7 / 9
朝の光のなかで
しおりを挟む
――朝が来た。
窓の外から聞こえるのは、静かな雨だれの音だけだった。
昨夜の嵐が嘘だったかのように、空は薄く晴れ、遠くの山に朝霧がゆらゆらと立ちのぼっていた。
賢は、布団の中でしばらく天井を見つめていた。
頭の中が静かすぎて、逆に心がざわめいた。
夢だったのかもしれない――
そう思いたかった。
でも、レインコートに染みついた泥のにおいが、まだ鼻の奥に残っていた。
枕元には、昨夜祖母が黙って置いていったタオルと、熱いお茶の入った湯呑み。
冷めきっていたけれど、その心遣いが胸に沁みた。
ゆっくりと起き上がり、賢はふすまを開けて縁側に出た。
外の空気は、ひんやりとしていて、どこか新しかった。
濡れた庭の草、風に揺れる木の葉、濁っていた川の水も、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
ふと、川沿いの土手の方に視線をやる。
そこには、何もいなかった。
白い毛並みも、金色の瞳も。
「……そっか」
ぽつりと声が漏れた。
涙は出なかった。
泣けるほど、まだ実感がなかった。
それでも、胸の奥に空いた穴のようなものが、はっきりとそこにあった。
足元に目を落とすと、縁側の柱の陰に、小さな白い毛が一房落ちていた。
風に乗って運ばれてきたのかもしれない。
賢は、それをそっと手に取った。
手のひらの上で、柔らかな光を帯びるようなその毛が、まるでサクラの温もりを最後に残してくれたような気がして――ふっと、微笑んだ。
「ありがとう、サクラ」
言葉にして、やっと少しだけ、呼吸が深くなった気がした。
そのとき、背後から祖母の声がした。
「……あの子は、賢を迎えに来たのかもしれんねぇ」
振り向くと、祖母はいつもの割烹着姿で、湯気の立つ味噌汁を盆に載せていた。
「迎えに?」
「そう。……昔もね、おばあちゃんがひとりで泣きよったとき、不思議とあの猫が現れたの。
いつも決まって、ひとが寂しいときに、そこにおるの。
でも、誰かが前に進めるようになると、ふっと姿を消すんじゃよ」
そう言って祖母は、そっと微笑んだ。
「寂しいけど、きっと、あの子はもう安心したんよ。賢がちゃんと、自分の足で歩けるようになったけぇ」
言葉が、胸にじんと染み込んでくる。
サクラは、ずっと自分の隣にいてくれた。
何も言わず、ただ見守ってくれていた。
そして今、姿は消えたけれど、確かに何かを残していってくれた気がした。
あの金色の瞳が、最後にこちらを見ていたときの静けさ。
あれは、たしかに「さよなら」じゃなかった。
それは――「だいじょうぶ」という、最後の言葉だったのかもしれない。
味噌汁の湯気を口に含みながら、賢は静かに思った。
これから先、きっといろんなことがある。
また怖くなったり、誰かに傷つけられたり、自分が嫌になったりするかもしれない。
けれど、ひとりじゃないと、思える。
そう思えるだけで、こんなにも違うのだと、今ならわかる。
もう一度、学校に行ってみよう。
そう決めたわけではなかった。
けれど、心のどこかで「行けるかもしれない」と思える自分がいた。
それだけで、十分だった。
食後、賢は桜の木のある川辺へと歩いた。
泥のぬかるみもすっかり乾き始めていて、蝉が鳴き始めていた。
そして――木の根元に、小さな首輪が落ちていた。
真っ白なリボンに、古びた鈴がひとつだけついている。
賢はそっと拾い上げて、手のひらの中で鳴らしてみた。
ちりん――と、ほとんど聞こえないほどの小さな音が、夏の空に溶けていった。
「……サクラ、見てるか?」
風が吹いた。
それはまるで、返事のように優しかった。
窓の外から聞こえるのは、静かな雨だれの音だけだった。
昨夜の嵐が嘘だったかのように、空は薄く晴れ、遠くの山に朝霧がゆらゆらと立ちのぼっていた。
賢は、布団の中でしばらく天井を見つめていた。
頭の中が静かすぎて、逆に心がざわめいた。
夢だったのかもしれない――
そう思いたかった。
でも、レインコートに染みついた泥のにおいが、まだ鼻の奥に残っていた。
枕元には、昨夜祖母が黙って置いていったタオルと、熱いお茶の入った湯呑み。
冷めきっていたけれど、その心遣いが胸に沁みた。
ゆっくりと起き上がり、賢はふすまを開けて縁側に出た。
外の空気は、ひんやりとしていて、どこか新しかった。
濡れた庭の草、風に揺れる木の葉、濁っていた川の水も、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
ふと、川沿いの土手の方に視線をやる。
そこには、何もいなかった。
白い毛並みも、金色の瞳も。
「……そっか」
ぽつりと声が漏れた。
涙は出なかった。
泣けるほど、まだ実感がなかった。
それでも、胸の奥に空いた穴のようなものが、はっきりとそこにあった。
足元に目を落とすと、縁側の柱の陰に、小さな白い毛が一房落ちていた。
風に乗って運ばれてきたのかもしれない。
賢は、それをそっと手に取った。
手のひらの上で、柔らかな光を帯びるようなその毛が、まるでサクラの温もりを最後に残してくれたような気がして――ふっと、微笑んだ。
「ありがとう、サクラ」
言葉にして、やっと少しだけ、呼吸が深くなった気がした。
そのとき、背後から祖母の声がした。
「……あの子は、賢を迎えに来たのかもしれんねぇ」
振り向くと、祖母はいつもの割烹着姿で、湯気の立つ味噌汁を盆に載せていた。
「迎えに?」
「そう。……昔もね、おばあちゃんがひとりで泣きよったとき、不思議とあの猫が現れたの。
いつも決まって、ひとが寂しいときに、そこにおるの。
でも、誰かが前に進めるようになると、ふっと姿を消すんじゃよ」
そう言って祖母は、そっと微笑んだ。
「寂しいけど、きっと、あの子はもう安心したんよ。賢がちゃんと、自分の足で歩けるようになったけぇ」
言葉が、胸にじんと染み込んでくる。
サクラは、ずっと自分の隣にいてくれた。
何も言わず、ただ見守ってくれていた。
そして今、姿は消えたけれど、確かに何かを残していってくれた気がした。
あの金色の瞳が、最後にこちらを見ていたときの静けさ。
あれは、たしかに「さよなら」じゃなかった。
それは――「だいじょうぶ」という、最後の言葉だったのかもしれない。
味噌汁の湯気を口に含みながら、賢は静かに思った。
これから先、きっといろんなことがある。
また怖くなったり、誰かに傷つけられたり、自分が嫌になったりするかもしれない。
けれど、ひとりじゃないと、思える。
そう思えるだけで、こんなにも違うのだと、今ならわかる。
もう一度、学校に行ってみよう。
そう決めたわけではなかった。
けれど、心のどこかで「行けるかもしれない」と思える自分がいた。
それだけで、十分だった。
食後、賢は桜の木のある川辺へと歩いた。
泥のぬかるみもすっかり乾き始めていて、蝉が鳴き始めていた。
そして――木の根元に、小さな首輪が落ちていた。
真っ白なリボンに、古びた鈴がひとつだけついている。
賢はそっと拾い上げて、手のひらの中で鳴らしてみた。
ちりん――と、ほとんど聞こえないほどの小さな音が、夏の空に溶けていった。
「……サクラ、見てるか?」
風が吹いた。
それはまるで、返事のように優しかった。
10
あなたにおすすめの小説
「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します
スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」
眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。
隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。
エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。
しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。
彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。
「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」
裏切りへのカウントダウンが今、始まる。
スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
白椿の咲く日~ひそかな恋、遠い日の思いは
紫さゆり
恋愛
結婚を控えた真由子は、久しぶりに異母姉の稚子(わかこ)と会う。
真由子の母の雪江は、大学教授であり著名な歌人の水上実之(みなかみさねゆき)の後添いとして水上家に嫁いだ。
婚約者の諒人(りょうと)のことなど、真由子は稚子と色々語り合ううち、庭の白椿の木は真由子がなついていた異母兄、靖之が植えたものだと知る。
白椿の木をめぐっての、ひそかな大人の恋物語です。
薫る袖の追憶を捨て、月光の君に溺愛される
あとりえむ
恋愛
名門の姫君・茜は、夫の高彬に蔑まれ、寂れた離れで孤独な死を迎えた……
けれど意識が途切れた瞬間、視界を埋め尽くしたのは命を削って輝く緋色の夕映え。
目が覚めると、そこは高彬との婚約が決まったばかりの十五歳の春に戻っていた。
「二度目の人生では、誰のことも愛さず、ただあの方の幸せだけを願おう」
茜は、かつて自身の孤独を救ってくれた「最推し」の東宮・暁を、未来の知識で密かに支えることを決意する。
執着を捨て、元夫に無関心を貫く茜。
一方、高彬は自分に興味を失った茜の価値に気づき、今更遅い後悔に狂い始めるが……。
「見つけた。お前は俺の、運命の番だ」
正体を隠して東宮を支えていたはずが、冷徹な暁に見出され、逃げ場のないほどの執着と溺愛を注がれることに。
平安の雅な風情の中で描かれる、逆転と救済の物語。
最後は、二人が永遠の契りを交わす和歌で幕を閉じます。
上手に騙してくださらなかった伯爵様へ
しきど
恋愛
アイルザート・ルテシオ伯爵は十七歳で家督を継いだ方だ。
文武両道、容姿端麗、人柄も良く領民の誰からも愛される方だった。そんな若き英雄の婚約者に選ばれたメリッサ・オードバーン子爵令嬢は、自身を果報者と信じて疑っていなかった。
彼が屋敷のメイドと関係を持っていると知る事になる、その時までは。
貴族に愛人がいる事など珍しくもない。そんな事は分かっているつもりだった。分かっていてそれでも、許せなかった。
メリッサにとってアイルザートは、本心から愛した人だったから。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる