岡の上の宮

垂水わらび

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譲位と即位

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 譲位の大礼が近づく。
 大友は思案していた。
 見ることができるならば、殺すことができる。
 我を見ることのできる者は増えた。
 あの姉を襲うか。
 可留も、今なら我を見ることができるのではあるまいか。
 姉本人を襲うよりも、可留を襲う方が姉に生き地獄を味わわせることができよう。
ーだが、可留を始末すると、誰にこの国を任せれば良いのか
 高市皇子が存命ならば、人は一致して高市皇子を推すだろう。
 大友もこの人選に異存はない。
 しかし、この人はすでにいない。
 可留が東宮の子であり、その母がかつての大王の御子であることを持って、皇位を継ぐ権利があるならば。ならば、東宮として葬られた高市皇子の遺児にもその権利はある。その生母は可留の生母の実の姉である。
 つまり、長屋王だ。
 この子どもは、若いが傲慢がすぎる。若さゆえの傲慢というより、甘やかされて育ったがゆえの傲慢である。
 同じことが、忍壁ら、さらに歳かさの大海人の子らには言えた。
 貴公子ならば傲慢で良い。
 だが、この大地を背負って立つ者には、抑制というものを知る者が良い。そして鷹揚さが欲しいではないか。
ー可留はそれなりに鷹揚なのだが
 かつての呉王夫差や越王勾践ほどではないが、鸕野は鸕野なりに臥薪嘗胆を行った。そして、機を見て兵を挙げた。
ーいやはや、我が仇は実に豪胆な人物である
 大友は感嘆する。
 豪胆、そして冷酷である。
 その冷酷さは目的が先にあるべきであり、下々をいたずらに踏みつけにすることを喜ぶ惨さであってはならない。
 鸕野はそのような人物である。
 大海人の子らは、軽薄な傲慢か、傲慢でなければ惨さが透けて見える。
 異母弟たちとくれば、唯一生き残る志貴は、風流貴公子として生きていくことに決めたらしい。ならば即位せずにそのように生きれば良い。
 東宮として葬られた男を父に、皇女を母に持つ者は、もう一人いる。
 我が子葛野王である。生母の十市は正妃の子として生まれた、堂々たる嫡出子である。しかもその生母は、最終的には降嫁したがその当時は女王ひめおう、それも古い血脈を保つ女王であった。
 血統の良さならば、葛野王を上回る者はいまい。
 だが、父母を早くに亡くした我が子は、残念ながらその器ではない。
 藤原史の手引きらしい。
 宮子の寝室から葛野王が出てきた。
 可留は早くも寝取られたのである。
 実に、小さな復讐心ではないか。
ー早くに父母を亡くした哀れな子である。ここまでしかできぬ
 そうすると、消去法では、やはり可留しか残らない。
 我ながら、葛野王のように小さな復讐しか出来ないのは残念である。
ーしかし、個人の恨みは別である
 大友は鸕野を起こしては、怯えさせることを繰り返して遊んだ。
 その虚しさの先に湧き上がったのは、生命への執着である。
ーもう一度生きたい

 義淵は度々鸕野に呼ばれては、経文を読み上げた。
 呼び出されるのは、決まって鸕野の前に大友が現れた後である。
 何度思っても、考えても、義淵の前に現れることはない。
ー宝大王の血筋
 そう、額田は言ったが、思わずとも現れるようになったというではないか。
ーなぜ我が面前に現れぬ
 しかしながら、それが俗世とは縁を切った、生きているのに生きていないということであろうとも思う。
 それが悔しくないわけはない。赤子の頃から知り、共に育った仲である。実の弟妹よりも大友を見ていたというのに。
 義淵は望んで仏門に入ったわけでもない。
 そこしか行き場がなかった。
 人生というものは、そういうものだとも思う。
 仏の道を、誰かに説くのは楽だ。
 しかし、その道を歩むのは難しい。これ以外の道のなかった義淵にも、この道は険しい。
 まだ、室生の山の中の、獣道の方が歩きやすい。
 義淵が宮中を出て、戻る先は岡の上の庵であるが、その前に法興寺に立ち寄る。
 その度に誰かと二、三話をして、思い出させた。
 自分とあの女帝が幼い日に岡の上にあった宮で共に育ったことを。
ー昔語りである
 そう言い募った。
 庵に登れば、池の手入れをする。
 残念ながら、真夏の大雨には間に合いそうにはない。

 秋風が吹く頃、女帝が上皇になり、太子が即位した。
 大礼も終盤に差し掛かった。
 大来皇女の舞踏である。
 人々は、またかと思う。
 立太子の折のことは記憶に新しい。
 しかし、させたいようにさせなさいと、皇太妃は思うのである。
ーあのお方の最後の舞踏になろう
 少しばかりふっくらとした大来皇女の表情は穏やかである。
 トントン、トトント
 足が小さな音を立てた。
 それに合わせて、手に持つ鈴が鳴る。
 シャンシャン、シャシャンシャ
 動くと風を生み、衣が翻る。
 白くて小さな足が見えた。
 これまで清楚ではあるが鈍臭く思われた舞踏が軽やかに見える。
 しかも、大来皇女が妙に肉感的に見える。
 阿閇は気になって上皇を見た。
 上皇は満足そうに見ている。阿閇の視線に気づいたのか、上皇は阿閇の方を見た。
 どうしたのじゃ?とでも言いたげである。
 舞踏が終わると、絶賛の拍手であった。
 一世一代の大仕事という顔で、大来皇女は満足げであった。
 皇女は、采女を通じて持っていた鈴を新帝に差し出した。
「これは、わたくしが伊勢に降る折に大帝に賜ったものです。次の斎王さまには、帝からお渡しくださいますよう」
「あいわかった」
 声変わりをしたばかりの新帝はそれを受け取った。
 翌日、大来皇女は、未婚の皇女、女王たちを引き連れて初瀬へ向かった。
 中にはもちろん新帝の姉の氷高皇女もいる。
 阿閇は気が気ではない。
 阿閇だけではない。娘を差し出した親はみなそうだ。
 初瀬には、すでに潔斎のための仮の建物ができていた。
 ひと月ばかり斎王候補たちを潔斎させる間に、大来皇女はどれほど伊勢の海が美しいかを語ってみせた。
 最後の日に卜定を行い、当たったのは多紀皇女であった。
 多紀皇女は忍壁皇子の同母妹である。
 大来皇女が最も尊い存在であったのは、その生まれと伊勢で神に仕えたからである。
 忍壁皇子の母の身分は尊いわけではない。すでに卑母拝礼の禁は破られているのだ。この生まれは変えられぬが、伊勢で神に仕える妹がいるのは、悪いことではない。
ー何しろ新帝は虚弱である
 忍壁皇子は、自らに鉢が回ってくるのも早いとほくそ笑んだ。
 多紀皇女は一年間の潔斎を行い、次の秋に帝から鈴を受け取って伊勢に降っていった。
 
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