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5ー3 闇
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「市川!」
警察官の制服に身を包んだ市川は、自分の名を呼ぶ懐かしい声に振り返った。そこには、紫紺の捜査腕章を左腕にはめた同期の霜村がいる。霜村は、いつもの明るい笑顔で市川に手を振った--。
四年前の十月八日、夜の始まりはとても穏やかだった。眠らない街を静かに照らすのは、上弦の月。市川の身に降りかかる事件の予兆すら感じさせないくらい、その月は明るくあたたかな光を放つ。
F県警察B警察署。
警察署の一階にある窓口は、夕方から翌日の朝にかけて当直体制に切り替わる。管内で発生した様々な事件事故・相談等に二十四時間対応するためだ。夜間や年末年始問わず発生する、あらゆる事象に備え、警察署員は交替で全身全霊で執行力を発揮するのだ。
月の光は明かるくとも、街の隅々までは届かない。隙間を照らす明かりは非常に小さく、薄い。足元が見えない沼の中にる錯覚を起こし、心許なくなる。深い闇を宿した街の泥濘みに潜む〝何か〟は、いつでも足元を掬うべく、闇に沈む沼の中で虎視眈々と機会を伺っているのだ。
市川はツートンのパトカーから降りると、空を見上げた。細く長い月は、相変わらず市川を見守るかのように夜の空に浮かぶ。
夜はまだまだこれからだ。目まぐるしく過ぎる日常の、ほんの一瞬であるにも拘らず、夜の深みは市川の腕時計はカチンと長針を揺らした。
十月八日、午前零時五分。
市川は刑事課からの連絡を受け、勤務する交番から警察署に来ていた。用件を済ますだけなのだが、市川の胸は早鐘の如く鼓動する。警察署の空気は独特だ。ここ何年かは警察本部の中で異動することが多かった市川にとって、久しぶりに勤務する警察署。
昇任試験に合格し、警部補として任用をうけた市川は人事異動でB警察署にある、中規模交番の交番長《ハコチョウ》を命ぜられた。
〝現場に近い場所で勤務する〟
それが希望だった市川は、自分が席を置く環境に納得していた。何かといえば真っ先に矢面に立たねばならない交番勤務。しかしそれは、警察官としての職責と原点回帰にほからならない。
交番勤務には必須である制服の折り目や腰回りの装備の重たさ。それを具に感じる。それらは、市川の気持ちに心地よい緊張感を与えていた。
側から見れば華奢な市川は、制服にもその上から着用した対刃防護衣にも着られている印象がある。しかし、そんなことを気にもしない様子の市川は、腰回りの装備をガチャガチャと鳴らしながら、軽い足取りで夜間通用口のドアから警察署の中に入った。
「J交番の市川です。刑事課から依頼された、盗難届の引き継ぎをお願いします」
「……今?」
当直の窓口に座っていた捜査腕章をした若い警察官が、眠そうな表情で返事をする。市川はその返答に困惑した。冷水のような視線と、見下し突き刺さる圧。手にした鞄を持ち直した市川は、なるべく表情を変えずに返事をした。
「至急、と連絡がありましたので」
「マジかよ」
恐らく、年下に見られているのであろう。風格がないと多少は自覚はしているものの。随分と横柄な態度をとるその警察官に、市川は苦笑した。
(刑事課に引き抜かれて、嬉しいんだろうな。きっと)
若手職員特有のものだ。そう思うと、なんだか市川の中で燻っていた困惑も落ち着いてくる。一つ成長した我が子が紆余曲折を経て更なる成長の過程を垣間見る。〝子を成長を見守る親〟のような気分になった市川は、返事の代わりに笑顔で返した。
「交番はいいよなぁ。事件も事故も引き継いだら、後はサヨナラ。未決なんてないもんなぁ」
「……そうですね、すみません」
「そこ、置いといてよ」
「え?」
「後で引き継ぐから。そこ、置いといて」
困惑はおさまった市川だったが、ありえない応答に新たな困惑が浮上し、驚愕して息が止まった。捜査に関わる書類をその辺に置け、と言った警察官の言動。紛失等の非違事案に繋がる恐れのある言動に、流石の市川も一喝しようかと考えあぐねた。その時。
「市川!」
懐かしい声が市川の名を呼んだ。一瞬で高鳴る鼓動を抑え、市川は振り返った。紫紺の捜査腕章を左腕にはめた霜村が、いつもの明るい笑顔で市川に向かって手を振った。
「霜村、久しぶり」
「!?」
自分の上司にあたる霜村を、しがない交番員が親しげに呼び捨てにする。若い警察官は、一変した状況に絶句していた。首を忙しく動かしながら、市川と霜村を交互に見る。
「村下ぁ、おまえ失礼なこと言わなかったか?」
「え?」
村下と呼ばれた若い警察官は、自分の肩に回された霜村の手の重みに顔を引き攣らせた。
「J交番の市川交番長だぞ?」
「え!? えぇ!?」
「ひょっとして知らなかったのか? 昇任試験を一発でクリアしてきた、将来、刑事部長クラス間違いなしの市川交番長だぞ?」
「い、いえ! 存じ上げております!」
じっとりと、真綿で首を締め上げるように村下を追い詰める霜村の言葉。村下は縦にも横にも大きな体をカタカタと震わせながら、勢いよく立ち上がって市川に最敬礼をした。
「霜村だって、一発で昇任してるだろ」
「まぁな」
自信満々に答える霜村に、市川は笑いながら黒い鞄の中から一冊のファイルを取り出した。市川が差し出したそのファイルを、霜村はしっかりと右手で受け取る。
「依頼してたの、連続窃盗の可能性があるヤツだろ?」
「さすが市川、カンがいいな」
「霜村の考えそうなことが、分かるだけだよ」
霜村は固まる村下を残して、ファイルを片手に当直窓口の奥へと消えた。
その時、市川の耳に差し込まれたイヤホンから、事件を知らせる警報音が響いた。
『警察本部からB署当直』
『B署当直です。どうぞ』
通信司令官のはっきりとした声。無線機を介して、その声に応えるのは、先刻まで話をしていた霜村だった。
『B署管内堀江町山波ビル付近路上にて〝何かが爆発したような音がする〟との付近住民による一一〇番通報あり。B署にあっては受傷事故防止に留意し、直ちに現場に臨場されたい。繰り返す……』
(ここから近いな……)
司令にジッと耳を傾けていた市川は、頭がスッと冷たくなる、心地よい緊張感に全身を引き締めた。
「市川ッ! おまえパトできてるよな!」
無線の応答を終えた霜村が、大きな黒い鞄を肩にかけて足早に歩きながら、市川に向かって叫んだ。市川は霜村に笑顔で「あぁ」と短く返事をする。
「行くぞ! 市川」
いつもだと、同じ刑事課に勤務する霜村と村下は、ペアで行動するのだ。しかし今、村下の身にはイレギュラーな事態が起こっていた。霜村の隣を歩くのは村下ではなく、小馬鹿にしていた制服警察官の市川。間にも入れない二人の雰囲気に気圧されるかたちとなった村下は、二人をただただ見送る。
「え? 俺は?」
肩を並べて警察署を後にする二人の背に放った村下の小さな呟き。その言葉は、静まり返った当直の窓口に漂っていた。
警察署を出た市川と霜村は、ツートンのパトカーに体を滑り込ませる。シートベルトをした市川は、エンジンキーを回した。車体がグッと沈み込む感覚がして、シフトレバーを切り替える。
「B署十三から、本部」
『本部です、どうぞ』
市川が車載無線機のリモコンを握った。
「B署十三、現場へ急行する」
『本部了解』
「以上、B署十三」
赤色灯とサイレンは敢えて点けずに、市川は静かにパトカーを走らせた。往来する車両も人も疎らの道。市川と霜村を乗せたパトカーは、深い闇を纏う夜を走り抜ける。
「……交番、どうだ?」
静かな車内で、霜村は徐に口を開いた。
「急にどうしたんだ? 霜村」
「いや……おまえほど優秀なら、交番長なんてって思ってさ」
霜村の唐突な言葉に、市川は苦笑する。
「そういうけど、交番長も結構やりがいがあるよ」
「刑事には、来ないのか?」
市川は「刑事は霜村に任せたよ」と苦笑しなが言うと、慎重にハンドルを左へきった。
「今は交番長としての仕事を覚えなきゃな。専門はまたそれからでもできるから」
「……変わんねぇな」
「何が?」
「優秀なのに、自己評価が低いところ」
「優秀じゃないよ」
「優秀だろ」
「それは霜村だろ?」
「……」
「霜村は刑事。切田は鑑識。それぞれが、それぞれの力を発揮している。二人ともかなり優秀だよ」
「……」
司令で指示のあった対象物が見え、市川は速度を徐々に落とす。エンジン音を小さくしながら、灯りもついていないビルに近づくと、ゆっくり停車した。
「ここか?」
「そう、みたいだな」
市川と霜村は顔を見合わせる。市川は再び車載無線機のリモコンを握った。
「B署十三から、本部」
『本部です、どうぞ』
「B署十三、現着離席。ただ今より検索を開始する」
『本部了解』
「以上、B署十三」
霜村が緊張した面持ちで「市川、行くぞ」と言うと、市川は引き締まった顔をして無言で頷いた。そして帯格に吊るした懐中電灯を手にとる。
バァンと車のドアが閉まった途端、あたりの静けさが一気に深まった。
暗いひと気のない雑居ビル。市川が持つ懐中電灯は、丸い光を雑居ビルの床面に落とした。駐車場になっている一階の状況を確認すると、市川を先頭に二人は狭い階段を慎重に昇りはじめる。革靴の音を極力抑えながら、市川は一歩ずつ階段に足をかけた。上へと状況を確かめながら進むその時、市川の懐中電灯が何かを捉える。
「誰かいるのか?」
市川が声をかけた瞬間。
「うわぁッ!!」
市川は後頭部に強い衝撃を受けた。硬い何かで殴られた重く割れそうな痛みが、市川の全身を襲った。増すばかりの痛みに意識が遠のく。市川はなす術もなくその場に倒れ込んだ。
「ッ!?」
ハッとして、市川は目を開けた。
覚醒と同時にに全身に痛みが走り、一気に吸い込んだ空気に思いっきり咽せる。痛みに体を軋ませ、胸を圧迫する咳をしながら、市川は無理矢理体を起こした。
(どこだ……? だいぶ、落ちたぞ)
切田を蹴り倒し、無我夢中で走り抜けた先にあった壁の穴から真っ逆さまに落下した市川。落ちた衝撃で、未だ整わない呼吸に、市川は歯を食いしばって膝をついた。体の下には古い断熱材らしき物。床に散らばったそれらのおかげで、落下した際に緩衝材の役目を果たしていたようだ。市川は手を床につくと、ゆっくりと上を見上げた。淡い光が遙か上に差し込んでいる。しかし、その光は市川のいる場所までは届いてはいない。深い暗闇が市川の周りを覆った。
記憶の奥底に沈む四年前の記憶が、体の痛さに拍車をかける。さらに記憶は市川の精神を蝕んだ。体力を気持ちを、かなりの勢いですり減らしていく。
次第に暗闇に目が慣れ、市川は自分のいる部屋をぐるりと見渡した。目を凝らして外へと繋がる窓やドアを探す。窓すらない壁と、部屋の奥に梯子のように急な階段があった。空気孔から流れる風の音が反響し、市川はようやく、ここが建物の地下であることが理解した。
(出口を……出口を、探さなくては)
重たく痛む体を引き摺るように階段へと移動する。その時、市川の頭上から車のエンジンが重く低く、重なって聞こえた。スポーツカーらしいエンジン音と、土や石を踏みつけるタイヤ音が外壁のすぐ横を通過し止まる。
(緒方!?……いや、切田の仲間か!?)
今外に出たら、仲間と思しき人物と鉢合わせる可能性がある。市川は再び室内を見渡した。
(短時間でいい。やり過ごせる時間を稼ぐための、身を隠せるところを探さなければ!!)
市川は目を凝らした。
「あ……」
目を大きく見開いて。痛む体を無理矢理動かしながら、市川は地下の隅へと移動する。市川の視線の先には、埃を被り壁面いっぱいに備え付けられた本棚。その本棚と壁に僅かな隙間を、市川は見逃さなかった。
一か八か。本棚の側面に右肩を押し付ける。市川は持てる力を振り絞って本棚を押した。安定しない足元。押す力が分散されてはいるものの、本棚はギギギと強い摩擦音を上げながら動きだす。徐々に開いていく本棚と壁の隙間。本棚の背面から露わになった、小さな部屋。人ひとりが入るには申し分ない部屋が、市川の目の前に広がる、
(パニックルームか……?)
一瞬、市川はそこに入るのを躊躇した。すぐ見つかってしまうか、それとも……。折角見つけたやり過ごせる場所であるはずなのに、市川の思考は、悪い方向の想像しか働かない。たまらず頭を激しく横に振った。考える暇はない。とりあえず、時間を稼ぐ必要があるのだ。腹を括った市川はフッと短く息を吐いた。そして本棚の向こう側へと這いつくばるように入る。中に入ると、市川は満身創痍の体を気力で奮い立たせた。そして再び、肩で本棚の側面を押した。摩擦音を響かせた本棚の扉は、ゆっくりと、ゆっくりと。奈落の底に渦巻くような闇がパニックルームいっぱいに広がっていく。
ガタン--、と。隙間を残すことなく。市川を飲み込んだパニックルームの扉は今、固く閉じられた。
警察官の制服に身を包んだ市川は、自分の名を呼ぶ懐かしい声に振り返った。そこには、紫紺の捜査腕章を左腕にはめた同期の霜村がいる。霜村は、いつもの明るい笑顔で市川に手を振った--。
四年前の十月八日、夜の始まりはとても穏やかだった。眠らない街を静かに照らすのは、上弦の月。市川の身に降りかかる事件の予兆すら感じさせないくらい、その月は明るくあたたかな光を放つ。
F県警察B警察署。
警察署の一階にある窓口は、夕方から翌日の朝にかけて当直体制に切り替わる。管内で発生した様々な事件事故・相談等に二十四時間対応するためだ。夜間や年末年始問わず発生する、あらゆる事象に備え、警察署員は交替で全身全霊で執行力を発揮するのだ。
月の光は明かるくとも、街の隅々までは届かない。隙間を照らす明かりは非常に小さく、薄い。足元が見えない沼の中にる錯覚を起こし、心許なくなる。深い闇を宿した街の泥濘みに潜む〝何か〟は、いつでも足元を掬うべく、闇に沈む沼の中で虎視眈々と機会を伺っているのだ。
市川はツートンのパトカーから降りると、空を見上げた。細く長い月は、相変わらず市川を見守るかのように夜の空に浮かぶ。
夜はまだまだこれからだ。目まぐるしく過ぎる日常の、ほんの一瞬であるにも拘らず、夜の深みは市川の腕時計はカチンと長針を揺らした。
十月八日、午前零時五分。
市川は刑事課からの連絡を受け、勤務する交番から警察署に来ていた。用件を済ますだけなのだが、市川の胸は早鐘の如く鼓動する。警察署の空気は独特だ。ここ何年かは警察本部の中で異動することが多かった市川にとって、久しぶりに勤務する警察署。
昇任試験に合格し、警部補として任用をうけた市川は人事異動でB警察署にある、中規模交番の交番長《ハコチョウ》を命ぜられた。
〝現場に近い場所で勤務する〟
それが希望だった市川は、自分が席を置く環境に納得していた。何かといえば真っ先に矢面に立たねばならない交番勤務。しかしそれは、警察官としての職責と原点回帰にほからならない。
交番勤務には必須である制服の折り目や腰回りの装備の重たさ。それを具に感じる。それらは、市川の気持ちに心地よい緊張感を与えていた。
側から見れば華奢な市川は、制服にもその上から着用した対刃防護衣にも着られている印象がある。しかし、そんなことを気にもしない様子の市川は、腰回りの装備をガチャガチャと鳴らしながら、軽い足取りで夜間通用口のドアから警察署の中に入った。
「J交番の市川です。刑事課から依頼された、盗難届の引き継ぎをお願いします」
「……今?」
当直の窓口に座っていた捜査腕章をした若い警察官が、眠そうな表情で返事をする。市川はその返答に困惑した。冷水のような視線と、見下し突き刺さる圧。手にした鞄を持ち直した市川は、なるべく表情を変えずに返事をした。
「至急、と連絡がありましたので」
「マジかよ」
恐らく、年下に見られているのであろう。風格がないと多少は自覚はしているものの。随分と横柄な態度をとるその警察官に、市川は苦笑した。
(刑事課に引き抜かれて、嬉しいんだろうな。きっと)
若手職員特有のものだ。そう思うと、なんだか市川の中で燻っていた困惑も落ち着いてくる。一つ成長した我が子が紆余曲折を経て更なる成長の過程を垣間見る。〝子を成長を見守る親〟のような気分になった市川は、返事の代わりに笑顔で返した。
「交番はいいよなぁ。事件も事故も引き継いだら、後はサヨナラ。未決なんてないもんなぁ」
「……そうですね、すみません」
「そこ、置いといてよ」
「え?」
「後で引き継ぐから。そこ、置いといて」
困惑はおさまった市川だったが、ありえない応答に新たな困惑が浮上し、驚愕して息が止まった。捜査に関わる書類をその辺に置け、と言った警察官の言動。紛失等の非違事案に繋がる恐れのある言動に、流石の市川も一喝しようかと考えあぐねた。その時。
「市川!」
懐かしい声が市川の名を呼んだ。一瞬で高鳴る鼓動を抑え、市川は振り返った。紫紺の捜査腕章を左腕にはめた霜村が、いつもの明るい笑顔で市川に向かって手を振った。
「霜村、久しぶり」
「!?」
自分の上司にあたる霜村を、しがない交番員が親しげに呼び捨てにする。若い警察官は、一変した状況に絶句していた。首を忙しく動かしながら、市川と霜村を交互に見る。
「村下ぁ、おまえ失礼なこと言わなかったか?」
「え?」
村下と呼ばれた若い警察官は、自分の肩に回された霜村の手の重みに顔を引き攣らせた。
「J交番の市川交番長だぞ?」
「え!? えぇ!?」
「ひょっとして知らなかったのか? 昇任試験を一発でクリアしてきた、将来、刑事部長クラス間違いなしの市川交番長だぞ?」
「い、いえ! 存じ上げております!」
じっとりと、真綿で首を締め上げるように村下を追い詰める霜村の言葉。村下は縦にも横にも大きな体をカタカタと震わせながら、勢いよく立ち上がって市川に最敬礼をした。
「霜村だって、一発で昇任してるだろ」
「まぁな」
自信満々に答える霜村に、市川は笑いながら黒い鞄の中から一冊のファイルを取り出した。市川が差し出したそのファイルを、霜村はしっかりと右手で受け取る。
「依頼してたの、連続窃盗の可能性があるヤツだろ?」
「さすが市川、カンがいいな」
「霜村の考えそうなことが、分かるだけだよ」
霜村は固まる村下を残して、ファイルを片手に当直窓口の奥へと消えた。
その時、市川の耳に差し込まれたイヤホンから、事件を知らせる警報音が響いた。
『警察本部からB署当直』
『B署当直です。どうぞ』
通信司令官のはっきりとした声。無線機を介して、その声に応えるのは、先刻まで話をしていた霜村だった。
『B署管内堀江町山波ビル付近路上にて〝何かが爆発したような音がする〟との付近住民による一一〇番通報あり。B署にあっては受傷事故防止に留意し、直ちに現場に臨場されたい。繰り返す……』
(ここから近いな……)
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「市川ッ! おまえパトできてるよな!」
無線の応答を終えた霜村が、大きな黒い鞄を肩にかけて足早に歩きながら、市川に向かって叫んだ。市川は霜村に笑顔で「あぁ」と短く返事をする。
「行くぞ! 市川」
いつもだと、同じ刑事課に勤務する霜村と村下は、ペアで行動するのだ。しかし今、村下の身にはイレギュラーな事態が起こっていた。霜村の隣を歩くのは村下ではなく、小馬鹿にしていた制服警察官の市川。間にも入れない二人の雰囲気に気圧されるかたちとなった村下は、二人をただただ見送る。
「え? 俺は?」
肩を並べて警察署を後にする二人の背に放った村下の小さな呟き。その言葉は、静まり返った当直の窓口に漂っていた。
警察署を出た市川と霜村は、ツートンのパトカーに体を滑り込ませる。シートベルトをした市川は、エンジンキーを回した。車体がグッと沈み込む感覚がして、シフトレバーを切り替える。
「B署十三から、本部」
『本部です、どうぞ』
市川が車載無線機のリモコンを握った。
「B署十三、現場へ急行する」
『本部了解』
「以上、B署十三」
赤色灯とサイレンは敢えて点けずに、市川は静かにパトカーを走らせた。往来する車両も人も疎らの道。市川と霜村を乗せたパトカーは、深い闇を纏う夜を走り抜ける。
「……交番、どうだ?」
静かな車内で、霜村は徐に口を開いた。
「急にどうしたんだ? 霜村」
「いや……おまえほど優秀なら、交番長なんてって思ってさ」
霜村の唐突な言葉に、市川は苦笑する。
「そういうけど、交番長も結構やりがいがあるよ」
「刑事には、来ないのか?」
市川は「刑事は霜村に任せたよ」と苦笑しなが言うと、慎重にハンドルを左へきった。
「今は交番長としての仕事を覚えなきゃな。専門はまたそれからでもできるから」
「……変わんねぇな」
「何が?」
「優秀なのに、自己評価が低いところ」
「優秀じゃないよ」
「優秀だろ」
「それは霜村だろ?」
「……」
「霜村は刑事。切田は鑑識。それぞれが、それぞれの力を発揮している。二人ともかなり優秀だよ」
「……」
司令で指示のあった対象物が見え、市川は速度を徐々に落とす。エンジン音を小さくしながら、灯りもついていないビルに近づくと、ゆっくり停車した。
「ここか?」
「そう、みたいだな」
市川と霜村は顔を見合わせる。市川は再び車載無線機のリモコンを握った。
「B署十三から、本部」
『本部です、どうぞ』
「B署十三、現着離席。ただ今より検索を開始する」
『本部了解』
「以上、B署十三」
霜村が緊張した面持ちで「市川、行くぞ」と言うと、市川は引き締まった顔をして無言で頷いた。そして帯格に吊るした懐中電灯を手にとる。
バァンと車のドアが閉まった途端、あたりの静けさが一気に深まった。
暗いひと気のない雑居ビル。市川が持つ懐中電灯は、丸い光を雑居ビルの床面に落とした。駐車場になっている一階の状況を確認すると、市川を先頭に二人は狭い階段を慎重に昇りはじめる。革靴の音を極力抑えながら、市川は一歩ずつ階段に足をかけた。上へと状況を確かめながら進むその時、市川の懐中電灯が何かを捉える。
「誰かいるのか?」
市川が声をかけた瞬間。
「うわぁッ!!」
市川は後頭部に強い衝撃を受けた。硬い何かで殴られた重く割れそうな痛みが、市川の全身を襲った。増すばかりの痛みに意識が遠のく。市川はなす術もなくその場に倒れ込んだ。
「ッ!?」
ハッとして、市川は目を開けた。
覚醒と同時にに全身に痛みが走り、一気に吸い込んだ空気に思いっきり咽せる。痛みに体を軋ませ、胸を圧迫する咳をしながら、市川は無理矢理体を起こした。
(どこだ……? だいぶ、落ちたぞ)
切田を蹴り倒し、無我夢中で走り抜けた先にあった壁の穴から真っ逆さまに落下した市川。落ちた衝撃で、未だ整わない呼吸に、市川は歯を食いしばって膝をついた。体の下には古い断熱材らしき物。床に散らばったそれらのおかげで、落下した際に緩衝材の役目を果たしていたようだ。市川は手を床につくと、ゆっくりと上を見上げた。淡い光が遙か上に差し込んでいる。しかし、その光は市川のいる場所までは届いてはいない。深い暗闇が市川の周りを覆った。
記憶の奥底に沈む四年前の記憶が、体の痛さに拍車をかける。さらに記憶は市川の精神を蝕んだ。体力を気持ちを、かなりの勢いですり減らしていく。
次第に暗闇に目が慣れ、市川は自分のいる部屋をぐるりと見渡した。目を凝らして外へと繋がる窓やドアを探す。窓すらない壁と、部屋の奥に梯子のように急な階段があった。空気孔から流れる風の音が反響し、市川はようやく、ここが建物の地下であることが理解した。
(出口を……出口を、探さなくては)
重たく痛む体を引き摺るように階段へと移動する。その時、市川の頭上から車のエンジンが重く低く、重なって聞こえた。スポーツカーらしいエンジン音と、土や石を踏みつけるタイヤ音が外壁のすぐ横を通過し止まる。
(緒方!?……いや、切田の仲間か!?)
今外に出たら、仲間と思しき人物と鉢合わせる可能性がある。市川は再び室内を見渡した。
(短時間でいい。やり過ごせる時間を稼ぐための、身を隠せるところを探さなければ!!)
市川は目を凝らした。
「あ……」
目を大きく見開いて。痛む体を無理矢理動かしながら、市川は地下の隅へと移動する。市川の視線の先には、埃を被り壁面いっぱいに備え付けられた本棚。その本棚と壁に僅かな隙間を、市川は見逃さなかった。
一か八か。本棚の側面に右肩を押し付ける。市川は持てる力を振り絞って本棚を押した。安定しない足元。押す力が分散されてはいるものの、本棚はギギギと強い摩擦音を上げながら動きだす。徐々に開いていく本棚と壁の隙間。本棚の背面から露わになった、小さな部屋。人ひとりが入るには申し分ない部屋が、市川の目の前に広がる、
(パニックルームか……?)
一瞬、市川はそこに入るのを躊躇した。すぐ見つかってしまうか、それとも……。折角見つけたやり過ごせる場所であるはずなのに、市川の思考は、悪い方向の想像しか働かない。たまらず頭を激しく横に振った。考える暇はない。とりあえず、時間を稼ぐ必要があるのだ。腹を括った市川はフッと短く息を吐いた。そして本棚の向こう側へと這いつくばるように入る。中に入ると、市川は満身創痍の体を気力で奮い立たせた。そして再び、肩で本棚の側面を押した。摩擦音を響かせた本棚の扉は、ゆっくりと、ゆっくりと。奈落の底に渦巻くような闇がパニックルームいっぱいに広がっていく。
ガタン--、と。隙間を残すことなく。市川を飲み込んだパニックルームの扉は今、固く閉じられた。
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だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
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