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碧のガイア

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 今日は妊婦の出産に立ち会っている。とはいっても、実際に立ち会うのは産婆であり、男の律はそばにいなくてもいい。律はただ、清潔な場所の提供と手の消毒方法を教えるだけだ。

 産後の産褥熱で亡くなることが多かった時代、ハンガリーの医師であるイグナーツが消毒によって死亡率を激減させた。それが消毒術の始まりだ。イグナーツ自身は反発した医師達により病院から追放され精神疾患を煩い亡くなってしまったのだが、幸い律には権力者がバックについている。

 だが、猿真似をしているだけの律が賞賛されるのは違うと思っていた。そのため、成功したものに関しては自身の名前は出さずに王の手柄とし、失敗したものは自分の責任になればいいと思っている。そもそも、こんなことを始めた動機が人を助けたいという崇高なものではないのだ。

 律がやっていることは、ただ龍司に会いたいという個人的な動機であるから、喉に引っかかるものを常に感じている。勿論人から必要とされ喜ばれるのは嬉しいが、この世界で何かをするたびに、一つ、また一つと言葉にできない重しが心の中に沈んでいった。

「リツはガーディアンよりも魔法使いみたいだ。巷では出産後の死亡率が下がったと評判だ。リツを慕う声も随分と増えた」

 イホークが食塩水の入った容器を見ながら言う。そこでは機材を消毒するための亜塩素酸ナトリウムを生成中だ。

 亜鉛と鉄と食塩水で電池を作り、容器に電極を入れて電気分解を行う。子どもの頃、龍司と遊んで興味本位に色んな実験をしたのが役に立った。

「アマルが教えていた医学が馬鹿みたいだな。律がいればガイアの川や王族の力がなくても、なんとかなりそうだ」

「さすがにそれは言い過ぎですよ。俺は手術とかできないし、内臓の疾患とか病気についてはよくわからない。癒やしのガーディアンは勿論、薬草をよく知っている女性達の方がよっぽど凄いです」

 科学が遅れていると内心では少し馬鹿にしていたが、この世界にだって知恵はある。どうしたって王族が癒やすのは位の高い者達が中心になるし、癒やしの力を持つ特異なガーディアンは金持ちを相手にするのが多い。

 なので、庶民が頼りにしているのは薬草に詳しい薬草女であり、律から見ても、薬草女の選んだ薬草はよく効いている。現代医学だって薬草を元にした薬は多いのだ。この世界の医学全てがでたらめなわけではないのだと、律はこの世界を学ぶに連れ反省するようになった。

「リツの凄いところは、そういうところだ。リツでなければここまでうまくいかなかっただろう。薬草女達の話をよく聞き、尊重して共に歩む道を選ぶ。そこもアマルとは違うところだ」

「いえ、俺は本当に何も知らないですから。俺なんかよりも、龍司の方がもっと沢山知っているし、俺なんかよりも役に立ちます。龍司がいればもっと消毒する力が強くて、人体に優しいものが作れると思う。早く、龍司を見つけ出せるといいんだけど」

 ぽつりと呟く。

 龍司と律はまるで違う人種だが、それでも共通点は沢山あった。その中の一つが、二人とも科学が好きなことだ。

 いや、律は特別に科学が好きなわけではなかった。ただ、龍司が化学を好きだったので、それに付き合って色んな話を聞き、遊びの延長と言うには高度な実験をしたり学んだ知識を分け合ったりした。

 龍司が好きなものが好きだった。自分というものがないのは昔からであり、律の世界はずっと龍司を中心に回っていた。龍司に相手にしてほしくて、龍司の役に立ちたくて、ただ必死だったのだ。

 龍司は父親に文句を言われながらも、大学では化学を学んだ。父親は経済か法律を学んでほしかったが、父親の跡を継ぐ前の最後の我が儘ということで認めさせたらしい。

 龍司はその容姿や生い立ちから誤解されやすいが、学問を学びたいだけのただの男だったのだ。小さい頃は博士になりたいなんて無邪気に語っていたのを思い出す。

 本当は誰かを傷つける仕事なんてしたくなかった筈で、だからこそ、律は大学院に進学することを決めた。龍司の夢を代わりに叶えるだなんて傲慢だったと今でも思うが「律はもっと色んなことを学んだほうがいい」と龍司が言ったからこそ決めた道だった。

 こうなった今では、もうそんなことも関係なくなってしまったのだが。

「それに、俺は龍司がいないとダメなんだ。情けないけど、龍司が俺の全てだった」

 心の中で言ったつもりだったが、声に出ていたようだ。イホークは律の肩を叩くと、口元を上げて笑う。どこか皮肉めいた笑みだ。

「リュウジという男が羨ましいな」

 イホークの言葉も独り言のようだったので、律は特に答えなかった。

 律は物品のチェックをし、物資をまとめた。羊の胃袋を使った水筒が積まれている。革が足りないので胃袋も使おうと思って集めた物だ。

 約束の一年まであと少しだった。律は作物の収穫量を上げることを最優先に動いていたため、最近では施療院に来る回数も減っていたが、今日は出産のために来た。出産時に男がいるのは縁起が悪いので、今日ここにいるのは妊婦の女性と、産婆と助手と、律達三人だけだ。患者も急患以外は断っている。
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