舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

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episode.30(2007/4/30)

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2007年4月30日

 賭けに負けてしまった僕は、朝美に篠塚先生の仮説に基づいた治療法を試さなくてはいけなくなった。まだ確証はないが、きっとあの電話は諏訪によるものだろう。諏訪でなくても、あそこまで事情を知っているのだから、恐らく僕のゼミのメンバーであることは間違いない。
 しかし、考えれば考えるほど不可解であった。目的がわからなかった。僕の研究を邪魔する目的、すぐに浮かんだのはそれだった。けれど、それだと合点がいかない部分がある。諏訪と思われる男は朝美の母親に僕が「新しい実験をしようとしている」と言った。それはわかる。もし僕の研究の邪魔をするのであれば、「その実験は危ないから止めさせてほしい」のように実験の中止を求めるものでなければならない。けれども男は「実験を見ていてほしい」と言っている。これでは研究の邪魔にはならない。一体何の目的で朝美の母親に「実験を見ていてくれ」なんて連絡をしたのだろうか。おかげで僕はまだやるかどうかも決めていなかった実験をする羽目になってしまったのだ。

「母から聞きました、今日から新しい方法を試すって」
朝美は少し不安そうな顔をしていた。しかしその不安は僕に対して向けられたものではなく、実験は受け入れるが、その先どうなるかわからないから、それでも私を守っていてほしい、と僕に懇願するような目だった。僕は一旦は不可解なものに対する答えを出すのを止めて、その懇願の目に酔いしれながら話を進めることにした。
「そうですね、けれど、君にはあまり適応されないかもしれない」
「そうなんですか」
昨日一晩考えて出した答えだった。この状況でどうすることが朝美にとって、そして僕にとってベストな選択なのか。
「新しい記憶回復方法とは、君の恋愛遍歴を辿るということです」
恋愛遍歴・・・朝美は言葉を咀嚼するように反芻した。
「本当は初恋が良いのらしいですが、残念ながら僕は中学校以前の君のことを知らない。僕が知らないものは、もちろん君も知らないでしょう、知っていれば記憶回復なんていらないからね」
そうですね、と手垢のついた返事で朝美は答える。このやりとり自体には深い意味はない。
「かといって、中学校時代の君は・・・話した通り、君が強烈に記憶に残っているような恋愛をしている様子はありません」
していたとしたら、もう思い出しているでしょうね、と朝美は抑揚のない口調で答えた。
「であれば、高校時代なのですが・・・すみません、3年間同じクラスだったのですが、君が誰かと恋愛をしていたような記憶が僕にはないんです」
朝美は一瞬だけ目線を下にやった。どういう意味の行動かは分かりかねた。実験が適応されないことを残念に思ったのか、自分に恋人がいなかったことに対してなのか、それとも別の何かのせいなのか。
「ただこれはあくまで『僕が知る限り』ということです。もしかすると僕の知らないところで君が恋愛をしていた可能性は否定できない」
そうでしょうか、怪訝な顔で僕を見るが、僕は構わず続けた。
「だから、高校での記憶をできる限り追っていきましょう、そして僕も知らない朝美さんを少しずつ見つけていきましょう」

 僕は知っている。朝美は高校時代に恋愛をしている。けれどその話をすることが僕には出来なかった。したくなかった。僕がずっと実験をするかしないか迷っていたのは、朝美の高校時代の恋愛の話を僕が単にしたくなかったのだ。相手のことも、それにまつわる僕との関係も何もかも話したくなかったし、万が一それで朝美の記憶が戻ったとしても、僕はそれを認めるわけにはいかないのだ。記憶が戻る、ということは、その相手のことを深く心に刻んでいるということなのだから。僕よりも心に深く。

 だから僕は知らないふりをすることにした。そして、その核心を避けるように、見つからないトピックをこれからもなぞり続けることで時間を稼ぎ、なおかつ実験も表面上は遂行しているように見せかけることにした。これが僕にとってのベストだった。信頼を失うことなく、それでいてこれからも朝美といられる時間を作ることが出来る最良の方法だった。僕は金の埋まる部分を避けるように乾いた砂山を掘り続ければいい。掘っても掘っても乾いた砂がすぐに滑り落ちるように穴を塞いでいく、塞がれた穴をさも初めて掘るかのようにまた掘ればいい。それを繰り返せば、僕は永遠に朝美と砂山から金を探し続けることが出来る。

 自分が如何に卑怯なことをしているのかは誰に言われるまでもなく、火を見るよりも明らかだった。けれどそれで良かった。僕は朝美と過ごすために全てを捨てたのだ。それで良かったんだ。

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