舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

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episode.3(2007/7/4 ②)

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僕は一瞬ギクリとした顔をした。してしまった。記憶喪失者の情報までは広まっていないはずだ。少なくとも僕の周囲のごく限られた人しか知らない。それをどうして彼女が口にするのか。本当に彼女は何処まで知っているのだろうか?きっとこれも知っている上で僕に質問しているに違いない。そう思わせるほど、確信に満ちた表情だった。本当に恐ろしい女性だ。香織も僕のそんな表情を見逃さなかった。

「そうなんですね?」
「誰からそんなことを聞いたんだい?」
「小堺教授がそう言ってました」
もしも情報が漏れるとしたら、その辺りだろうとは思っていた。
「やっぱりね。年寄りは口が軽いから」
「で、どうなんですか?」
次々と尋問を繰り返す香織とは対照的に僕はしどろもどろしていた。冷静さを装いながら、「だとしたら?」それが僕の精一杯の答えだった。だとしたら・・・。僕にはもうそれが今冷静な状態で出せる最大の言葉だった。だとしたら・・・香織は少しおどけて、
「ちょっと意外です。先輩もやっぱり人間なんだなぁって」
と笑ってみせた。窓から入った風が香織の短い髪を静かに揺らした。なんだよそれ、と髪をなびかせる可憐な彼女を見ないようにして僕は答えた。
「だって先輩はいつも恋愛が世界の全てみたいなこと言ってる割には、なんか冷めてるっていうか、全部否定的だっていうか・・・本気で恋愛してるところを見たことないし、カップルを見れば不機嫌そうにぶつぶつ言うし」
なんかそれってオレがすごく冷たい人間みたいになってない?と私ははぐらかす。
「冷たいとかそういうのじゃなくて・・・でも何か先輩には影のようなものがあるんです。多分私には想像もできないような・・・もちろんそれは佑也先輩自身にも想像できないような」
香織の言うことは的を得ていた。私は思わずうつむいてしまった。
「だから意外でした。先輩がやりたい論文があるって啖呵を切ったって聞いた時、先輩もそういうところがあるんだな、って。先輩はやりたいことはあるけれど、リスクを負ってまでやる価値がなければすぐに切り替えるような人だと思っていましたから」
香織は僕に背中を見せていて、その目で見られていないことに安心はしたけれども、それでもちっとも心臓の鼓動が落ち着かない。背中にも見られているような気がした。
「だから、気になったんです。そんなに先輩が執着することってなんだろう、って。だから、調べました」
悪戯っぽく彼女は振り返って笑う。
「僕に興味を持つようなところなんてないよ」
僕がそう答えると、そんなことないですよ、と即答された。
「先輩がたまに話してくれる価値観っていうか、哲学っていうか、すごく深いんです。私には到底たどり着けない。この人の過去に何があったんだろうって思うときがあります」

「過去なんかは今に比べれば些細なものさ」
僕は言った。

 口ではそう言ったが、過去から一歩も進めてしないこともまた事実だった。香織も私の口調からそれに気づいたのだろう、嘘はつかないでください、と静かに言った。僕は常にもう自分は死んでいると思っている。人なんか死のうと思えばいつでも死ねるし、手段も溢れている。敬愛しているレノンもそう言っていたような記憶がある。僕はもうどこに傷がついても痛みを感じなくなった。自分の中にはもう1人の自分がいて、彼が全ての痛みを請け負ってくれる。自分の肉体は彼のものであり、それは自分の身体の一部が段々と分裂していくようなものだった。最初はすごく痛かった。痛くて痛くて、泣き叫んで助けさえ呼ぼうとした。けれどもすぐにその痛みから慣れた。そして不思議と痛みを感じなくなった。大丈夫、やっていける。その時僕は死んだのだ。死ぬというのは無に等しい。例えば朝起きて顔を洗う、歯を磨く。それが何も意味を持たなくなる。つまり僕が何をするにも他人を理由にできなくなるのだ。中学と高校の頃は毎日が君を中心に動いた。毎日精一杯の努力をして、外見ではない何かの魅力を出そうと自分をずっと演じてきた。今は何をするにも理由が見つからない。自分が誰とも繋がっていないと感じた。それでいいと思った。僕は死んでいるのだから。ただ肉体だけが残っているだけなんだ。肉体を殺さないのはそうしないだけだ、理由もなく自分に刃物を差し出すほど、僕はまだすべてを悟ってもいなかった。
 僕は疲れていた、とても疲れていた。ここ数年僕というモノを構成するすべてに意味がなかった。ご飯を食べる。何の為?大学に行く。何の為?理由が見えなかった。目の前のモノはすべて概念でしかない。

 だって僕は死んでるのだから。何処に行こうと、そこは何処でもない。だから時に誰かに救いを求めてしまうことがある。無性に繋がりを持ちたくなる。例えそこに君が関わってなくても、希薄でも未来がなくてもいい。嘘でもいい・・・嘘でも良かったのだ。
 藤井香織はそんな僕の話をずっと聞いてくれていた。少々幼くはあるけど彼女なりの哲学も垣間見ることができる。

「その人ってどんな人だったんですか?」
香織は気を取り直したように明るく訊いてきた。彼女は再びジュースに手を伸ばす。どうだろうね、と軽く笑うと、
「きっと完璧な人なんだろうなぁ」
と上を見上げた。
「そうでもないさ」
「絶対完璧ですよ」
「どうして?」
「先輩は理屈っぽいから」
拍子抜けして僕は笑った。
「オレだって理屈抜きで好きになるときがあるさ」
「それは中田先輩のことですか?」
余りに屈託のない笑顔で訊く香織に嫌な顔は出来なかったが、少しだけ黙ってしまった。この沈黙は彼女にもきっと気まずさを与えているのだろうと、いや・・・うん、ごめん、と僕が謝ると、香織が隙を狙ってまたノートに手を伸ばしたので、これはダメと鞄に仕舞うと、ケチと香織は小さく舌を出した。

また心地のよい風が吹いてきた。光は部屋を透明に照らし、まるで僕と香織だけが世界で生き残ったような白さを与えられているようだった。

「ところで、その人の記憶は戻ったんですか?」

すると、これまで強く吹いていた風は一気に止まり、風でなびいていた香織の髪の毛が静止していった。
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