舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

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episode.19(2007/4/16 ②)

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「ちょっと待てよ、こんなのオレよりも酷いじゃないか」
諏訪がヒステリーにも似た声で僕を糾弾した。
「記憶喪失? 回復? そんなのうちのゼミと何の関係があるって言うんだ」
さっき自分が否定されたこともあって、とにかく必死に僕の論文が悪であると言おうとしていた。確かに発達心理学を主としているうちのゼミには一見全く関係のないように思える。皆もきっと心の中でそう思っていたのだろう。それを口にするかどうかは性格の問題だと思う。まぁ僕の発表の順番は後ろの方だったし、諏訪も自分の発表が終わって、もう突っ込まれることがないとわかった上でやっているのだと思う。ただ、それが、自分のものを認めて欲しくて言っていることなのか、それとも自分が否定されたから腹いせにやっているのかはわからなかった。
「まだ話し始めてもいません、まずは聞いてから判断してもらえませんか」
冷静に対処する僕に、諏訪は止めずに
「こんなの聞く前から明らかだ」
と聞かない。僕は教授に話を続けて良いかを尋ねた。教授が続けるように僕に指示したので、ようやく一旦諏訪は黙った。
「申し訳ないのですが、記憶喪失という特異な状態を扱う以上、サンプルを多く集めることができません、今回の被験者は1人を予定しています」
そうして僕は朝美のプロフィールを簡単に紹介した。もちろん名前は出していないので、誰も朝美であることに気づいていないようだった。
「彼女は事故以前の記憶をなくしています。自分が何者であるかも、です。しかし一般的な生活を送ることに支障はありませんし、言葉はもちろんのこと、学習で得た知識も失われてはいません。こうした過去の一部分だけを忘れることを『逆行性健忘』と呼びます」
教授は黙って僕の説明を聞いていた。諏訪は黙ってこそいたものの、足を細かく貧乏ゆすりさせて、明らかに苛ついているようだった。
「脳の中で記憶に関係する部分が海馬であることは先の研究で既に明らかになっています。海馬は図3を参照してご覧ください。側頭葉の奥、大脳辺緑系にあるタツノオトシゴの尾に近いものが海馬です」
タツノオトシゴの尾なんて見たことねーよ、という突っ込みも聞こえないふりをする。
「1953年、アメリカでてんかん患者に対して海馬を取り除く手術をした結果、患者が記憶障害を起こしたことで、海馬と記憶の関連性が浮上してきました。その後、さまざまな研究の結果、その患者も生活に関わるような知識や言葉に関する記憶があったため、海馬は記憶を一時的に保存するが、永続的に貯蔵する器官ではない、という考え方が定説となりました」
だからそれが心理学と何の関係があるんだよ、そんな目で僕を見てくる目が矢のように刺さる。敵は諏訪だけではないらしい。
「そして、短期的な記憶に関わる海馬はストレスによって萎縮する、という研究結果も発表されました。強いストレスによって記憶を失う、脈略もなく急に思い出すなどの記憶障害を外傷後ストレス障害と言います。PTSDと言えば皆さんもご存知かと思います。PTSDの患者は海馬が平均で10%前後萎縮をしているというデータがあります。これはデータ上のみの一致ではなく、ストレスがかかった際に分泌されるコルチゾールが影響するという科学的論拠があります。ストレスにより長期的にコルチゾールが分泌されると神経細胞がダメージを受けます。海馬の神経細胞も例外ではありません。PTSDは長期的な場合もありますが、非常に強いストレスがかかったことで短期間に大量のコルチゾールが分泌されることが海馬へのダメージと関連するという報告が出ています。つまり、記憶障害とストレスには密接な関係があり、ストレスを研究することで記憶障害が解明されるとなれば、当然心理学の分野も無関係というわけではありません。今回の被験者も既にPTSDであるという診断が出ておりますので、今回の研究対象としては妥当です」
僕の研究テーマが自分のゼミと乖離していることなんか百も承知であった。それでも僕はこの研究テーマを絶対に通さないといけなかった。この研究テーマ画認められれば、僕が朝美のために帰郷することに研究という大義名分が与えられる。研究を理由に大学を休みことだって可能だ。僕は初めからこれを狙っていた。朝美の記憶がいつ戻るかわからない以上、自由にできる時間をできるだけたくさん得たかった。だから僕は横浜に戻った後、この研究テーマをゼミ生や教授に認めさせるために、心理学という方面から論文のアプローチができないか必死で本を読み漁った。図書館に通ったのもそのためだった。

 けれどまだこれだけでは終わらない。次は心理学だけではなく、発達心理学にも結びつけなくてはならない。
「私が今回のテーマにしているのは記憶喪失のメカニズムだけではありません。記憶の回復もメインテーマのひとつです」
そんなことできるのか、という空気が部屋内に立ち込める。どうやらまだ僕は味方を増やせていないらしい。
「記憶の回復に関しては明確な論文は今のところ、存在していないか、私が発見できていません」
おいおい大丈夫なのか、今にもそんな声が聞こえてきそうである。
「しかし、催眠療法や思い込みによって、経験していない過去を作り出す、ということは既に研究が行われています。三島由紀夫の『仮面の告白』でも主人公が強い思い込みにより、生湯に浸かった記憶を作り出しています。また、カウンセリングによってありもしない幼少時代の記憶を抑圧された記憶としてあたかも思い出したように捏造させるという報告が1980年代のアメリカで報告されています。これらの共通項は『幼少期の記憶である』ということです。幼少期の記憶に関して揺れが生じ、ありもしない記憶が生み出されるのだとしたら、この幼少期の記憶に関する記憶のメカニズムが解明できれば、本来の記憶も再構築できるかもしれない、これが私の仮説であり、今後被験者を対象に研究していく内容です。以上で終わります」
 これで文句がないだろう、僕は得意に説明を終えた。諏訪は貧乏ゆすりをしながらも何も反論できずにいるようだった。これまで教授と諏訪ばかりが目に入って仕方がなかったが、隣にいる理穂子が僕を見ているようだった。チラリとそちらを見たら、何とも形容し難い表情をしていた。賞賛でも批判でも心配でもない表情で、僕はその感情を読み取る術を持っていなかった。
「見事だ」
教授が僕を見ずに言った。
「批判される内容を予見し、事前に対応している。リスクマネジメントは完璧のようだね」
ようやく教授がこちらを見たが、言葉の内容とは裏腹に、表情は緩んでいなかった。
「けれど、それだけに発達心理学との関係が少し無理やりのように感じる」
教授の言うことは最もであり、僕が1番懸念していたことでもあった。それでも批判を回避するためには入れざるをえなかった。僕はさっきまでの得意を既に無くしてしまい、息を飲んで教授の次の言葉を待った。何としても研究テーマを変えるわけにはいかないのだ。諏訪は息を吹き返したように教授に賛同しようとしたが、事前に察した教授はそれを制し、僕に言った。

「内容自体は悪いものではない。明日、私のところに来なさい」
そして、僕の番は終わり、そのまま次のゼミ生の発表が終わり、本日は解散となった。僕の卒論は結局、良いとも駄目ともならず、僕はどうして良いかわからず、とにかく明日教授のところに行くことになった。

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