舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

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episode.24(2007/4/17⑤)

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 朝美の顔が見えると、僕は反射的に知里の身体を押し返していた。知里は何も気にする様子もなく、また僕の方に顔を寄せて、離れてしまった唇を僕に押し当てた。一体、何が起こっているのか、僕はとにかくこの状況を止めることしか頭に無かった。相手が女性であるということも忘れ、僕は今度は突き飛ばすように知里を押し返した。華奢な知里は大きく後ろに仰け反り、半ば倒れ込むように後ろの机に寄りかかった。あれだけ強く突き飛ばしたというのに、知里は一切の表情を変えることなく、あたかもそうなることが分かっていたかのように笑みを浮かべ、振り向いた先にある朝美にも、その笑顔を向けた。
 混乱する頭の中で、僕はこれが知里によって仕組まれていたことだとわかった。何も言葉が出てこない僕に、朝美は困ったような苦笑いを浮かべると、そのまま教室を飛び出していった。
「ごめんね、そういうことだから」
走り去る朝美に向かって知里が大きな声で言う。僕はまだ全てを把握することが出来ないまま、それでも朝美を追いかけるしかなく、知里を置いて、教室を飛び出した。
「無駄だよ、言っても」
背中から知里の声を受けながら、僕はそれを無視するように朝美を追う。僕はそこまで足の速さには自信が無かったけれど、それでも前を行く朝美の足には追いつくことができた。夢中で朝美の腕を掴み、静止させようとするけれど、朝美はそれを力強く振り解こうとした。
「ちょっと待ってよ、違うんだって」
もっとちゃんと説明をしないといけないんだけど、僕にはそれしか言葉が出てこなかった。
「誤解も何も無いよ、だってしてたじゃない」
朝美は尚も手を振り解こうとする。僕はそれを渾身の力で留めて話をしようとする。
「いや、だから、あれは急に」
けれど朝美は僕の話を聞くこともないし、僕の言葉を拒絶するように言葉を重ねる。
「それならそうと言ってくれたら邪魔しなかったのに」
「邪魔って何だよ」
「放課後の勉強も、朝の勉強も」
「邪魔じゃないよ」
「ちゃんと彼女と過ごしてあげなよ」
「だから、知里は」
僕は振り解こうとされた腕を留めるだけに収まらず、ずっと向こうを向いたままの朝美とちゃんと話をしたくて、朝美がこっちを向くくらいの強さでこちらへ腕を引いた。少しだけ重心がこちらに向いたところで、僕は朝美の肩を持って、初めてその表情を見た。
「ごめんね、私、中村君のこと、何とも思ってないからさ」
朝美は笑顔だった。泣いているようにも見えたし、涙も目に溜めていたのかもしれない。けれど、朝美は笑っていた。
「だから、邪魔になるようなことはしたくないの」
その笑顔に僕は悲しさと切なさと不気味さと、とにかく底の知れない感情のようなものを感じた。これまで全く見たことのない表情だった。その底にあるものが何なのか、それも全く分からないまま、僕はその朝美に貼り付いた笑顔に頭の中が再び混乱し始めた。その混乱で僕の力が一瞬緩んでしまったことを朝美は見逃してはくれなかった。
「じゃあね」
朝美は僕の両手を思い切り振り解くと、そのまま昇降口へと向かって行った。僕にはもう朝美を追いかける気力も言葉も残っていなかった。僕は朝美のことが何もわかっていなかったんじゃないかと思った。最後に振り解かれた時の朝美の手つきには明確な拒絶が感じ取れた。僕たちはもう今後、勉強を教え合うこともないし、登下校を共にすることもないだろう。紫陽花を眺める朝美ももう見ることは出来ない。「壊したくなるんだよね」という知里の言葉が不意に脳内を駆け巡った。そうか、こうやって知里は僕と朝美の関係を壊そうとしたのか。僕はようやく知里の思惑の全てを知ることが出来た。きっとこれまでもこうして色々なものを壊してきたに違いない。そして僕と朝美の関係も壊れた。土台のないぐらぐらと揺れた僕たちの塔を壊すのはさぞ容易かったことだろう。もしかするとあまりに手応えがなくて物足りなく思うかも知れない。去りゆく朝美の背中を見ながら、そんなことを考えていた。

 それからの僕は他人に対して知里から壊されないような強固な関係性を築こうとすることはしなくなった。朝美と時間をかけて作ったものですら簡単に壊されてしまうのだから、どだい無理な話だった。その代わりに、知里が興味すら持たないような薄い関係しか他人と築くことをしなくなった。もしくは壊されたとて何も感じないほどの関係しか築くことをしなかった。その後、僕は直ぐにギター関係で知り合った女の子と付き合った。真琴という名のその子は、薄い関係性を築くにはちょうど良い相手だった。別に相手が軽薄だったというわけではない。とても純粋で良い子だった。良い子過ぎて僕には不釣り合いだと思った。その違和感が僕に何をしても罪悪感を与えることを許さなかったのだ。どんなひどいことをしても「自分がダメな人間だから」「相手が良い子過ぎるから」という理由で自分を許すことが出来た。散々遊んだ挙句に一方的に振ってしまった時でさえも何も感じなかった。新平が中学の時に「飴を噛んだ」と喜んでいたキスや、それ以上の行為も何も感じることは無かった。通過儀礼の1つといった具合だった。新平はあの行為の一体どこを指して「飴を噛んだ」と表現したのだろうか。その思考の欠片も理解することが出来なかった。そもそも僕は初めてのキスを最低の状態で迎えていたのだから、それは仕方のないことだった。


 
 長い沈黙の間に僕は思い出したくない多くのことを思い出してしまった。その間も理穂子は震えるように泣いていた。理穂子はもしかすると本当に僕のことを心配してくれているのかもしれなかった。こんな不誠実なことばかりしている僕を。真琴もそうだった。自分がされた仕打ちを横に置いて、最後まで僕のことを心配していたのだ。僕は理穂子の距離の詰め方に「彼女気取りだ」と嫌悪感を持っていた。酔った勢いであるとはいえ、そう勘違いさせた僕にも責任はあるが、それでも僕は冷たく突き放すことで高校時代と同じバランスを取っていた。理穂子はもうとうの昔にそんなことに気づいていたのではないだろうか。分かった上で尚も僕を心配して距離を詰めているのではないだろうか。目の前で涙を流す理穂子に対して申し訳のない気持ちが湧き上がってきた。謝ろうかと思った。でも僕はその適切な言葉を持っていなかったし、どうしても僕はバランスを崩すことが出来なかった。

 僕は何も言えずに理穂子の前から立ち去った。


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