21 / 53
episode.20(2007/4/17)
しおりを挟む
2007年4月17日
時間通りにゼミ室に向かうと、教授が1人で待っていた。いつもは誰かしら学生がいるはずなのに珍しい。
「君の来訪に合わせて、席を外してもらったんだ」
私の疑問に教授はそう答えた。自分で言うのも何だが、たかが卒業論文にそこまでする必要がなかった。別に他の学生がいても充分だと思っていたので、僕は不思議に思い、また不安になった。どうして教授は2人きりの状況を作ったのだろう。理由がわからなかった。
席に座ると教授がコーヒーを入れてくれた。本当はそんなことを教授がやる必要はないのだが、教授はそういうことを何も考えずに率先してやる人だった。その人柄に惹かれてゼミに入る生徒も少なくない。教授はコーヒーはブラック派であり、ゼミ室には他のゼミ生用にしか砂糖が用意されていない。もちろん教授に取りに行かせるわけにはいかず、また、ここで立ち上がって砂糖を取りに行くのも違う気がして、僕はそのままブラックでコーヒーを飲む。
「昨日の論文の件なんだがね」
教授が口を開いた。
「被験者とは、以前君が相談をしてくれた人のことだろう」
僕は朝美の事件を聞き、すぐに教授に簡単なカウンセリングの方法を習いに行った。教授の言うことに間違いはなく、僕は、そうです、と返す。そうか、朝美の話をするために皆を外に出したのか、と納得し、先程の不安は消えていった。
「と言うことはその女性はまだ記憶が戻っていないんだね」
「えぇ、ほんの糸口のようなものは見つかった気がしますが、具体的には何も」
そうか、と教授は深いため息をつき、コーヒーを口に運んだ。なんだか悲しんでいるようだった。同じ大学の学生とはいえ、知りもしない生徒のことにこんなに悲しむだろうか。不思議の感が募る。もしかすると学部が同じなので、ゼミ室が違うといえども繋がりがあったのかもしれないな、と僕は思った。
「君の目論みはわかっている。この論文を口実に、またご実家の方に戻るつもりだね」
完全にバレていた。いや、バレていない方がおかしかった。
「それはそれで良い。私も彼女の記憶が戻れば良いと思うし、そのために君は戻るべきだとも思っている」
その言葉を聞き、僕はほっと一安心をする。どうやら論文に反対ではないらしい。
「しかし、正直、素人の君に本当に彼女の記憶が戻せるのかね」
教授は不安そうな表情を浮かべてはいるものの真顔で僕に訊いてきた。その顔に、僕は瞬時に適当に誤魔化してはいけない、という圧力を感じ取った。
「今の君では難しいんじゃないかな」
僕には専門的な知識があるわけでもないし、何かとっておきの方法があるわけでもない。望みがはっきりと見えているわけでもない。正直朝美の記憶に関しては八方塞がり、という状況なのだ。
「確かにそうかもしれません」
「けれど」
僕はより強い口調で言った。
「この論文も彼女の記憶も諦めるわけにはいきません」
いやいや、まぁまぁと取りなすように僕を両手で宥める。
「何回でも言うけれども、僕は君の論文に反対じゃない、そこは忘れないでほしい」
「しかし」
「今の君では記憶を戻すのは無理だと言っている。そこでだ」
「君に記憶回復の研究者を紹介したい」
教授はデスクの上にあった資料を僕に渡してきた。そこには東京の大学名が書いてあり、1人の研究者が紹介されていた。
篠塚晃准教授、資料にはそう書いてあった。研究者としてはまだ若く、教授とは1回り以上年齢が離れているようだった。『記憶喪失者の光 常識を破る研究者』という見出しがついていた。
「君さえ良ければ、もう彼とは話がついている。どうだい、彼の話を聞く気はないかい?」
僕にとっては思っても見ない光明だった。もしかすると彼の話を聞けば、何かわかるかもしれない。
「はい、お願いします」
君ならそういうと信じていたよ、と教授は少しだけ表情を崩した。
「篠塚君もまだ実際に記憶喪失者の完全な記憶回復には辿り着けていないらしい。彼にとっても君にとっても有用な話だと思う」
僕は出てきた話に心を躍らせ、コーヒーを口に運んだ。さっきまで苦味しか感じていなかったコーヒーがとてもフレバーに感じる。
「そして」
緩めた表情を教授はまた真顔に戻して続けた。
「その研究結果を、誰よりも早く私に知らせてほしい」
「それが、今回の論文を認める条件だ」
僕は二つ返事で了承して、残りのコーヒーを飲み干した。こんな簡単な条件ならいくらでも飲んでやる、と思った。
しかし、その直後で不安がまた急に僕を襲ってくる。「誰よりも早く」の言葉に引っかかる。別に僕の論文で知れば良い話である。誰よりも早く知る必要なんかない。もしかして・・・僕は思った。そういえばまだあの准教授も記憶を戻せていない、と言っていた。もし朝美の記憶が回復し、そのメカニズムが解明されれば、これは大発見である。論文はたちまち話題になるだろう。僕はそんなつもりはなかったのだが、僕の論文にはとんでもない可能性があるかもしれないのだった。教授はそれをともすれば横取りしようと考えているのではないだろうか。そうした意識で今の状況を考えると、やはり他の人を外に出した理由は、朝美のためではなく、教授自身の企みのためのように思えた。後味の残ったコーヒーが急に苦く感じ始めた。
「それは僕の論文を横取りするためですか」
その苦さをかき消すよう、僕は躊躇することなく教授に問うた。変な正義感が僕を支配していた。
「そうではない」
慌てるわけでもなく冷静に返す様子に僕は語気を強める。
「しかし、それ以外に教授に、それこそ『誰よりも早く』報告する理由がありません」
そうだろうね、教授は落ち着き払って深く息をついた。
「今から話すことは誰にも言わないと約束してくれるかい」
教授のあんなに重く、恐ろしく、そして悲しい目を僕は見たことがなかった。
時間通りにゼミ室に向かうと、教授が1人で待っていた。いつもは誰かしら学生がいるはずなのに珍しい。
「君の来訪に合わせて、席を外してもらったんだ」
私の疑問に教授はそう答えた。自分で言うのも何だが、たかが卒業論文にそこまでする必要がなかった。別に他の学生がいても充分だと思っていたので、僕は不思議に思い、また不安になった。どうして教授は2人きりの状況を作ったのだろう。理由がわからなかった。
席に座ると教授がコーヒーを入れてくれた。本当はそんなことを教授がやる必要はないのだが、教授はそういうことを何も考えずに率先してやる人だった。その人柄に惹かれてゼミに入る生徒も少なくない。教授はコーヒーはブラック派であり、ゼミ室には他のゼミ生用にしか砂糖が用意されていない。もちろん教授に取りに行かせるわけにはいかず、また、ここで立ち上がって砂糖を取りに行くのも違う気がして、僕はそのままブラックでコーヒーを飲む。
「昨日の論文の件なんだがね」
教授が口を開いた。
「被験者とは、以前君が相談をしてくれた人のことだろう」
僕は朝美の事件を聞き、すぐに教授に簡単なカウンセリングの方法を習いに行った。教授の言うことに間違いはなく、僕は、そうです、と返す。そうか、朝美の話をするために皆を外に出したのか、と納得し、先程の不安は消えていった。
「と言うことはその女性はまだ記憶が戻っていないんだね」
「えぇ、ほんの糸口のようなものは見つかった気がしますが、具体的には何も」
そうか、と教授は深いため息をつき、コーヒーを口に運んだ。なんだか悲しんでいるようだった。同じ大学の学生とはいえ、知りもしない生徒のことにこんなに悲しむだろうか。不思議の感が募る。もしかすると学部が同じなので、ゼミ室が違うといえども繋がりがあったのかもしれないな、と僕は思った。
「君の目論みはわかっている。この論文を口実に、またご実家の方に戻るつもりだね」
完全にバレていた。いや、バレていない方がおかしかった。
「それはそれで良い。私も彼女の記憶が戻れば良いと思うし、そのために君は戻るべきだとも思っている」
その言葉を聞き、僕はほっと一安心をする。どうやら論文に反対ではないらしい。
「しかし、正直、素人の君に本当に彼女の記憶が戻せるのかね」
教授は不安そうな表情を浮かべてはいるものの真顔で僕に訊いてきた。その顔に、僕は瞬時に適当に誤魔化してはいけない、という圧力を感じ取った。
「今の君では難しいんじゃないかな」
僕には専門的な知識があるわけでもないし、何かとっておきの方法があるわけでもない。望みがはっきりと見えているわけでもない。正直朝美の記憶に関しては八方塞がり、という状況なのだ。
「確かにそうかもしれません」
「けれど」
僕はより強い口調で言った。
「この論文も彼女の記憶も諦めるわけにはいきません」
いやいや、まぁまぁと取りなすように僕を両手で宥める。
「何回でも言うけれども、僕は君の論文に反対じゃない、そこは忘れないでほしい」
「しかし」
「今の君では記憶を戻すのは無理だと言っている。そこでだ」
「君に記憶回復の研究者を紹介したい」
教授はデスクの上にあった資料を僕に渡してきた。そこには東京の大学名が書いてあり、1人の研究者が紹介されていた。
篠塚晃准教授、資料にはそう書いてあった。研究者としてはまだ若く、教授とは1回り以上年齢が離れているようだった。『記憶喪失者の光 常識を破る研究者』という見出しがついていた。
「君さえ良ければ、もう彼とは話がついている。どうだい、彼の話を聞く気はないかい?」
僕にとっては思っても見ない光明だった。もしかすると彼の話を聞けば、何かわかるかもしれない。
「はい、お願いします」
君ならそういうと信じていたよ、と教授は少しだけ表情を崩した。
「篠塚君もまだ実際に記憶喪失者の完全な記憶回復には辿り着けていないらしい。彼にとっても君にとっても有用な話だと思う」
僕は出てきた話に心を躍らせ、コーヒーを口に運んだ。さっきまで苦味しか感じていなかったコーヒーがとてもフレバーに感じる。
「そして」
緩めた表情を教授はまた真顔に戻して続けた。
「その研究結果を、誰よりも早く私に知らせてほしい」
「それが、今回の論文を認める条件だ」
僕は二つ返事で了承して、残りのコーヒーを飲み干した。こんな簡単な条件ならいくらでも飲んでやる、と思った。
しかし、その直後で不安がまた急に僕を襲ってくる。「誰よりも早く」の言葉に引っかかる。別に僕の論文で知れば良い話である。誰よりも早く知る必要なんかない。もしかして・・・僕は思った。そういえばまだあの准教授も記憶を戻せていない、と言っていた。もし朝美の記憶が回復し、そのメカニズムが解明されれば、これは大発見である。論文はたちまち話題になるだろう。僕はそんなつもりはなかったのだが、僕の論文にはとんでもない可能性があるかもしれないのだった。教授はそれをともすれば横取りしようと考えているのではないだろうか。そうした意識で今の状況を考えると、やはり他の人を外に出した理由は、朝美のためではなく、教授自身の企みのためのように思えた。後味の残ったコーヒーが急に苦く感じ始めた。
「それは僕の論文を横取りするためですか」
その苦さをかき消すよう、僕は躊躇することなく教授に問うた。変な正義感が僕を支配していた。
「そうではない」
慌てるわけでもなく冷静に返す様子に僕は語気を強める。
「しかし、それ以外に教授に、それこそ『誰よりも早く』報告する理由がありません」
そうだろうね、教授は落ち着き払って深く息をついた。
「今から話すことは誰にも言わないと約束してくれるかい」
教授のあんなに重く、恐ろしく、そして悲しい目を僕は見たことがなかった。
0
あなたにおすすめの小説
あなたの片想いを聞いてしまった夜
柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」
公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。
政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。
しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。
「好きな人がいる。……片想いなんだ」
名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
#秒恋9 初めてのキスは、甘い別れと、確かな希望
ReN
恋愛
春休みが明け、それぞれに、新しい生活に足を踏み入れた悠里と剛士。
学校に向かう悠里の目の前に、1つ年下の幼なじみ アキラが現れる。
小学校時代に引っ越した彼だったが、高校受験をし、近隣の北高校に入学したのだ。
戻ってきたアキラの目的はもちろん、悠里と再会することだった。
悠里とアキラが再会し、仲良く話している
とき、運悪く、剛士と拓真が鉢合わせ。
「俺には関係ない」
緊張感漂う空気の中、剛士の言い放った冷たい言葉。
絶望感に包まれる悠里に対し、拓真は剛士に激怒。
拗れていく友情をよそに、アキラは剛士をライバルと認識し、暴走していく――
悠里から離れていく、剛士の本心は?
アキラから猛烈なアピールを受ける悠里は、何を思う?
いまは、傍にいられない。
でも本当は、気持ちは、変わらない。
いつか――迎えに来てくれる?
約束は、お互いを縛りつけてしまうから、口にはできない。
それでも、好きでいたい。
いつか、を信じて。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる
若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ!
数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。
跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。
両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。
――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう!
エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。
彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。
――結婚の約束、しただろう?
昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。
(わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?)
記憶がない。記憶にない。
姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない!
都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。
若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。
後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。
(そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?)
ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。
エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。
だから。
この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し?
弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに?
ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる