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壱章 切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ
陸話 面会と就職
しおりを挟む「大広間はこちらです」
男として女性の肌に触れて気が高ぶるのはまあ、仕方のないことだと思う。
なんて言い訳をしているとどうやら殿様の待つ大広間に着いたらしく、ギラギラと金色に光る襖が目の前にあった。
お殿様が待っている部屋なのだから金メッキってことはないだろう。であれば当然本物の金箔が貼ってあるわけで……少し緊張してきた。
「お客様をお連れ致しました」
中から言葉が返ってくることはなかった。
「……留守か?」
「いえ。どうぞお入りください」
そう言うとわずかに襖を開け、俺の入室を促す。
しかし入れと言われ、お殿様の部屋に入る際のマナーなど俺には知る由もない。一応洋室でのマナーなら学校で習った記憶もあるが、和室なんて想像も付かない。
先ほど少女は俺の部屋に入る時、座ったままわずかな隙間を開けて部屋の中に身を入れていた。しかし和室とはまた違い、大広間……座ったまま殿様の元に行くのは無理だろう。
「くっ……」
勉強をしながら「ながら観」していた大河ドラマを必死に思い出す。記憶の中の武士たちは割とずかずか歩いていたが……武士とは要するに身分の高い者。それもドラマに出てくるような名のある人たちと、身元不詳の俺とではやっていいことと悪いことがある。
……調子に乗ったらその場で斬られる可能性もあるんじゃないか……?
「ええい、ままよ……!」
ぼそりと呟くことで自分を鼓舞し、室内に一歩踏み入れる。確か畳の縁は家紋が入ってるから踏んでは駄目だったな、と思い出しながら踏み出した一歩は随分と大きなものになってしまった。
そのままさらに一歩前に進み、豪華な襖とは違って実に質素な俺のよく知る畳を目にし、そして上座を向く。
一段。と言ってもわずか十センチ足らずだけ高くなったそこに、白雪様はいた。
「――――っ」
息を呑む、とはこういうことを言うのだろう。俺は呼吸をすることすら忘れて、白雪様を食い入るように見つめた。
まず目に入ったのは、黄金の襖に仕切られたこの空間に浮かぶ漆黒。
白雪様は黒檀のように真っ黒なドレスを身に纏い、漆のように艶やかに輝く長い黒髪を小姓に持たせていた。おそらくその美しい髪が地面に付かないようにするためだろう。
彼女はロココ調の、和室には全く似合っていない中世風の椅子に深く腰掛け、透明なグラスに注がれた黄金色のどろりとした飲み物を呷っていた。
傍らでは側仕えの武士が腰の大小に手を当ててこちらを睥睨しているが、その威圧感すらも白雪様の纏う空気が殺している。
その圧倒的な存在感は決して元の世界では感じ得なかったもの。前の世界で政治家や芸能人の一人や二人は目にしたことがあったが、比べることすら烏滸がましいと思ってしまう。
「おい」
「っ」
武士に急かされ、俺はようやく自分が入室するなり棒立ちでいたことを思い出した。
「す、すみません」
歩みを再開する。平衡感覚が失われたようにブレる身体を意思の力で押さえつけ、なんとか前に進んだ。
しかしどこまで進めばいいのか。目印となるものも、客が座る座布団などもなかった。
こちらを全く意に介していない白雪様から目線を外し、そっと隣の武士に視線をやる。白雪様の髪を持っている小姓もそうだが、この武士も麗しく若い女だ。
その女の表情がより剣呑になったのを察し、俺は足を止める。そしてその場で両膝を開き、袴の裾が絡まないよう左右に払ってから膝をついて座った。
そして頭が高い、と言われる前に平頭する。
そのまま十秒経ち、二十秒経ち、一分が経過した。頭上からは先ほどの飲み物を嚥下する音と、果実を千切って咀嚼する音だけが聞こえてくる。
即座に斬られないということは、致命的なミスをしていないと思っていいのだろうか。
ぐるぐると思考の渦に呑まれる。俺が読んでいた小説は王様にタメ口を聞いていたが、どんな胆力の持ち主だ。
「頭を上げよ」
平頭してから何分経っただろう。俺は唐突にご尊顔を拝見することを許された。
女性にしては少し低い、耳障りの良い声だった。
「はっ」
俺は記憶の中にある武士のように返答し、頭を上げた。
当然ではあるが白雪様は俺を見ていた。やや切れ長な瞳の奥に、少しの好奇心を覗かせて。
「あなた、名前は?」
先ほどの形式的な口調ではなく本来の柔らかな口調にどくどくとうるさい鼓動が少し落ち着く。
「赤穂内蔵助と申します」
殿様相手とはいえ、流石に己の名を噛んだりはしない。しかし予想以上に淀みなく答えることができて、内心ほっと胸を撫で下ろす。
「内蔵助……そう、内蔵助と言うのね。私は白雪 亜梨子(しらゆき ありす)。白国の守護貴族よ」
守護貴族……聞き覚えのない単語だ。守護大名のようなものだろうか。
「ねえ、内蔵助。あなたおかしな格好をしていたでしょう? どこから来たの? 上方かしら?」
おかしな格好とは制服のことだろうか。フルプレートの騎士と袴姿の武士が混在する世界で、おかしいと言われるのはいささか心外である。
ちなみに上方……は日本で言うと京都のことだ。天皇が住んでいた都であるためそう言われていたらしい。この世界でも天皇は存在するのだろうか?
「いえ、都ではありません。ここよりずっと東の……海の先から、やってきました」
「まあ、海の向こうから!?」
白雪様は懐から出した扇子で口元を隠しながら、驚いたように目を見開いた。
海の先、というのは当然でまかせである。異世界から来たなんて言ったら狂言者として斬られる可能性もあった。しかし海の向こうが存在すると思われている世界かどうかは半ば賭けであったが、訝しむより驚いているということは賭けに勝ったと見ていいだろう。
「ねえ、内蔵助。あなた行くところはあるの? お金は? 何か仕事をするつもりだったのかしら?」
「えっと……宛てのない旅をしていたもので行くところは特に……路銀も尽きてしまい、仕事も決まっておらず……」
目をキラキラと輝かせながらそう聞く白雪様に違う意味で気圧されながらも、なんとか順番に答えていく。
だが遠方から来たという嘘を真にするために作られた赤穂内蔵助という存在は、ただの浪人になってしまっていた。
いや行くところも金も仕事もない、それは完全に真実であるのだが。
「そう! それは良かった! ……ねえ、内蔵助。あなたさえ良ければ御伽衆に就かないかしら?」
「殿!? 何を考えておられるのですか!?」
御伽衆とは何でしょう、と俺が尋ねる前に、控えていた武士の人が声を荒げて割って入ってきた。
「こんな身元も知れぬ下人をこの場に呼ぶどころか、あまつさえ相談役として召し抱えると申すのですか!?」
なるほど、御伽衆とは相談役のことなのか。
しかし御伽とはおとぎ話の御伽だと思うが、何故相談役を御伽衆と呼ぶのだろう。相談役とは名ばかりで、寝物語でも聴かせるのが本業だったりするのかも知れない。
「でもこの内蔵助、刀で斬り合っていたのよ? 武士じゃないかしら?」
「揚げ足を取らないでください! それに、武士であるのなら余計に問題です! 上方の間者かも――――」
「綱吉」
果たして俺はどうなるのだろうかと、半ば他人事のように二人のやり取りを見ていた。
だが綱吉と呼ばれた武士の人が「上方の間者」と言葉にした途端、空気が一瞬で凍る。
入室した時に感じた白雪様の威圧感。だが話をしてみれば案外可愛さがあるというか、とても話しやすくて年齢相応の愛嬌が白雪様にはあった。
しかし今綱吉さんを見る目にそんなものはない。冷え冷えとした目だ。たとえば人を見下しているとか馬鹿にしているとか、そんな慢心すらない。
どうやって殺そうか。そんな声が聞こえてきそうなほど、ただただ冷たかった。俺は人生で一度もこんな目を見たことがない。稽古で殺気を纏わせて俺に斬りかかってきた祖父ですら、その瞳には人間味があったのだから。
事実、大小を佩いた、死のやり取りをしてきたであろう綱吉さんですらその瞳の前では狼狽している。
「ねえ、綱吉。どうして上方から……お母様の国から間者が来るのかしら?」
「そ、それは……」
「……もういいわ。あなたがお母様から借り受けた客将でなければ、今すぐにでも腹を切らせたのに」
腹を、切らせた……?
俺には二人の背景が全く分からない。だがこの殿様は、一度の失言で腹を切らせようとするような人なのか……?
「あら、内蔵助。放っておく形になってごめんなさいね? それじゃあ今日から御伽衆の一人として励んでちょうだい」
何故か俺が御伽衆になることが決定していた。だが先ほどのやり取りを見て、否とでも言おうものならどうなるのか……そう考えると、俺の答えは一つしかなかった。
「……は、はい」
こうして俺は、突然迷い込んだ世界で職を得た。
しかしそれがどう転ぶかは、全くもって想像できないのであった……。
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