舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

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episode.29(2007/4/29)

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2007年4月29日

 昨日も僕は朝美と当たり障りのない話をして過ごした。高校に入ってからは、知里との一件以来、表立った関わりがなかったこともあって表面上の薄い会話しかできなかった。正直これなら僕でなくてもクラスメートの女子の方がよほどきちんとした思い出を語れるだろうし、担任の教員でも出来るかもしれない、その程度のものだったと思う。朝美は何も不審がることなく、僕の話に耳を傾け、写真を見ながら自分のあるかないかわからない過去の記憶に馳せていた。もちろんそんな会話で何か記憶に変化など起きるはずもなく、側から見れば徒労とも呼べる時間を過ごした。
 けれど僕にはこれで良かったのだ。このまま緩やかな着地に向けて助走をつけるふりをしながら、執着地点への到達を先延ばしにする。僕は迷っていたのではなかった。どうすれば記憶が戻るのか、ということを考えてもいなかった。僕は捜していたのだ。「朝美の記憶を懸命に戻すふりをしながら、このまま朝美といられる方法」を。さくらはとうに見抜いていた。だから僕にあんなことを言ったのだ。理穂子はどうだろうか。図書館のカフェで泣いていた理穂子はそこまで僕のことをわかっていたのだろうか。どちらでも良い。僕はこうして現状一番良い方法を見つけることができた。このまま時間稼ぎをしながら朝美と接すれば良い。何なら最終的に記憶が戻ることを諦めてもらっても良いくらいだ。そっちの方が僕にとっては良いかもしれない。

 そうして数時間の時間を過ごし、何も起こらないまま、また僕は朝美の家を後にしようとした。すると、朝美の母親から声をかけられた。僕は促されるままにリビングに通された。母親が紅茶を淹れている間、僕はリビングのソファでそれを待っていた。挨拶を交わし、少しばかり話すことはこれまでもあったが、こうしてリビングに通されるのは珍しい。僕は不思議な心持ちのまま母親を待った。
「すみません、及び止めをして」
紅茶を運んで来た母親が僕の前に座る。少し浮かない顔をしていることから楽しい話ではないことは容易に想像できる。僕の中で緊張感が高まる。
「昨日、不審な電話が掛かってきたんです」
母親は自分のカップを両手で抱え、カップに口をつけようとして止めた。緊張している僕をよそにカップを置いて話し出す。
「中村さんが新しい実験方法を試そうとしているから、きちんと見ていてほしいって。相手が名乗りませんでしたので、怪しくて切ろうと思ったんですけど、篠塚・・・さんでしたっけ、大学の先生の名前を出されたので、何だか無下にもできなくて」
僕は時が止まってしまったように思った。何が起きても表情に出さないように決めていたが、流石にこれは無理だった。情報を整理して何が起こっているのかを掴むのに必死でそこまで気が回らなかった。
「篠塚先生は確かに僕が今回お世話になっている大学の先生です・・・電話の主は篠塚先生ではないのですか」
母親はわからない、と言った後に、僕と同じくらいの若い男の声だった、と言った。篠塚先生は確かに新鋭の研究者で大学の中では若い方に入るが、それはあくまで大学の教員として、である。若々しいと言ってももう40代に入ろうかというところである。それに名乗らない理由もない。篠塚先生の線は消えた。それであるならば、一体誰が。篠塚先生のことを知っているということは、僕の研究を知っている、ということになる。そうなるとかなり限定される。僕は、はっと諏訪の顔が浮かんできた。僕の研究に最後まで難色を示していたあの男なら、何かしらの妨害を考えていてもおかしくない。今のところ諏訪の意図までは詳しく理解できなかったけれど、これで色々と合点がいった。どうやって朝美の家の電話番号を知ったかという疑問はあったが、それも今考えても仕方がないことだと思った。
「それで、その・・・新しい実験というものは・・・」
面倒なことになったと思った。そんなものは無かった、と否定しても良いと思ったけれど、こうして母親が気になってしまった以上、下手な言い訳をしてしまうと余計に疑念を抱かせてしまう。適当に別の実験方法を言うという手はないか、いや、篠塚先生の名前が割れてしまっている以上、これも変に勘繰られて篠塚先生に確認をされたら、僕が嘘をついていたことが分かってしまう。そうすれば僕の信頼は一気に失われてしまうだろう。僕にとっては少しでも長くこの状態で朝美といる時間を多く確保することが最優先事項なのだ。信頼が揺らいでしまえば、それも叶わない。
「・・・まだそれを試してはいません」
僕はそこで思いついた第三の方法で乗り切ることにした。それが正しいのかはわからなかったけれど、少なくとも嘘をついてしまうよりは良いと思った。
「篠塚先生の提唱する方法は少し心的に負担がかかる可能性があります。僕としては朝美さんの健康状態が第一と考え、少し様子を見てからお話ししようと思っていました。報告が遅くなり、すみません」
母親は僕の言葉で少し表情を明るくした。どうやらその「実験方法」というものが本当に存在するのか、存在する場合は僕が何故それを何も言わないのか、ということも気になっていたらしい。僕の取った方法は今のところベストに近いようだ。
「それで・・・言ってくださらなかったのですね、すみません、少し疑ってしまいました」
「いえ、こちらこそすみません」
母親はようやく紅茶を口にした。ここから僕は賭けに出る。
「どうでしょうか、朝美さんの体調も心配ですし、このままの方法を続けるという道もありますが・・・」
これで母親が「これまで通りで良い」と言えば、僕としては全てが丸く収まる、そう思った。
「その方法が何かがわからないと何とも言えませんが・・・」
と前置きした上で、母親ははっきりと答えた。僕は賭けに負けたのだった。
「私としては、ここまでダメだったので、可能性があるなら、何でも試していただきたいです」
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