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episode.25(2007/4/20)
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2007年4月20日
降り立った駅は初めてだった。インターネットで調べなければ改札を出てどちらへ向かうかも分からない。地図に強い方ではないから、地図上にある目印になるような建物に当たりをつけ、そこを基準に方向を定めていく。降り立った左手に大手のコンビニチェーンがあると書いてあるのだけれど、コンビニは入れ替わりが早く、違うチェーン店に変わっていることも少なくない。前にそれに惑わされて正反対の方へ向かっていたこともがあった。それ以来、違う目印に変えている。大手のファミレスチェーンに目印を定め、そこを背にした方向に大学があるというので、僕は正しい方角へ向かい歩き始める。途中もことあるごとに目印に注意をして、自分が正しい道順を進んでいることを確認する。目的地へは5分足らずで到着することが出来た。駅から5分ほどしか離れていないというのに、周囲はとても静かで、閑静な住宅街に場違いのように聳え立つ新目のビルが、その大学だった。 入って直ぐに改札機のようなものがある。学生はそこに学生証を当てて入構しているようだ。もちろん僕は持っていない。どうしようかと思っていると、改札機の手前に案内所があった。僕はそこで13時からアポを取った旨を話すと、案内所にいた女性は何やら電話をし、すぐに僕はゲスト用の入構証受け取り、中に入ることができた。入構証を受け取る時に研究室の場所を聞き、そこへ向かう。エスカレーターで3Fに移動すると、廊下を真ん中に左右に研究室が並んでいる。研究室の表札を見ながら進んでいくと、中間の辺りに篠塚先生の研究室があった。ノックをすると中から若々しい声が聞こえた。言われるがままに中に入ると、資料で見た篠塚先生がそこにいた。椅子に座りコーヒーを飲む姿は落ち着いて見えるが、資料で見た時よりも外面は若々しかった。30代はおろか、20代と言われても、場合によっては信じていたかもしれない。はじめまして、と立ち上がる彼は薄いブルーのワイシャツで清潔感がある。「小堺先生からうかがっています」清潔感はその笑顔でより際立つ。
「記憶喪失からの回復についてですよね」
そう言うと、早速ですが、と半ば急かすように篠塚先生は話を切り出した。どうやらこの後にも客人がいるらしい。僕はまず朝美のことを詳しく説明した。説明の間、先生は何も言うことなく、熱心にメモを取っていた。僕が話した後に、いくつか質問をされて、それで朝美のことは終わった。「中村さんは小堺先生のところで学んでいる、ということなので、ある程度心理学には精通していると思います」「教育心理ですが、今回の件である程度は勉強したつもりです」それなら、と先生は少し安心した顔を見せる。余計な説明を省けるらしい。「ストレスと記憶の関係は既にご存知ですね」僕は海馬とストレスの関係について簡単に話す。既に卒論のことは小堺教授から話されているのだろう、少し話すだけで、合格です、という顔をされた。「人間は常にストレスと関わっています。良くも悪くも、ストレスのかかっていない状態はありません」赤ん坊でさえもそうです、と笑う先生に合わせて、僕も笑みを見せる。「これまでの研究で、強いストレスがかかることで一時的に記憶を失うことがわかっています。そして、中村さんがご存知のように、それが急に回復することもあることはアメリカの実験でも例がある」ここまで言うと、篠塚先生は急に僕に身を乗り出すように身体を向けてきた。まるで新しく発見した宝物の在処のヒントを出すような姿勢だった。「私はね、その逆もあると思っているのですよ」「『逆』ですか」「そう、つまり、失った記憶の中から、特に強いストレスを受けた経験を追体験させることで、記憶が回復するのでは、と思ったのです」先生の言うことは突飛のないものではあるが、確かに無いとは言いきれなかった。「そこで、私は人間が強いストレスを受ける経験とは何か、という研究を進めました」しかし、それは、と僕が言うと、百も承知という顔をして更に話を進めた。「そう、人間が受けるストレスなんて、千差万別です。友人関係に悩んだ人もいれば、家族との関係にストレスを感じた人もいる。一般的に受験が最上のストレス、といわれていますが、それも人それぞれです」と先生は身体を元に戻し、落ち着き払ったように続けた。「学校、家族、仕事…人によって受けるストレスが違うのだとすれば、その人の内面がわからなければ、手を打てない。けれど相手は記憶を失くしている。八方塞がりです」そうでしょうね、と僕が言い終わる前に、でもね、と先生は言った。「それでもほぼ全員がある共通のストレス経験を持っていることが分かったんですよ」そんなことがあるわけがない、と僕は言いはしないものの顔に出していた。それを先生は見逃さない。先生の顔が一段と光ったように見えた。「その追体験をすれば記憶が回復するかもしれない」
そこまで言うと、先生は言葉を閉めるようにコーヒーを口に含んだ。僕は一刻も早くその中身を知りたいと思った。さっきまで先生に会話をコントロールされ、今度は心までコントロールされているようだった。
「そのストレス経験とは何ですか」
僕は懇願するような口調になっていた。先生はコーヒーを一気に飲み干すと、真っ直ぐな目で僕を見る。やはりさっきと同じ宝物の在処を見つけた少年のような顔をしている。
「『初恋』ですよ」
僕は一瞬、分からなくなって、もう一度訊いた。先生は何度でも言う、という顔で答えた。
「その人の『初恋』を追体験させるんですよ」
降り立った駅は初めてだった。インターネットで調べなければ改札を出てどちらへ向かうかも分からない。地図に強い方ではないから、地図上にある目印になるような建物に当たりをつけ、そこを基準に方向を定めていく。降り立った左手に大手のコンビニチェーンがあると書いてあるのだけれど、コンビニは入れ替わりが早く、違うチェーン店に変わっていることも少なくない。前にそれに惑わされて正反対の方へ向かっていたこともがあった。それ以来、違う目印に変えている。大手のファミレスチェーンに目印を定め、そこを背にした方向に大学があるというので、僕は正しい方角へ向かい歩き始める。途中もことあるごとに目印に注意をして、自分が正しい道順を進んでいることを確認する。目的地へは5分足らずで到着することが出来た。駅から5分ほどしか離れていないというのに、周囲はとても静かで、閑静な住宅街に場違いのように聳え立つ新目のビルが、その大学だった。 入って直ぐに改札機のようなものがある。学生はそこに学生証を当てて入構しているようだ。もちろん僕は持っていない。どうしようかと思っていると、改札機の手前に案内所があった。僕はそこで13時からアポを取った旨を話すと、案内所にいた女性は何やら電話をし、すぐに僕はゲスト用の入構証受け取り、中に入ることができた。入構証を受け取る時に研究室の場所を聞き、そこへ向かう。エスカレーターで3Fに移動すると、廊下を真ん中に左右に研究室が並んでいる。研究室の表札を見ながら進んでいくと、中間の辺りに篠塚先生の研究室があった。ノックをすると中から若々しい声が聞こえた。言われるがままに中に入ると、資料で見た篠塚先生がそこにいた。椅子に座りコーヒーを飲む姿は落ち着いて見えるが、資料で見た時よりも外面は若々しかった。30代はおろか、20代と言われても、場合によっては信じていたかもしれない。はじめまして、と立ち上がる彼は薄いブルーのワイシャツで清潔感がある。「小堺先生からうかがっています」清潔感はその笑顔でより際立つ。
「記憶喪失からの回復についてですよね」
そう言うと、早速ですが、と半ば急かすように篠塚先生は話を切り出した。どうやらこの後にも客人がいるらしい。僕はまず朝美のことを詳しく説明した。説明の間、先生は何も言うことなく、熱心にメモを取っていた。僕が話した後に、いくつか質問をされて、それで朝美のことは終わった。「中村さんは小堺先生のところで学んでいる、ということなので、ある程度心理学には精通していると思います」「教育心理ですが、今回の件である程度は勉強したつもりです」それなら、と先生は少し安心した顔を見せる。余計な説明を省けるらしい。「ストレスと記憶の関係は既にご存知ですね」僕は海馬とストレスの関係について簡単に話す。既に卒論のことは小堺教授から話されているのだろう、少し話すだけで、合格です、という顔をされた。「人間は常にストレスと関わっています。良くも悪くも、ストレスのかかっていない状態はありません」赤ん坊でさえもそうです、と笑う先生に合わせて、僕も笑みを見せる。「これまでの研究で、強いストレスがかかることで一時的に記憶を失うことがわかっています。そして、中村さんがご存知のように、それが急に回復することもあることはアメリカの実験でも例がある」ここまで言うと、篠塚先生は急に僕に身を乗り出すように身体を向けてきた。まるで新しく発見した宝物の在処のヒントを出すような姿勢だった。「私はね、その逆もあると思っているのですよ」「『逆』ですか」「そう、つまり、失った記憶の中から、特に強いストレスを受けた経験を追体験させることで、記憶が回復するのでは、と思ったのです」先生の言うことは突飛のないものではあるが、確かに無いとは言いきれなかった。「そこで、私は人間が強いストレスを受ける経験とは何か、という研究を進めました」しかし、それは、と僕が言うと、百も承知という顔をして更に話を進めた。「そう、人間が受けるストレスなんて、千差万別です。友人関係に悩んだ人もいれば、家族との関係にストレスを感じた人もいる。一般的に受験が最上のストレス、といわれていますが、それも人それぞれです」と先生は身体を元に戻し、落ち着き払ったように続けた。「学校、家族、仕事…人によって受けるストレスが違うのだとすれば、その人の内面がわからなければ、手を打てない。けれど相手は記憶を失くしている。八方塞がりです」そうでしょうね、と僕が言い終わる前に、でもね、と先生は言った。「それでもほぼ全員がある共通のストレス経験を持っていることが分かったんですよ」そんなことがあるわけがない、と僕は言いはしないものの顔に出していた。それを先生は見逃さない。先生の顔が一段と光ったように見えた。「その追体験をすれば記憶が回復するかもしれない」
そこまで言うと、先生は言葉を閉めるようにコーヒーを口に含んだ。僕は一刻も早くその中身を知りたいと思った。さっきまで先生に会話をコントロールされ、今度は心までコントロールされているようだった。
「そのストレス経験とは何ですか」
僕は懇願するような口調になっていた。先生はコーヒーを一気に飲み干すと、真っ直ぐな目で僕を見る。やはりさっきと同じ宝物の在処を見つけた少年のような顔をしている。
「『初恋』ですよ」
僕は一瞬、分からなくなって、もう一度訊いた。先生は何度でも言う、という顔で答えた。
「その人の『初恋』を追体験させるんですよ」
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