Captive of MARIA

松子

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Case03 スターリングス・オブ・カラミティ

Case03-3

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 十区画に分けられたアンダーグラウンドのうち、スワロウテイルが縄張りとするのは六から八の三区画である。隣り合う九番街には天狼が拠点を構えるが、縄張りについては不可侵が暗黙の了解となっており、日常的にいざこざが発生することはない。
 むしろ問題なのは、逆側の境界線だ。

 統治する組織のない五番街は、地下発生後の早い段階で壁面の一部が崩落する事故があり、一時は地区全体が立ち入り禁止区域となっていた。当時の地下主導の復興計画も、近年の地上主導の再開発計画も、いずれも初期の段階で頓挫してしまったため、事故以来ずっと無骨な岩盤を晒し続けている。
 瓦礫の山が過去の遺跡のように残され、四分の一の建築物に亀裂が走っているような街が、やがて貧民街となるのは無理からぬことであった。

 街区の境界は、中立地帯である三、四番街には簡単なフェンスがあるものの、他に明確に仕切る何かがあるわけではない。振られた数字はあくまでも地番に過ぎず、当然スラム街の拡大を止める防波堤もない。隣接する六番街に侵食した荒廃地区は、じわりじわりと広がっていた。

 菫は、テンポ良くカンカンと高い音を奏でていた脚を止めた。六番街の端にあるマンションの外階段からは、貧民街とそうでない場所との境がよく見える。
 五番街の事実上の拡大は、六番街を治めるスワロウテイルとしては頭の痛い問題ではあるが、すぐ打てるような手は持ち合わせていない。だが日に数回の見回りと、ここ数年に関して言えば、このマンションの住人が、多少の抑止力にはなっているようだった。

 一通り辺りを見渡すと、菫は再び脚を動かし、もう二階分の階段を上がった。錆の浮いたドアノブを捻り、七階の通路に入る。埃とカビの臭いがする廊下を数メートル進むと、最初に現れたドアの前で足を止めた。
 コンコンコン、と硬い音を三回鳴らす。リビングから玄関までの距離を思い描き、充分な時間を待ったが、ドアが開く様子はない。

――いないか。
 だが、念の為もう一度だけノックをしようと菫が片手を持ち上げたと同時、ようやくガチャリと鍵の開く音がした。
「――よう」
 重たいドアの隙間から、眉間に幾筋もの皺を寄せて顔を出した部屋の主は、菫を見るとたちまち相好を崩した。「入れ入れ」と、ドアが大きく押し開けられる。相手が目上だろうと目下だろうと、一言目は挨拶を口にするのが本当だろうが、目に入った家主の姿に、思わず菫は礼節を忘れた。

「……なんて格好で出てくるんですか……」
 男の上半身を覆うものは肩にかかるタオルのみで、短い髪からは水が滴っていた。下にはジーンズを履いているものの、ベルトどころかボタンも留まっていない。細い廊下を進みながら、「ああ?」と雑に問い返す後ろ姿には、ウエストに差された銃が見えた。

「お前が急に来るからだろうが。帰ったの明け方なんだよ」
「……すみません、連絡もなしに」
 とても二十も年上の男とは思えない、無駄のない背中を追って、菫はリビングへと入った。荷物をダイニングテーブルに置き、脱いだ上着を椅子の背にかける。
 家主のだらしない格好とは裏腹に、室内は小綺麗にされていた。

「別にいい、どうせカラスの行水だ。コーヒー飲むか?」
 髪を乾かすより先に、男は煙草を咥えた。使い込まれたオイルライターが高い音を鳴らす。
「あ、いや、俺淹れます」
「お前客だろ、座ってろ」
 煙の登る指先で奥のソファを示し、男がキッチンに回った。
 ボスであり、保護者でもあった彼に気を使う癖が抜けず、菫は「すみません」と苦笑する。ちらりとソファを見やるが、すぐに腰を下ろす気にはならず、持参した荷を解くとカウンター越しに掲げて見せた。

「京悟さん、これ。ワインと、日持ちしそうなツマミ作って来たんで」
「おー、悪いな」
 酒も煙草も食事も、京悟の好みは熟知している。嬉しそうな笑みを見せる彼に、菫もつられて微笑んだ。

 スワロウテイルの前頭領である朝川京悟あさかわきょうごがその座を降りてから、すでに三年が経つ。
 せめて近くに住めばいいのにという蓮司らの言葉を無視し、京悟は引退後、あろうことかスラムのすぐ隣に腰を落ち着けた。
 気が楽だと言うのは貧民街出身の京悟本人だけで、蓮司たちも六番街の住人も気が気ではなかったが、今では周囲もずいぶん慣れたようだ。時折街境で乱闘していたなどという話を聞くが、それも最早元気な便りとして扱われている。

「お前と違ってインスタントだぞ」
「いえ、充分です。すみません」
 両手に一つずつカップを持った京悟が、早く座れと言うようにソファを顎でしゃくった。L字型のソファに囲まれたセンターテーブルに、肉厚なマグカップが二つ、ゴトリと置かれる。
 灰皿の縁に吸いかけの煙草を預けると、京悟はようやく肩に掛けたタオルで髪を拭きながら、隣の部屋へ入っていった。

「――他の連中は元気にしてんのか?」
「ええ、相変わらずですね」
 ソファの端に腰掛け、隣室からの問いかけに少しボリュームを上げて答える。
「京悟さんもお変わりないようで」
 揶揄するような口調で続けると、「あ?」とまたもぞんざいな返しが、今度はわずかにくぐもって聞こえた。
 朝帰りと吸い殻の量を指していることは、どれだけ察しの悪い人間であってもすぐにわかる。濃いグレーのTシャツを身に着けてリビングに戻ってきた京悟は、「おかげさんでな」と、八重歯の覗く少年のような顔で笑った。

「まあでも、煙草の量はいい加減どうかと思いますけどね」
「へいへい」
 京悟はソファに腰を下ろすと、言ったそばから灰皿に手を伸ばした。長くなった灰を落として、吸いさしを口に咥える。
 呆れ混じりの菫の溜息は、煙の中に消えた。

「――で?」
 京悟が煙と共に吐き出した一文字は、それだけで、前置きはもういらないと語っていた。人差し指と中指で煙草を挟んだまま、残りの指で器用にマグカップを持ち上げる。煙と湯気が混ざり合って昇り、一瞬、交差する二人の視線を隔てた。
 ズッと音を立てて熱いコーヒーを啜り、京悟が息を吐く。
「何しに来た?」
 見透かすような黒い瞳に、思わず菫はドキリとした。

 普段の菫ならば、連絡もなしに尋ねるようなことはまずしない。事前に確認もせずに訪れたのは、今日確実に捕まらなくてもいいと、どこかで思っていたからだ。こうして顔を合わせてなお、不在であればよかったのにと思う心すらある。

 話がしたい。だが、したくない。

 隠し事が出来る相手でないことはわかっている。それなのに、可能な限り後回しにしたいと思うほどに、これまで意識的に避けてきた、聞きたくなかった話を聞こうとしている。

「……話を、聞きに」
「何の」
 歯切れ悪く切り出せば、食い気味に切り返される。不機嫌なわけではない。菫が二人目の父と仰ぐ男は、まだるっこしいやり取りが嫌いなのだ。
 菫は俯いて額に手を当て、観念したように長く息を吐いた。
「……蓮司の、話を」
 ゴトンと、マグカップがテーブルに戻される音に、そろそろと視線を上げる。短くなった煙草を吸う京悟の視線は、『蓮司の何だ』とさらに問い詰めているように思えた。

 何と、言えばいいのか。
 蓮司が長い間、何かを恐れ、何かに怯えているのを、菫は知っていた。だが、何もない人間などいないと、探るのはナンセンスだと、幼い心にかかる闇を、見て見ぬふりをし続けた。
 支えてさえいれば、いつか自ずと克服するだろうと、都合の良い保護者を気取り、逃げ続けた。

 その結果、菫が目の当たりにしたのは、想像以上に摩耗していた蓮司の心と、もっともらしいことを言いながら、彼の得体の知れぬ闇を受け入れる自信がなかっただけの、自分の弱さだった。

 菫は、膝の上で両の手をぎゅっと握り合わせた。
「……聞かせてください」
 京悟が蓮司を連れてアジトに戻った日、まだ新参の自分には聞く権利がないと思ったことを。
 大事な『家族』になるにつれ、聞いたらそれが壊れるのではと、恐ろしくてとても聞けなかったことを。
「あいつが、何者なのかという話を」
 そうして菫は、十年間胸にしまい続けた疑問を、ようやく口にした。
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