8 / 9
帰る場所
しおりを挟む
蝉の声が、少しだけ遠ざかった気がした。
暑さはまだ残っていたけれど、風の匂いが変わった。
あれほど賑やかだった夏の音たちが、ふと息をひそめたように思えた。
帰京の日は、突然決まったわけではない。
けれど、それはどこかで「そろそろだ」と自分の中で決まっていたことだった。
祖母は何も言わなかった。
ただ「荷造り、手伝おうか?」とだけ訊いてきた。
賢は「ううん、自分でやるよ」と答えた。
帰ることに迷いがなかったわけではない。
あの静かな家、朝の味噌汁の匂い、虫の声、サクラと過ごした日々。
それらを背に置いていくことが、正直、少し怖かった。
でも、もう一度、自分の場所に戻ってみよう――
そんな気持ちが、ゆっくりと胸のなかに根を張っていた。
*
――祖母の家を出る朝、賢は庭に立って、深く息を吸い込んだ。
空は高く晴れていて、山の稜線がくっきりと見える。
ふと視線を落とすと、縁側の柱の陰に、またあの白い毛が一房残っていた。
その毛も「サクラコレクション」として、小さな巾着袋に入れた。
風に吹かれて揺れているその様が、まるで「じゃあね」と言っているようで、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
「行ってきます」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いたその声に、自分でも驚いた。
それは、「ただいま」を前提にした言葉だった。
駅までの道は、祖母が軽トラックで送ってくれた。
途中、田んぼのあぜ道で、良二が立っていた。
大きく手を振って、帽子を押さえながら走ってくる。
「けんにいちゃーん!!」
車を止めると、良二が息を切らして窓のそばにやってきた。
「ねえ、また来る? 来年も来る?」
「……さあな」
そう答えながらも、賢は笑っていた。
笑うことが、もう自然になっていた。
「手紙書いていい?」
「字、読めんのかよ」
「書けるもん! 『けんにいちゃんげんきですか』って、ちゃんと書く!」
「じゃあ、楽しみにしてる」
賢はそう言って、窓越しに拳を突き出した。
良二が嬉しそうに自分の拳をぶつけてくる。
「……またな」
「うん、またの!」
トラックが走り出し、良二の姿が遠くなっていく。
でもその声は、しばらく耳の中で残っていた。
駅前に着くと、おばあちゃんは僕をぎゅっと抱きしめた。
「何かあって嫌になったり、うちに会いとうなったら、またおいで」
「うん、おばあちゃん。大好き、ありがとう……」
電車に揺られながら、窓の外に流れる景色を眺めていた。
山々の影が遠のき、やがて畑が消え、建物が増え始め、ビルの影が近づいてくる。
東京が近づいてくるにつれ、車内の空気も少しずつざわついてくる。
だが不思議と、賢の心は静かだった。
帰りたくないという気持ちよりも、「帰っても大丈夫かもしれない」という思いのほうが、今はほんの少しだけ強かった。
ふと、バッグの中から、小さな箱を取り出した。
祖母がこっそり渡してくれた包み。
中には、あの白いリボンの首輪が入っていた。
「いつか、戻ってきたときに、また桜の木の下に置いてね」
そう言って渡されたとき、賢は言葉が出なかった。
リボンの鈴は、触れるとほんのかすかに音を立てた。
ちりん――
それはまるで、サクラの声のように思えた。
“もう、だいじょうぶ”
そんな気がして、賢は小さく頷いた。
*
東京の駅に着いたとき、街の喧騒が一気に身体にまとわりつく。
人の多さ、音の洪水、雑踏の熱気。
ほんの数週間前までは、何の疑問も抱かなかったこの景色が、少しだけ違って見えた。
「賢!」
改札口で、母が手を振っていた。
少しやつれたようにも見えたが、その顔には安堵が浮かんでいた。
「……おかえり」
その言葉に、賢はわずかに肩の力を抜いた。
「ただいま」
それは、心の底から出た言葉だった。
家に戻ると、自分の部屋が少しだけ狭く感じられた。
けれど、懐かしい匂いがあった。
荷ほどきもしないまま、ベッドに横になる。
窓の外からは、車の音や人の話し声が混じった、都会のざわめきが聞こえてくる。
でも、耳の奥にはまだ、あの夏の音が残っていた。
蝉の声、風鈴、サクラの小さな足音。
そして、良二の明るい笑い声。
目を閉じれば、すぐに思い出せる。
そう思えるだけで、胸の奥にひとつ、灯りがともっているような気がした。
“君がいた、あの夏”
それはもう過ぎた季節かもしれない。
けれど、確かにそこにあって、自分を変えてくれた季節だった。
その記憶を胸に、また少しずつ、前を向いて歩いていこう。
そんなふうに思えた帰り道だった。
暑さはまだ残っていたけれど、風の匂いが変わった。
あれほど賑やかだった夏の音たちが、ふと息をひそめたように思えた。
帰京の日は、突然決まったわけではない。
けれど、それはどこかで「そろそろだ」と自分の中で決まっていたことだった。
祖母は何も言わなかった。
ただ「荷造り、手伝おうか?」とだけ訊いてきた。
賢は「ううん、自分でやるよ」と答えた。
帰ることに迷いがなかったわけではない。
あの静かな家、朝の味噌汁の匂い、虫の声、サクラと過ごした日々。
それらを背に置いていくことが、正直、少し怖かった。
でも、もう一度、自分の場所に戻ってみよう――
そんな気持ちが、ゆっくりと胸のなかに根を張っていた。
*
――祖母の家を出る朝、賢は庭に立って、深く息を吸い込んだ。
空は高く晴れていて、山の稜線がくっきりと見える。
ふと視線を落とすと、縁側の柱の陰に、またあの白い毛が一房残っていた。
その毛も「サクラコレクション」として、小さな巾着袋に入れた。
風に吹かれて揺れているその様が、まるで「じゃあね」と言っているようで、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
「行ってきます」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いたその声に、自分でも驚いた。
それは、「ただいま」を前提にした言葉だった。
駅までの道は、祖母が軽トラックで送ってくれた。
途中、田んぼのあぜ道で、良二が立っていた。
大きく手を振って、帽子を押さえながら走ってくる。
「けんにいちゃーん!!」
車を止めると、良二が息を切らして窓のそばにやってきた。
「ねえ、また来る? 来年も来る?」
「……さあな」
そう答えながらも、賢は笑っていた。
笑うことが、もう自然になっていた。
「手紙書いていい?」
「字、読めんのかよ」
「書けるもん! 『けんにいちゃんげんきですか』って、ちゃんと書く!」
「じゃあ、楽しみにしてる」
賢はそう言って、窓越しに拳を突き出した。
良二が嬉しそうに自分の拳をぶつけてくる。
「……またな」
「うん、またの!」
トラックが走り出し、良二の姿が遠くなっていく。
でもその声は、しばらく耳の中で残っていた。
駅前に着くと、おばあちゃんは僕をぎゅっと抱きしめた。
「何かあって嫌になったり、うちに会いとうなったら、またおいで」
「うん、おばあちゃん。大好き、ありがとう……」
電車に揺られながら、窓の外に流れる景色を眺めていた。
山々の影が遠のき、やがて畑が消え、建物が増え始め、ビルの影が近づいてくる。
東京が近づいてくるにつれ、車内の空気も少しずつざわついてくる。
だが不思議と、賢の心は静かだった。
帰りたくないという気持ちよりも、「帰っても大丈夫かもしれない」という思いのほうが、今はほんの少しだけ強かった。
ふと、バッグの中から、小さな箱を取り出した。
祖母がこっそり渡してくれた包み。
中には、あの白いリボンの首輪が入っていた。
「いつか、戻ってきたときに、また桜の木の下に置いてね」
そう言って渡されたとき、賢は言葉が出なかった。
リボンの鈴は、触れるとほんのかすかに音を立てた。
ちりん――
それはまるで、サクラの声のように思えた。
“もう、だいじょうぶ”
そんな気がして、賢は小さく頷いた。
*
東京の駅に着いたとき、街の喧騒が一気に身体にまとわりつく。
人の多さ、音の洪水、雑踏の熱気。
ほんの数週間前までは、何の疑問も抱かなかったこの景色が、少しだけ違って見えた。
「賢!」
改札口で、母が手を振っていた。
少しやつれたようにも見えたが、その顔には安堵が浮かんでいた。
「……おかえり」
その言葉に、賢はわずかに肩の力を抜いた。
「ただいま」
それは、心の底から出た言葉だった。
家に戻ると、自分の部屋が少しだけ狭く感じられた。
けれど、懐かしい匂いがあった。
荷ほどきもしないまま、ベッドに横になる。
窓の外からは、車の音や人の話し声が混じった、都会のざわめきが聞こえてくる。
でも、耳の奥にはまだ、あの夏の音が残っていた。
蝉の声、風鈴、サクラの小さな足音。
そして、良二の明るい笑い声。
目を閉じれば、すぐに思い出せる。
そう思えるだけで、胸の奥にひとつ、灯りがともっているような気がした。
“君がいた、あの夏”
それはもう過ぎた季節かもしれない。
けれど、確かにそこにあって、自分を変えてくれた季節だった。
その記憶を胸に、また少しずつ、前を向いて歩いていこう。
そんなふうに思えた帰り道だった。
10
あなたにおすすめの小説
「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します
スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」
眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。
隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。
エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。
しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。
彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。
「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」
裏切りへのカウントダウンが今、始まる。
スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜
丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。
与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。
専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、
失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。
そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、
セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。
「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」
彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、
彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。
嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、
広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、
独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。
栄養と愛情を取り戻したセレナは、
誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、
社交界で注目される存在となる。
一方、セレナを失った伯爵家は、
彼女の能力なしでは立ち行かず、
ゆっくりと没落していくのだった――。
虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。
白椿の咲く日~ひそかな恋、遠い日の思いは
紫さゆり
恋愛
結婚を控えた真由子は、久しぶりに異母姉の稚子(わかこ)と会う。
真由子の母の雪江は、大学教授であり著名な歌人の水上実之(みなかみさねゆき)の後添いとして水上家に嫁いだ。
婚約者の諒人(りょうと)のことなど、真由子は稚子と色々語り合ううち、庭の白椿の木は真由子がなついていた異母兄、靖之が植えたものだと知る。
白椿の木をめぐっての、ひそかな大人の恋物語です。
薫る袖の追憶を捨て、月光の君に溺愛される
あとりえむ
恋愛
名門の姫君・茜は、夫の高彬に蔑まれ、寂れた離れで孤独な死を迎えた……
けれど意識が途切れた瞬間、視界を埋め尽くしたのは命を削って輝く緋色の夕映え。
目が覚めると、そこは高彬との婚約が決まったばかりの十五歳の春に戻っていた。
「二度目の人生では、誰のことも愛さず、ただあの方の幸せだけを願おう」
茜は、かつて自身の孤独を救ってくれた「最推し」の東宮・暁を、未来の知識で密かに支えることを決意する。
執着を捨て、元夫に無関心を貫く茜。
一方、高彬は自分に興味を失った茜の価値に気づき、今更遅い後悔に狂い始めるが……。
「見つけた。お前は俺の、運命の番だ」
正体を隠して東宮を支えていたはずが、冷徹な暁に見出され、逃げ場のないほどの執着と溺愛を注がれることに。
平安の雅な風情の中で描かれる、逆転と救済の物語。
最後は、二人が永遠の契りを交わす和歌で幕を閉じます。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる