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episode.28(2007/4/27)
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2007年4月27日
朝美は変わらずに紫陽花の香りがする白い部屋で僕を待っていた。昨日の夕方に大牟田に着いた僕は、そのまま朝美の元へ向かっても良かった。実際に3月の帰郷の時にはそうしたのだった。けれどそれをしなかったのは、恐らく僕の中でまだこれからどうするのかの踏ん切りが付かなかったからだった。踏み出してしまえばもう戻れない道のような気がした。こういう時の僕はいつも間違った方を選択してきたような気がしてしまうのだ。中学で朝美たちのダブルデートについて行ったことも、一緒に勉強している時に何度も訪れたであろう告白するチャンスをすべてスルーしてしまったことも、同じ高校を選択したことも、文系を選択して同じクラスになってしまったことも、もっと強く知里を拒絶しなかったことも、全部全部間違った選択の上に今の僕が成り立っているような気がした。そしてついこの間まで朝美と交わらない道を進んでいたこともそうだと思った。だから自分の選択に自信が持てなかったのだ。
朝美を前にしたら自然と気持ちが定まるんじゃないかと思ったけれど、そんなことはなかった。余計に混乱した。いや、別にカオスになったということではない。「間違えたくない」という気持ちが強くなって、正解を見つけようとこれまでのことを一気に思い出そうとしてしまっただけだった。僕は間違えたくなかった。今度こそ間違えなかったら、違えてしまった二人の道がまた交わったまま進むんじゃないかと思うのだ。一度目は腕からすり抜けていく空気のように一気に朝美が離れていくのが分かった。何をしても無駄だった。無駄なだけじゃなく悪化した。底無し沼でもがいているみたいだった。動かなくても沈むってわかっているから必死で抵抗したのに、余計に朝美が遠くなっていく。そんなことはもう嫌だった。そんな気持ちが僕を余計に慎重にさせた。
「あまり考えすぎない方が良いですよ」
鈴のことをお願いするときに、どうしてもさくらに事情を説明しなければならなくなって打ち明けた時に彼女はそう言った。いつものように冗談半分ではあったけれど、半分は間違いなく冗談ではなかった。目が笑っていなかった。
「考えすぎないって」
僕の質問にさくらは困ったような顔をしたけれど、少し考えるふりをして僕に言った。
「深入りするな、ってことですよ」
「深入りしないと記憶なんか戻せないだろ」
僕がそう反論すると、さくらはそうじゃないんだよなぁという顔をした。曲作りをしている時によくする顔だからすぐにわかった。
「その朝美さんの過去に深入りするなってことじゃないんですよ」
諭すというよりは説得のような口調だった。
「今の朝美さんに深入りするなってことですよ」
今、目の前に座っている朝美は過去の朝美と同じなのだろうか。口調は柔らかくなったけれど、声色も姿も朝美に違いはない。けれど、さくらはそれは朝美であり、朝美ではない、と言った。本当の朝美は隠れんぼをしていて、僕は鬼になって朝美を捜しているのだと。追いかけながら記憶の残像のように実体にしているだけなのだ、と。
「捜し出した時にイメージの乖離があると混乱しますよ」
さくらはだから深入りしない方が良いと言った。確かにその通りだと思った。だから間違えたくなかった。記憶が戻った時に間違った僕ではまた混乱すると思った。
いや、違う。そうじゃない。僕が間違えたくなかったのは、過去の朝美に対してだろうか。僕は今ここにいる朝美ではない朝美に対してではないか。僕はもう深入りしているのだ。さくらの忠告は遅かった。僕はもうこの朝美と新しい関係を築こうとしているのだ。記憶が戻るかどうかは僕の信用への付加価値でしかない。何ならそれで関係が崩れるのなら記憶なんか要らない。僕は混乱に乗じて、ただ自分への最もらしい三分の理を見つけたかっただけだった。ハッキリと分かった。だから僕は朝美との1ヶ月ぶりの再会を喜び、当たり障りのない会話をして部屋を出た。篠塚先生のことには微塵も触れなかった。
さくらはそこまで読んでいたのだと思う、だから帰りがけにあんなことを言ったのだ。
「本当に朝美さんの記憶が戻ってほしいと中村さんが思うなら、の話ですけどね」
朝美は変わらずに紫陽花の香りがする白い部屋で僕を待っていた。昨日の夕方に大牟田に着いた僕は、そのまま朝美の元へ向かっても良かった。実際に3月の帰郷の時にはそうしたのだった。けれどそれをしなかったのは、恐らく僕の中でまだこれからどうするのかの踏ん切りが付かなかったからだった。踏み出してしまえばもう戻れない道のような気がした。こういう時の僕はいつも間違った方を選択してきたような気がしてしまうのだ。中学で朝美たちのダブルデートについて行ったことも、一緒に勉強している時に何度も訪れたであろう告白するチャンスをすべてスルーしてしまったことも、同じ高校を選択したことも、文系を選択して同じクラスになってしまったことも、もっと強く知里を拒絶しなかったことも、全部全部間違った選択の上に今の僕が成り立っているような気がした。そしてついこの間まで朝美と交わらない道を進んでいたこともそうだと思った。だから自分の選択に自信が持てなかったのだ。
朝美を前にしたら自然と気持ちが定まるんじゃないかと思ったけれど、そんなことはなかった。余計に混乱した。いや、別にカオスになったということではない。「間違えたくない」という気持ちが強くなって、正解を見つけようとこれまでのことを一気に思い出そうとしてしまっただけだった。僕は間違えたくなかった。今度こそ間違えなかったら、違えてしまった二人の道がまた交わったまま進むんじゃないかと思うのだ。一度目は腕からすり抜けていく空気のように一気に朝美が離れていくのが分かった。何をしても無駄だった。無駄なだけじゃなく悪化した。底無し沼でもがいているみたいだった。動かなくても沈むってわかっているから必死で抵抗したのに、余計に朝美が遠くなっていく。そんなことはもう嫌だった。そんな気持ちが僕を余計に慎重にさせた。
「あまり考えすぎない方が良いですよ」
鈴のことをお願いするときに、どうしてもさくらに事情を説明しなければならなくなって打ち明けた時に彼女はそう言った。いつものように冗談半分ではあったけれど、半分は間違いなく冗談ではなかった。目が笑っていなかった。
「考えすぎないって」
僕の質問にさくらは困ったような顔をしたけれど、少し考えるふりをして僕に言った。
「深入りするな、ってことですよ」
「深入りしないと記憶なんか戻せないだろ」
僕がそう反論すると、さくらはそうじゃないんだよなぁという顔をした。曲作りをしている時によくする顔だからすぐにわかった。
「その朝美さんの過去に深入りするなってことじゃないんですよ」
諭すというよりは説得のような口調だった。
「今の朝美さんに深入りするなってことですよ」
今、目の前に座っている朝美は過去の朝美と同じなのだろうか。口調は柔らかくなったけれど、声色も姿も朝美に違いはない。けれど、さくらはそれは朝美であり、朝美ではない、と言った。本当の朝美は隠れんぼをしていて、僕は鬼になって朝美を捜しているのだと。追いかけながら記憶の残像のように実体にしているだけなのだ、と。
「捜し出した時にイメージの乖離があると混乱しますよ」
さくらはだから深入りしない方が良いと言った。確かにその通りだと思った。だから間違えたくなかった。記憶が戻った時に間違った僕ではまた混乱すると思った。
いや、違う。そうじゃない。僕が間違えたくなかったのは、過去の朝美に対してだろうか。僕は今ここにいる朝美ではない朝美に対してではないか。僕はもう深入りしているのだ。さくらの忠告は遅かった。僕はもうこの朝美と新しい関係を築こうとしているのだ。記憶が戻るかどうかは僕の信用への付加価値でしかない。何ならそれで関係が崩れるのなら記憶なんか要らない。僕は混乱に乗じて、ただ自分への最もらしい三分の理を見つけたかっただけだった。ハッキリと分かった。だから僕は朝美との1ヶ月ぶりの再会を喜び、当たり障りのない会話をして部屋を出た。篠塚先生のことには微塵も触れなかった。
さくらはそこまで読んでいたのだと思う、だから帰りがけにあんなことを言ったのだ。
「本当に朝美さんの記憶が戻ってほしいと中村さんが思うなら、の話ですけどね」
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