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4-2 行雲流水(1)
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文久二年(一八六二年)九月。
南の空に浮かぶ太陽の熱は、大岩をも穿つ。
井戸水を撒くと、瞬時に土は暗い色味を帯びた。しかし、痩せたシラス台地と岩をも溶かしそうな陽光に、あっという間に水が干上がり、乾いた砂埃を舞い上がらせる。
「日もだいぶ高なったなぁ。そろそろ準備をせんなぁ」
利良は天を仰いで呟いた。手拭いで額を拭うと、手にしていた土寄鍬を置いた。汗ばんだ手を山から引いた水路に入れ、板を重ねた堰を抜く。すると、青々と葉を揺らす小さな水田にサラサラ水が流れ込んだ。
「利良殿ーっ!!」
同時に、馴染みのあるあの声が、茂みの向こうから響いた。菅笠を被り、薩摩筒(※鉄砲)を抱えた晋祐が大手を振って走ってくる。
「晋祐殿!!」
利良は晋祐に手を振りかえすと、目に眩しく反射する日の光に目を細めた。
「筒ば背負って、山道は疲れ申したどなぁ。一時麦湯でも飲もかい、晋祐殿」
「あぁ、いただこう! 練習はそれからでもいいからなぁ」
晋祐の屈託ない笑顔。
(あん時も、晋祐殿の笑顔に救われもしたなぁ)
利良は、止まらぬ額の汗を手拭いで拭いながら、一年前のことを思い出していた。
巨星墜つ--。
松平慶永、伊達宗城、山内豊信と並び「幕末の四賢候」と言われた島津斉彬が急逝して三年が過ぎた。
当時は、薩摩は混乱を極めていた。
安政五年(一八五八年)、斉彬は大老に就いた彦根藩主・井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。結果、井伊に敗れた斉彬は、藩兵数千人を率いて抗議のため上洛することを決意する。
しかし、出兵による練兵を観覧中の同年八月、斉彬は突然倒れたのだ。そして、そのまま回復することなく死去。享年五十歳。早すぎる、そしてあまりにも呆気ない、巨星の死だった。
練兵のため、その場にいた利良は驚きのあまりただ立ち尽くすことしかできなかった。沢山の人集りを遠巻きに。頭が真っ白になる。
利良自身、あの時のことは断片的にしか思い出せない。ただ、薩摩筒を握る手が強張っていたことだけは、はっきりと記憶していた。
冷たく震える利良の手に、温かな手が触れる。そっと添えられた手を辿ると、その先にある晋祐の視線とが重なった。
--何かが、変わる。
愕然とした思考ながら、利良はそう直感した。その直感は、違いなく当たる。
斉彬を慕う多くの志士が哀しみのあまり、後を追うべく自害しようとした。利良や晋祐が憧憬する、西郷隆盛や大久保利通も例にも漏れず。利良を始めとする若き二才は、打ちひしがれ、薩摩を悲観する先輩方を止めるのに奔走した。
斉彬の遺言により、島津忠徳が家督を継ぎ、新しい薩摩が始まる。しかし、それは名ばかり。藩政の実権は、祖父である斉興が治めることとなった。
代が変わり、お役目も変わる--。
参勤交代のお役目も半分以下の回数となり、代わりに利良に与えられたのは、郷の年貢を徴収すること。未来へと繋がる新世界への道が、目の前で呆気なく閉ざされた形となってしまった。利良は堪らず、地面に膝をつく。
新しい時代の幕開けを。まだ見ぬ新しい世界の一歩を。
気持ちは急いているのに、前に進むことすら叶わない。
なんとも言い難い喪失感が、否が応にも利良を過去に引き戻す。晋祐は、利良に声をかけるのを躊躇った。
家柄一つで、こうも処遇が変わるのか。晋祐がどんなに手を尽くしても何も変わらない。方向の定まらない憤り、無力極まりないな己へと向いていた。眉間に皺を寄せ、拳を握りしめる晋祐に、利良は穏やかな顔をして言った。
「仕方っなかこっじゃ。また気張いもんそ」
要職を失い、田舎で鍬を握ることとなっても。利良は、前を向くことを諦めなかった。幼き頃の輝きを瞳に宿し、己が運命を受け入れ前へと進むと決意していたのだ。
--ダァァァン。
一発の重たい銃声に、木々の間に潜んでいた山鳩が一斉に空へと舞い上がった。深い山に銃声がこだまする。
--ダァァァン。
こだまをかき消す二発目の銃声は、葉を沢山宿した大木を震え上がらせた。同時に、パラパラとまだ青いクヌギの実が落ちる。
「晋祐殿! あげな大か猪っば、よう仕留めやしたなぁ!」
「利良殿だってすごいぞ! 飛んでる山鳩なんて、なかなか仕留められない!」
「偶然やっち!」
「そうだ! 今日は猪鍋にしようか!」
「よかなぁ! そげんしもんそ! 造士館の稚児達にも食わせっみろかい!!」
「いいな! そうしようか、利良殿」
山の中に二人の笑い声が響き合った。
代替わりの後、城内の勘定方となった晋祐は、半ば強引に暇を見つけては、こうしてよく利良を訪ねていた。
斉彬の遺言では、跡を継ぐのは斉彬の六男・哲丸であり、忠徳はあくまでも仮養子という立場だった。斉彬の嫡子は哲丸の外に十人いたが、その内七人が幼い頃に亡くなっている。斉彬の願い虚しく、哲丸も僅か三歳で短き生涯を閉じた。
安政六年(一八五九年)一月のことである。
仮養子である忠徳は正式に跡を継いだのだが、若年の故、祖父の斉興や父・久光に藩の実権を握られてしまう。
その後、西郷隆盛や大久保利通といった、明治維新の立役者にも藩政を掌握されるのだが、元々、主体性に乏しいと言われる忠徳は、実権を取り戻そうとはしなかった。
利良にとっても、晋祐にとっても。何事もなく過ぎていく日々に身を委ねていると、時代の本流から外れた穏やかな支流に流されている気がしていた。
本流から遠くにいる。
もう、本流には戻れない。
あんなに切望した新しい世界は、もう利良の手の届かないところにあるのだと、実感せざるを得なかった。
「誰か……御家老に!!」
造士館において、利良と晋祐が食べ盛りの稚児たちに猪鍋を振る舞っていた、その時。
参勤交代の飛脚が息を切らして、道場に飛び込んできた。それまで幸せそうな顔をして、猪鍋を口一杯に頬張っていた稚児の動きが一斉に止まる。
「何事な。一時、茶なんど飲んみゃんせ」
利良は冷水に浸けた麦湯を鍋から掬い、今にも倒れんばかりに体をふらつかせる飛脚に差し出した。
「御家老達に……至急、伝えっくいやい!」
飛脚は麦湯の入った茶碗など目もくれず、利良に掴みかかる。
限界を超えて走ってきたのだろう。
飛脚の足には草履の跡すらなく、擦り切れて血と膿で腫れた足の裏が痛々しい。途端に、利良の襟を掴む手の力がぬけ、飛脚の体が大きく傾く。利良は咄嗟に飛脚をかかえた。
「おい! 一時待て! しっかりせんか!」
「武蔵ん国、生麦村で、刃傷刃傷沙汰……」
「……今、何ちな!」
「殿が行列に、他所ん国ん人達が……」
「分かったで! 先に、麦湯ば飲んみゃんせ!」
「黒田様は、刀は抜んな、ち……」
「誰か! 御家老を! 急いでくいやい!」
息も絶え絶えに、必死に伝える飛脚の言葉。
利良は、固まる稚児達に向かって叫んだ。弾かれるように、一人の稚児が茶碗を放り出して道場を飛び出した。
「いかん、ち言うた……他所ん国ん人達ば、下馬せんかった、ち」
「ちょ……待たんか! 今、御家老が来っで!」
「供回りん誰かが、切りつけっせぇ……」
「ッ!?」
利良は思わず息を止めた。そして、混乱する思考のまま、晋祐と目を合わせる。
怖がる稚児達を宥めていた晋祐も、あまりのことに声を失った。
外国の者を切った--。
開国まもない日本に、他国の言葉を自由に操れる者など皆無。意思疎通ができなくて当然である。しかし、どういった理由があったにせよ。外国の者を切ったとなれば、薩摩藩だけの問題ではなくなる。利良と晋祐は、不安げに視線を交わした。
「一人は逃ぐっ……二人は、瀕死。もう一人は、絶命しも……した」
絶命--!? 最悪の事態だ!
おそらく、報復はやむを得ずであろう。
未知である他国と一戦を交える。そんなことなど。利良も晋祐も、考えすらしなかったことが、喫緊に差し迫っていた。
その時、薩摩藩藩政の実権を握っていた島津久光は、幕政改革を志して七百余りの軍勢を引き連れて江戸へ出向いていた。
二年前、幕府の権力者・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことが引鉄となり、今まで直視されなった幕府の権威失墜や将軍の跡継ぎ問題が露呈する。求心力を失った幕府内は、瞬く間に混乱を期した。
井伊の後、権力を引き継いだのは安藤信正。公武合体を唱えていた安藤は、文久二年、何者かに襲撃され敵前逃亡という失態を晒す。
公武合体により尊王攘夷派から目の敵にされていた安藤は、この事件をきっかけに失脚。権力者が次々と消えた幕府は均衡を失い、より混乱を極めたのだ。
その情報は、遠い薩摩の地で幕政に業を煮やしていた島津久光にも届いていた。兄である斉彬の無念をはらすべく。朝廷の勅使として江戸に入った久光は、『改革』の二文字を幕府に突きつけた。
幕府は、久光に突きつけられた『改革』を一蹴することもできた。しかし、相手は朝廷の命を受けた勅使。拒否し弾圧したならば、安政の大獄の二の舞となるのは必須。これを恐れた幕府側は、久光等の提示する人事や制度の改革等を受け入れざるを得なかったのだ。
これを〝文久の改革〟という。
穏やかに凪いだ支流に生活の基盤を置いていた利良と晋祐に、突如として降りかかった混乱。
飛脚が息も絶え絶えに語ったイギリス人殺傷事件、所謂〝生麦事件〟は、この改革の帰路で起こったのだ。
南の空に浮かぶ太陽の熱は、大岩をも穿つ。
井戸水を撒くと、瞬時に土は暗い色味を帯びた。しかし、痩せたシラス台地と岩をも溶かしそうな陽光に、あっという間に水が干上がり、乾いた砂埃を舞い上がらせる。
「日もだいぶ高なったなぁ。そろそろ準備をせんなぁ」
利良は天を仰いで呟いた。手拭いで額を拭うと、手にしていた土寄鍬を置いた。汗ばんだ手を山から引いた水路に入れ、板を重ねた堰を抜く。すると、青々と葉を揺らす小さな水田にサラサラ水が流れ込んだ。
「利良殿ーっ!!」
同時に、馴染みのあるあの声が、茂みの向こうから響いた。菅笠を被り、薩摩筒(※鉄砲)を抱えた晋祐が大手を振って走ってくる。
「晋祐殿!!」
利良は晋祐に手を振りかえすと、目に眩しく反射する日の光に目を細めた。
「筒ば背負って、山道は疲れ申したどなぁ。一時麦湯でも飲もかい、晋祐殿」
「あぁ、いただこう! 練習はそれからでもいいからなぁ」
晋祐の屈託ない笑顔。
(あん時も、晋祐殿の笑顔に救われもしたなぁ)
利良は、止まらぬ額の汗を手拭いで拭いながら、一年前のことを思い出していた。
巨星墜つ--。
松平慶永、伊達宗城、山内豊信と並び「幕末の四賢候」と言われた島津斉彬が急逝して三年が過ぎた。
当時は、薩摩は混乱を極めていた。
安政五年(一八五八年)、斉彬は大老に就いた彦根藩主・井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。結果、井伊に敗れた斉彬は、藩兵数千人を率いて抗議のため上洛することを決意する。
しかし、出兵による練兵を観覧中の同年八月、斉彬は突然倒れたのだ。そして、そのまま回復することなく死去。享年五十歳。早すぎる、そしてあまりにも呆気ない、巨星の死だった。
練兵のため、その場にいた利良は驚きのあまりただ立ち尽くすことしかできなかった。沢山の人集りを遠巻きに。頭が真っ白になる。
利良自身、あの時のことは断片的にしか思い出せない。ただ、薩摩筒を握る手が強張っていたことだけは、はっきりと記憶していた。
冷たく震える利良の手に、温かな手が触れる。そっと添えられた手を辿ると、その先にある晋祐の視線とが重なった。
--何かが、変わる。
愕然とした思考ながら、利良はそう直感した。その直感は、違いなく当たる。
斉彬を慕う多くの志士が哀しみのあまり、後を追うべく自害しようとした。利良や晋祐が憧憬する、西郷隆盛や大久保利通も例にも漏れず。利良を始めとする若き二才は、打ちひしがれ、薩摩を悲観する先輩方を止めるのに奔走した。
斉彬の遺言により、島津忠徳が家督を継ぎ、新しい薩摩が始まる。しかし、それは名ばかり。藩政の実権は、祖父である斉興が治めることとなった。
代が変わり、お役目も変わる--。
参勤交代のお役目も半分以下の回数となり、代わりに利良に与えられたのは、郷の年貢を徴収すること。未来へと繋がる新世界への道が、目の前で呆気なく閉ざされた形となってしまった。利良は堪らず、地面に膝をつく。
新しい時代の幕開けを。まだ見ぬ新しい世界の一歩を。
気持ちは急いているのに、前に進むことすら叶わない。
なんとも言い難い喪失感が、否が応にも利良を過去に引き戻す。晋祐は、利良に声をかけるのを躊躇った。
家柄一つで、こうも処遇が変わるのか。晋祐がどんなに手を尽くしても何も変わらない。方向の定まらない憤り、無力極まりないな己へと向いていた。眉間に皺を寄せ、拳を握りしめる晋祐に、利良は穏やかな顔をして言った。
「仕方っなかこっじゃ。また気張いもんそ」
要職を失い、田舎で鍬を握ることとなっても。利良は、前を向くことを諦めなかった。幼き頃の輝きを瞳に宿し、己が運命を受け入れ前へと進むと決意していたのだ。
--ダァァァン。
一発の重たい銃声に、木々の間に潜んでいた山鳩が一斉に空へと舞い上がった。深い山に銃声がこだまする。
--ダァァァン。
こだまをかき消す二発目の銃声は、葉を沢山宿した大木を震え上がらせた。同時に、パラパラとまだ青いクヌギの実が落ちる。
「晋祐殿! あげな大か猪っば、よう仕留めやしたなぁ!」
「利良殿だってすごいぞ! 飛んでる山鳩なんて、なかなか仕留められない!」
「偶然やっち!」
「そうだ! 今日は猪鍋にしようか!」
「よかなぁ! そげんしもんそ! 造士館の稚児達にも食わせっみろかい!!」
「いいな! そうしようか、利良殿」
山の中に二人の笑い声が響き合った。
代替わりの後、城内の勘定方となった晋祐は、半ば強引に暇を見つけては、こうしてよく利良を訪ねていた。
斉彬の遺言では、跡を継ぐのは斉彬の六男・哲丸であり、忠徳はあくまでも仮養子という立場だった。斉彬の嫡子は哲丸の外に十人いたが、その内七人が幼い頃に亡くなっている。斉彬の願い虚しく、哲丸も僅か三歳で短き生涯を閉じた。
安政六年(一八五九年)一月のことである。
仮養子である忠徳は正式に跡を継いだのだが、若年の故、祖父の斉興や父・久光に藩の実権を握られてしまう。
その後、西郷隆盛や大久保利通といった、明治維新の立役者にも藩政を掌握されるのだが、元々、主体性に乏しいと言われる忠徳は、実権を取り戻そうとはしなかった。
利良にとっても、晋祐にとっても。何事もなく過ぎていく日々に身を委ねていると、時代の本流から外れた穏やかな支流に流されている気がしていた。
本流から遠くにいる。
もう、本流には戻れない。
あんなに切望した新しい世界は、もう利良の手の届かないところにあるのだと、実感せざるを得なかった。
「誰か……御家老に!!」
造士館において、利良と晋祐が食べ盛りの稚児たちに猪鍋を振る舞っていた、その時。
参勤交代の飛脚が息を切らして、道場に飛び込んできた。それまで幸せそうな顔をして、猪鍋を口一杯に頬張っていた稚児の動きが一斉に止まる。
「何事な。一時、茶なんど飲んみゃんせ」
利良は冷水に浸けた麦湯を鍋から掬い、今にも倒れんばかりに体をふらつかせる飛脚に差し出した。
「御家老達に……至急、伝えっくいやい!」
飛脚は麦湯の入った茶碗など目もくれず、利良に掴みかかる。
限界を超えて走ってきたのだろう。
飛脚の足には草履の跡すらなく、擦り切れて血と膿で腫れた足の裏が痛々しい。途端に、利良の襟を掴む手の力がぬけ、飛脚の体が大きく傾く。利良は咄嗟に飛脚をかかえた。
「おい! 一時待て! しっかりせんか!」
「武蔵ん国、生麦村で、刃傷刃傷沙汰……」
「……今、何ちな!」
「殿が行列に、他所ん国ん人達が……」
「分かったで! 先に、麦湯ば飲んみゃんせ!」
「黒田様は、刀は抜んな、ち……」
「誰か! 御家老を! 急いでくいやい!」
息も絶え絶えに、必死に伝える飛脚の言葉。
利良は、固まる稚児達に向かって叫んだ。弾かれるように、一人の稚児が茶碗を放り出して道場を飛び出した。
「いかん、ち言うた……他所ん国ん人達ば、下馬せんかった、ち」
「ちょ……待たんか! 今、御家老が来っで!」
「供回りん誰かが、切りつけっせぇ……」
「ッ!?」
利良は思わず息を止めた。そして、混乱する思考のまま、晋祐と目を合わせる。
怖がる稚児達を宥めていた晋祐も、あまりのことに声を失った。
外国の者を切った--。
開国まもない日本に、他国の言葉を自由に操れる者など皆無。意思疎通ができなくて当然である。しかし、どういった理由があったにせよ。外国の者を切ったとなれば、薩摩藩だけの問題ではなくなる。利良と晋祐は、不安げに視線を交わした。
「一人は逃ぐっ……二人は、瀕死。もう一人は、絶命しも……した」
絶命--!? 最悪の事態だ!
おそらく、報復はやむを得ずであろう。
未知である他国と一戦を交える。そんなことなど。利良も晋祐も、考えすらしなかったことが、喫緊に差し迫っていた。
その時、薩摩藩藩政の実権を握っていた島津久光は、幕政改革を志して七百余りの軍勢を引き連れて江戸へ出向いていた。
二年前、幕府の権力者・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことが引鉄となり、今まで直視されなった幕府の権威失墜や将軍の跡継ぎ問題が露呈する。求心力を失った幕府内は、瞬く間に混乱を期した。
井伊の後、権力を引き継いだのは安藤信正。公武合体を唱えていた安藤は、文久二年、何者かに襲撃され敵前逃亡という失態を晒す。
公武合体により尊王攘夷派から目の敵にされていた安藤は、この事件をきっかけに失脚。権力者が次々と消えた幕府は均衡を失い、より混乱を極めたのだ。
その情報は、遠い薩摩の地で幕政に業を煮やしていた島津久光にも届いていた。兄である斉彬の無念をはらすべく。朝廷の勅使として江戸に入った久光は、『改革』の二文字を幕府に突きつけた。
幕府は、久光に突きつけられた『改革』を一蹴することもできた。しかし、相手は朝廷の命を受けた勅使。拒否し弾圧したならば、安政の大獄の二の舞となるのは必須。これを恐れた幕府側は、久光等の提示する人事や制度の改革等を受け入れざるを得なかったのだ。
これを〝文久の改革〟という。
穏やかに凪いだ支流に生活の基盤を置いていた利良と晋祐に、突如として降りかかった混乱。
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織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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