた。
光の加減すら、まるで一瞬だけ、昼と夜の境界を踏み外したように思えた。
そして――
何も書いていないはずの封筒の宛名欄に、ペン先が触れた場所から、黒いインクがじわじわとにじみ出した。まるで封筒そのものが、一哉の意志を読み取ったかのように。書いていないのに、文字が浮かび上がっていく。その文字は、すでに最後まで正確に、整然と浮かび上がっていた。
《東京都新宿区高田馬場2丁目……》
「……書いていないのに……なんだったんだ?」
インクが乾く間もなく、その封筒はまるで“目的を得た器”のように、重くなった気がした。
一哉はとりあえず、スマホで住所の撮影を試みたが、何度撮っても住所が写らない。何も書いていない封筒だけが写る。ゾッとして怖くなったが、過去、自分が帰宅した後に何があったのか知りたい欲求が勝った。
写真が駄目なら書き写せばいいと、ペンとメモを持って再度封筒の前に立つと、今度は封筒が忽然となくなっていた。次にはドアホンが鳴った。オートロック式の家のドアすぐ前に、3つのセキュリティロックを突破して、誰かが立っている。
「どなたですか?」
聞いても答えず、ふと目をずらした途端、そこに写っていた誰かの影はもういない。一応確認のためにドアを開けると、足下に黒い封筒が落ちていた。
封筒を開けてみると、黒い封筒の中には、何かを閉じ込めたような静寂があった。
中から出てきたのは、黒一色の厚紙でできたタクシーチケットと、わずかに銀の光沢を持つ文字で印刷されたカード。
【銀猫旅行社】
お迎え時間:明日 午後13:00
乗車地:高田馬場駅前 ロータリー裏
※このカードは、人の目に触れると消失します。
※タクシーは黒の「専用車両」です。
書いてある通り、カードの文字はみるみるうちに見えなくなった。
「13時か、先に銀行に行って金を下ろさないとな……銀行に電話入れとくか……とりあえず会社は休もう」
*
次の日、一哉は銀行に寄って金を下ろすと、高田馬場に向かった。
13時ぴったり。ロータリー裏。
一哉の前に停まった黒い車は、ナンバーも会社名も一切なかった。
後部座席の窓が、音もなく開く。
「……種村一哉様ですね?」
運転席の声は、機械の合成音声そっくりだった。
一哉は、シートに背中を預けると、車内の空気は異様なほど無音だった。
エンジン音すら聞こえず、風景が静かに後ろへ流れていく。
それに反して、一哉の頭の中には、あの夜の言葉が、くっきりと甦っていた。
「……別れたくないって、言ったら困る?」
香織は、いつもの冗談めかした声でそう言った。
一哉は、まっすぐには答えられなかった。
「……香織、そういうの、ずるいよ」
「ふふ……そうよね。私、ずっとずるかった」
そのとき香織は笑っていた。
けれど、その笑顔の奥に、“なにか”を隠していた気がする。
それに一哉は、一切気付こうとしなかった。
車は滑るように住宅街を抜けていく。
金曜日の昼下がり。犬の散歩をする老夫婦、ランニングをする人。
けれど、そのすべてが、一哉の目には遠くの幻のように映っていた。
香織の顔が、車窓に映った。振り返ればいつも、優しい子だった。
怒ることも責めることも、なかった。
だからこそ、別れた。その優しさが、怖くなった。
「……俺は、あの時、何を怖がってたんだ」
一哉は、窓にもたれかかりながら呟いた。
耳に残っているのは、あの夜の、香織の声。
「私、ちゃんと、さよならって言えないかもしれない」
「ずるいよ、それ……」
「そう。だから、言わない」
ただ微笑んで、彼女は黙った。
その沈黙が、ずっと一哉の中に残っていた。
手に握った黒封筒が、ぬるりとした質感を伝えてくる。現実のそれとは思えない、夢の膜のような感触。香織が死んだ翌朝、警察に呼ばれ、説明と昨日の晩に何をしていたか聞かれた。そのまま帰されたが、一哉はその日、何も考えられなかった。ただ、光が差し込む部屋の中で、ずっと椅子に座っていた。
今なら言えるかもしれない。
あの時、言えなかったこと。
それを伝えることはできないかもしれない。けれど、見届けることならできるかもしれない。
彼女の、あの夜の“本当の顔”を。
そのとき――
黒い車は、静かに停まった。
車窓の外に、優美なアイアンゲートが見えた。
銀色の猫の飾りが、光を受けて静かに輝いていた。
門には、艶やかな銀の文字で刻まれたプレート。
《銀猫旅行社》
運転手は何も言わず、黒い車のドアが音もなく開いた。
一哉が足を外に出すと、そこは――静かな住宅街の片隅に、違和感のように佇む洋館の前だった。
レンガの塀に囲まれた庭。
黒くて丸みを帯びたアイアンゲートには、銀色の猫の装飾が絡まっている。光を浴びてきらりと輝いたその瞬間、一哉はなぜか”時間が呼吸した”ような気がした。ゲートには鍵もなく、触れずとも――静かに、音も立てずに開いた。
小さな砂利の小道を進むと、重厚な石造りの玄関ポーチ。枯れた気配のないバラが咲き、空気はどこか、季節から切り離されたような匂いをしていた。
ドアの前に立つと、インターホンのボタンを押す。
ピンポ――ン
ガチャリとドアが開くと、黒装束の女性が現れた。
「種村一哉様ですね?」
一哉が玄関の敷居をまたぐと、空気が変わった。外の昼下がりの光が嘘のように、玄関ホールは穏やかな夕暮れ時の色に満たされていた。天井は高く、木の梁が走っている。壁にはヴィクトリアン調の淡いグリーンの壁紙。中央には、大理石の螺旋階段がゆるやかに登っていて、柱の根元には銀色の猫の彫刻があしらわれていた。
足元には、まるで音を吸い込むような深い藍色の絨毯。
絨毯の縁には、時間の象徴のような文様が織り込まれている――
砂時計、星図、月齢、歯車、時計の針。
柱時計がひとつ、音を立てずに時を刻んでいた。
その秒針は、“止まったり進んだり”を繰り返していた。
「こちらです」
黒装束の後ろ姿は、まるでこの家そのものの“影”のようだった。廊下は長く、天井には大小様々なシャンデリアが並んでいる。夕方の光が、季節も時間も関係なく、静かに降り注いでいる。
通されたのは、応接室というにはあまりに重厚な一室だった。
マホガニーのテーブル、上には温かい明かりが灯るライト。窓辺には一冊の古書と、銀猫をかたどったブックエンド。壁には、時間の風景を描いた油絵が並んでいた。朝焼けの部屋、砂嵐の中の家、沈む月と溶ける時計……どれも、どこか“あり得そうで見たことのない”世界だった。
一哉はふと、壁の一角にある大きな本棚に気づいた。そこに収められているのは、本や書類ケースだった。黒く装丁されたファイルや、見たこともない形の書類ケース。背表紙には、まるで日付のような、過去や未来の記録の羅列。
「あれは……」
「“お客様の時間”です」
黒装束の女が答える。声は柔らかいが、その言葉の重さが空間に沈む。
男が後ろで立ち上がる。
「銀猫旅行社へようこそ。私が代表の黒川終一です」
「種村です。どうぞ宜しく……」
「今コーヒーを煎れさせていますので、お掛けになって暫くお待ちを……」
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