人の恋路を邪魔するな

guch

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夜の勉強

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ベベドナはこの数百年、神頼みこそすれ神の存在を本気で信じたことはない。蛇人間など自らの宗教を持ち、祭祀を行う信心深い魔族もいるが、どういうわけかサキュバスに信仰心厚い者は少なく、ベベドナも例に漏れなかった。そんな彼女が急に神を信じ始めるわけもなく、単に司祭の顔を間近で見るために入信したに過ぎない。魔族の隣人たちには呆れ顔で坊主どもを食い散らかす気かと言われたが、ベベドナは司祭の前では改宗した女らしく貞潔に振る舞おうと決心していた。そして清楚を装いながら大人の色気を見せ、司祭を誘惑するというのがベベドナのプランであった。

 生まれ持ったサキュバスの美貌とスタイルを最大限活かし、男を落としてきたベベドナはやや自信過剰になっていた。露出が少ないながら身体の線が浮き彫りになる女性用の長衣だけでまず、盛んな年頃の司祭の気が引けると確信する程に。実際には司祭はベベドナの顔にも身体にも注視する様子も視線を惑わせる様子もなく、混じり気のない綺麗な笑顔で、「よく似合っていますね。」と言っただけだった。柄にもなく色白の顔を真っ赤に染めたのはベベドナの方だった。思春期よろしくベベドナの身体が気になっているのは手伝いの少年たちの方で、ベベドナはからかってやりたくなったが、司祭への印象を考えて、紅い目を細ませて少年たちに微笑む程度に控えた。この教会に務める、貞節を求められる見習い修道士が、一番試練を強いられるのだ。

 ベベドナは今、助祭の前の見習い期間、もしくは助祭の補助のような立場で教会に居させてもらっている。普通修道院というものがあり、そこで男女別に修行に励むらしいが、狭い村の教会には修道院はなく、修道士も十三人程しかいないので、皆教会や近くの小さな宿舎に住んでいた。ベベドナの主な仕事は司祭や助祭の補助であり、有り体に言えば手伝いだ。ベベドナは別に朝夜聖書を諳んじたくて教会に入ったのではないため、願ったり叶ったりだった。

 それでベベドナはらしくもなく毎朝花に水をやったり、読めない聖書を周りの声を聞いて覚えることに努めたり、以前まで魔族を追い出そうとしていた信徒に笑顔で穀物を配ったりしたが、一ヶ月過ぎても司祭がベベドナに特別興味を見せることはなかった。ただ、「ご苦労様です」「貴女は真面目な良い信徒ですね」などと声をかけられただけで、ベベドナは満足してしまった。



十六の小娘じゃないんだから!



 ベベドナは鏡の中の自分を叱咤する。精気を得る限り老いを知らないサキュバスの肌は二十歳の人間と変わらず、司祭と並んでも、物腰を除けば似たような年齢に見られるだろう。



年齢だけでいったら司祭様のお祖母さんを優に超えるけど、大事なのは顔さ。



深紅の髪の艶もよく、蜂蜜色の目も力強く輝いている。胸のハリは今日もいい。シスターの服では自分のスタイルの良さが伝わらなかったかと考えたベベドナは、やや胸元の開いた肌着に軽く羽織って、月が上ったあとも起きて仕事や勉強に励んでいる司祭の元へ向かう。



「キヴィ様、夜も更けたしそろそろ寝た方がいいよ。」



 ベベドナはそう言って温かいミルクを司祭が積んだ分厚い本の隣に置く。



「ありがとうございます。」



そう言って微笑みながら、司祭はページをめくる手を止める気はなさそうだ。細長い指が紙の上を滑り、パラパラと紙の音が聞こえる。何をそんなに真剣に読んでいるのか、ベベドナには分からない。この地方の人間が使う文字は多少ベベドナも読めるが、司祭が属する教会が使う古めかしい文字、エルフの文字にも似た文字は、ベベドナにはさっぱり分からない。



「何をそんなに真剣に読んでるんだい」



 ベベドナはさりげなく胸元を見せるような体勢で、顎に手を当てて上目遣いで尋ねる。そしてきょとんとしたあどけない司祭の顔を見て気づく。



しまった、聖書が読めてないことを自分から言ってしまった!



「いや、そのね、あたしは魔族なものだから聖書が読めなくて、一応周りに聞いて…」



とベベドナが誤魔化していると、司祭は細い眉を下げて申し訳無さそうに俯いた。



「それは気づきませんでした…ごめんなさい。」



「えっ、そんなこと別に…」



「今教えましょうか?私も貴女の使う文字を知らないので、あまり上手にはいきませんが…」



「その本を読むのはいいの?」



「それより信徒が聖書を読む方が重要です」



 ベベドナは正直、熱心な司祭の授業はちょっと面倒臭そうだと思った。



「アー…この音はこの文字ですね。だから大気はこう…」



「へえ、微妙に形に意味があるんだね」





 しかし思いの外ベベドナは個人授業を楽しんだ。司祭は相変わらずベベドナを熱心な信徒としか見ていないが、司祭がベベドナの手を軽く握って指導などするものだからベベドナは小さく震えた。そして司祭から吸える精気がないのを残念に思う。

 蝋燭が照らす司祭もいつもの司祭服ではなくやや砕けた服装で、一部纏めている長い髪は、今は全て下ろされていた。今までベベドナが遊んできた人間に比べてだいぶ司祭は細身だが、間近で薄着姿を見つめると筋肉はそれなりにあることが分かる。ベベドナはうっとりと司祭を眺めていたが、司祭はそれを文字の習得に真剣なのだと都合よく勘違いした。



「キヴィ様、愛はなんて書くの」



 ベベドナは司祭の黄緑色の瞳を覗き込んで尋ねる。彼はにこっと笑って、さらさらと滑らかな手付きで字を書き、聖書の一部を指差して指し示す。



「こう、です。神の愛は、偏在や不変という字の組み合わせと似ているんですよ」



「素敵な字だね。星が輝いてるように見える………ところで、恋とかそういう愛はなんて書くんだい」



 司祭はベベドナが意図しない、しかし神に仕えるものとしては当然の「愛」を書いたが、ベベドナは興味を示しつつ、彼女の知りたい「愛」の書き方を聞いた。

 若い司祭は困った表情を一瞬見せる。聖書には「罪深き情慾」「個人への偏見」のような言葉は出てくるが、ベベドナの言うような特定の人物へ向けた「愛」はそもそも出てこない。



「ないの?」



 ベベドナは首を傾げて司祭に聞く。司祭は少し考えた。聖書を書いた人物たちは、そんなものと無縁で神の愛など説くのか、と言われても困る。もっとも2つを区別せず言い訳を並べて姦淫に耽る聖職者もいるのだけど、と司祭は知り合いを思い浮かべつつ、



「聖書にはありませんが、同時代の古代の人々はこう書いたそうですよ」



 司祭は聖書に使われている、古い文字で「恋」「愛」と書き、神への愛との違いを説明し始め、ベベドナは長い司祭の話を真面目に聞くふりをしようとして、途中で寝てしまった。



 翌朝、眩しい光にベベドナが目を覚ますと司祭は居らず、机の上で突っ伏していたベベドナの肩には毛布がかけられていた。



「あ~っ」



 己の失態と司祭の堅物ぶりにベベドナは思わず声を上げたが、毛布から仄かに司祭がいつも漂わせる香の薫りを感じ、これは成果だと自分に言い聞かせた。
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