【完結】サクラと僕~君がいた、あの夏~

相田ゆき(渡辺河童@あいだ啓壱)

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朝の光のなかで

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 ――朝が来た。

窓の外から聞こえるのは、静かな雨だれの音だけだった。
昨夜の嵐が嘘だったかのように、空は薄く晴れ、遠くの山に朝霧がゆらゆらと立ちのぼっていた。

賢は、布団の中でしばらく天井を見つめていた。

頭の中が静かすぎて、逆に心がざわめいた。

夢だったのかもしれない――
そう思いたかった。

でも、レインコートに染みついた泥のにおいが、まだ鼻の奥に残っていた。

枕元には、昨夜祖母が黙って置いていったタオルと、熱いお茶の入った湯呑み。
冷めきっていたけれど、その心遣いが胸に沁みた。

ゆっくりと起き上がり、賢はふすまを開けて縁側に出た。

外の空気は、ひんやりとしていて、どこか新しかった。
濡れた庭の草、風に揺れる木の葉、濁っていた川の水も、少しだけ落ち着きを取り戻していた。

ふと、川沿いの土手の方に視線をやる。

そこには、何もいなかった。
白い毛並みも、金色の瞳も。

「……そっか」

ぽつりと声が漏れた。

涙は出なかった。
泣けるほど、まだ実感がなかった。

それでも、胸の奥に空いた穴のようなものが、はっきりとそこにあった。

足元に目を落とすと、縁側の柱の陰に、小さな白い毛が一房落ちていた。
風に乗って運ばれてきたのかもしれない。

賢は、それをそっと手に取った。

手のひらの上で、柔らかな光を帯びるようなその毛が、まるでサクラの温もりを最後に残してくれたような気がして――ふっと、微笑んだ。

「ありがとう、サクラ」

言葉にして、やっと少しだけ、呼吸が深くなった気がした。

そのとき、背後から祖母の声がした。

「……あの子は、賢を迎えに来たのかもしれんねぇ」

振り向くと、祖母はいつもの割烹着姿で、湯気の立つ味噌汁を盆に載せていた。

「迎えに?」

「そう。……昔もね、おばあちゃんがひとりで泣きよったとき、不思議とあの猫が現れたの。
 いつも決まって、ひとが寂しいときに、そこにおるの。
 でも、誰かが前に進めるようになると、ふっと姿を消すんじゃよ」

そう言って祖母は、そっと微笑んだ。

「寂しいけど、きっと、あの子はもう安心したんよ。賢がちゃんと、自分の足で歩けるようになったけぇ」

言葉が、胸にじんと染み込んでくる。

サクラは、ずっと自分の隣にいてくれた。
何も言わず、ただ見守ってくれていた。

そして今、姿は消えたけれど、確かに何かを残していってくれた気がした。

あの金色の瞳が、最後にこちらを見ていたときの静けさ。
あれは、たしかに「さよなら」じゃなかった。

それは――「だいじょうぶ」という、最後の言葉だったのかもしれない。

味噌汁の湯気を口に含みながら、賢は静かに思った。

これから先、きっといろんなことがある。
また怖くなったり、誰かに傷つけられたり、自分が嫌になったりするかもしれない。

けれど、ひとりじゃないと、思える。
そう思えるだけで、こんなにも違うのだと、今ならわかる。

もう一度、学校に行ってみよう。
そう決めたわけではなかった。
けれど、心のどこかで「行けるかもしれない」と思える自分がいた。

それだけで、十分だった。

食後、賢は桜の木のある川辺へと歩いた。
泥のぬかるみもすっかり乾き始めていて、蝉が鳴き始めていた。

そして――木の根元に、小さな首輪が落ちていた。

真っ白なリボンに、古びた鈴がひとつだけついている。

賢はそっと拾い上げて、手のひらの中で鳴らしてみた。
ちりん――と、ほとんど聞こえないほどの小さな音が、夏の空に溶けていった。

「……サクラ、見てるか?」

風が吹いた。

それはまるで、返事のように優しかった。
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