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7ー1 過ち(1)
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『F二十九から警察本部』
『警察本部です。どうぞ』
『県道三十二号線北上。B市方面林道、現在のところ異常なし。林道行き止まりにつき、佐野、田中両名は周辺検索を開始する。現時刻をもって離席。どうぞ』
『警察本部、了解。なお、検索に当たっては受傷事故防止に注意し、拳銃等の使用については十分配慮されたい』
『了解。以上、F二十九』
舗装が十分とはいえない林道にハンドルを取られながら、勇刀は捜査員からの無線に耳を傾けていた。その隣で、遠野はスマホの灯りを頼りに、手元の地図にボールペンでバツをつける。道の所為でガタガタと揺れることすら、遠野は気にする様子もない。勇刀は意識的にスピードを落とした。
「どうした? 緒方」
「……バツ、何個ついたっすか?」
答えは分かっている、そんな口調で勇刀は遠野に尋ねた。
「……七、だな」
「把握していない脇道があったら話は別っすけど……多分、この道」
「ビンゴだな」
「はい」
気配を音を、なるべく消すように。アクセルを小刻みに踏みながらハンドルをきる勇刀は、木々に埋もれる細い道を進む。
互いの緊張が伝わったのか。勇刀も遠野も、グッと口を噤んだ。同時にジャケットの下に吊るした金属の塊の重さを思い出す。肩から吊るした私服警察官用の拳銃ホルスターの中には、携行を認められた拳銃が一丁。市川を誘拐した犯人は、警察官を襲撃し拳銃を強奪するほどの凶悪犯だ。ましてや四年前の凄惨な事件にも繋がりうる犯人である可能性が高い。とはいえ、勇刀も遠野も、なるべくホルスターから拳銃を抜くことは避けたいと考えていた。
「緒方」
遠野が、静かに口を開く。
「拳銃の使用には十分配慮しろ」
「はい」
「稲本、おまえもだぞ」
「は……はい」
いきなり話を振られることになった稲本も、遠野の圧のある声に思わずホルスターにおさまった拳銃を触った。瞬間、久しぶりに警察官らしい格好をしている、と稲本は変に自覚する。特別専従室ではあり得ないこと。長い間忘れていた緊張感に、思わず口角が上がった。その時、稲本のスマートフォンが短く震える。
「はい、特従・稲本です」
稲本は緊迫した静かな車内で応答した。
その声を聞きながら、勇刀は霜村のスマートフォンから引き出したデータを反芻していた。
『本当に大丈夫なのか?』
霜村のメッセージから始まるやりとり。たった数行の言葉。勇刀は違和感しかおぼえなかったのだ。
『心配しないでよー。大丈夫だから。何? 今更怖気付いた?』
『違う。そんなんじゃない』
『シモムーは一番になりたいんでしょ? だったら、その願いを叶えなくちゃー』
強くはないものの、霜村の痛いところをつく口調や、真綿でじっくりと締め上げ、追い詰めるような言い回し。それは、インターネットでライブ配信をしていたあの男と符合する箇所が多い。一方、野望に自我を失いつつも、理性との間に揺らぐ霜村の気持ちが、短い文面からも伝わってきた。
『じゃあさ、オレにちょうだいよー』
『ちょうだい?』
『シモムーの前じゃ殺さない。オレに渡してくれたら、シモムーの目に触れないところで始末してあげるー』
『本当か?』
『本当も何も、オレだってプロだよ? 信じてよー』
『分かった、頼む』
『了解ー』
『万が一だが、俺も保険をかけたい』
『保険?』
『俺に対する保険だ。俺に万が一の事があれば、お前の存在も明るみになるだろ?』
『それで? 何がしたいわけー?』
『俺もお前も無傷で終わりたいじゃないか、その保険だ』
『ふーん。それで? どうするの?』
『ある男に証拠隠滅を頼んだ。万が一の場合、俺とお前の痕跡を片っ端から消すように言ってある。悪い話じゃないだろう?』
『そうだねー。じゃ頼むよ、シモムー』
勇刀の中で、パズルのピースがパチンとはまる。全てが繋がった瞬間にも拘らず、勇刀の腹の中はなんとも言い難い渦を宿していた。
霜村と切田が繋がっていた。霜村が命を落とした理由は未だ謎のまま。さらに事件直後にとった切田の行動が、どうしても腑に落ちない。
何故、証拠品のデータを消したのか。何故、霜村のコールドケースを漁る勇刀を牽制したのか。指紋を消したと言って、何故市川の様子をうかがいにきたのか。
狡猾だ。真実を知りながら何事もない平気な顔をして、勇刀に話しかけた切田の表情。怒りを覚えると同時に、勇刀の脳裏は無意識に、鑑識の最中に見せた切田の真摯な表情を重ねていた。どこで道を踏み外したのか。勇刀には考えも及ばなかったが、真摯に鑑識に取り組んでいたのなら、こうはならなかったはずである。それは霜村に対しても同様だ。誰かを殺したいほど自分が一番になりたい、という身勝手な感情にどうしようもない怒りが噴きあがった。
「遠野係長」
怒りに支配された勇刀とは対照的に、電話越しに二言三言交わした稲本が、落ち着いた声で遠野に話しかける。
「切田を必ず確保せよ、と首席監察官からの命令です」
「……そうか」
遠野は、稲本の言葉にため息混じりで答えた。
「いつもこの時ばかりは、スッキリしねぇよなぁ」
窓枠に肘をついて、暗く何も写さない車外の風景に視線を投げる。
「非違事案ってわかるよな、緒方」
「はい」
警察職員が起こした不祥事に対して、あまり表面化していない非法行為と違法行為を指し、行政内部の用語として使われる言葉だ。
かつて、警察をめぐる不祥事が続発し、国民の警察に対する信頼が大きく失墜したことがあった。勇刀が、採用される以前のことである。採用されてから今までの間、勇刀は色んな所属で同じような指示事項を繰り返し耳にし、必ずといっていいほどこの言葉を口にさせられてきた。自分には縁遠いと思っていたことである。しかし、今その言葉に直面し少なからずとも他山の石とする事が、今の勇刀にはできなくなっていた。
「直前まで仲間だったそいつに、手錠《わっぱ》をかける。その度に、ここんとこがイヤにモヤモヤすんだよ」
「……でも、やったことは許せないっす」
遠野は、ハハッと乾いた声で笑う。
「緒方はそういうだろうと思ったよ」
「……おかしい、ですか?」
「いや、お前が正常なんだよ」
勇刀は遠野を横目で確認する。窓ガラス越しに映る遠野の顔は、穏やかなのに何故か苦しそうに見えた。
「これ以上……教え子を失いたくねぇな」
「遠野係長」
勇刀の僅かな視線に気付いた遠野は、苦笑いをすると助手席を軋ませながら座り直す。
「心配するな、緒方。お前が懸念するようなことはしねぇよ。間違ってもな」
遠野の発したその言葉に、勇刀はグッとハンドルを握りしめた。
「分かってます。信じてますから、遠野係長のこと」
「……信じてねぇだろ」
「信じてますって!! 遠野係長は……遠野係長が今、一番苦しいはずですから」
「……」
遠野は思わず言葉を失った。
「緒方ぁ。お前、本当よく見てんなぁ」
「自慢じゃないっすけど、唯一の自慢です」
「自慢じゃねぇかよ」
冗談とも本気ともつかない勇刀の発言に、遠野はたまらず声を上げて笑う。張り詰めた緊張の糸が、ふっと緩み、後悔の念で渦巻く遠野の胸が幾分、軽くなったような気がした。
「緒方ッ! 止まれッ!」
後部座席にいた稲本が鋭く叫び、勇刀は声に即座に反応してブレーキを踏んだ。ガクン、とセダンタイプの覆面パトカーが前後に大きく揺れた。
「……んだよ、稲本ぉ」
「……右手奥、見ろよ」
「暗くてわかんねぇよ」
「よく見ろよ、建物がある……」
ハンドルに体を乗せて勇刀が、林の向こうの暗闇に目を凝らす。助手席にいた遠野は、勇刀の肩を掴んで身を乗り出した。暗闇に目が慣れると、次第に稲本が言っていた建物が輪郭を現してくる。
「……あった!」
「緒方! 無線いれろッ!!」
「はいッ!」
遠野の声に、弾かれたように勇刀は無線を握った。
「F三十から、警察本部並びに各局! F三十から、警察本部並びに各局! 県道三十二号線南下、I市方面林道先に建物を確認!! 繰り返す!! I市方面林道先に建物を確認!! 直ちに応援を要請する!!」
上擦る勇刀の声が、無線にのる。耳をつん裂くその声は、林道を走行する覆面パトカーの動きを止めた。
『警察本部、了解。各局直ちに現場に急行し周辺検索中にあたっては、受傷事故防止に努められたい。F三十にあっては、その場で応援が到着するまで待機』
「こちら、F三十。ただ今より周辺検索を開始、以上を持って離席する!」
勇刀は強く言い放つと、無線機のリモコンを車内に投げ捨てる。
「……遠野係長、いきましょう!」
「あぁ!」
遠野は、腹の底から唸るような声で答えた。
「俺も行くぞ!」
後部座席の稲本は、声を震わせながら気合いを入れるように言う。勇刀は頷いた。音を立てずにドアを開けると、林道特有な湿っぽい暗闇の地面に足を下ろした。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「俺の情報屋、かな?」
初めてルカに会った時の印象は、中学生のようだったと切田は記憶している。似つかわしくない、寂れた喫茶店。煙草の香りがソファーに染み付いた薄暗い店内で、少年は切田を見て、ニコニコと愛想よく笑った。
「で? この人は何ができるの? シモムー」
その純粋でストレートな言葉に、切田は面食らった。霜村が言った〝情報屋〟が信じられなかったのだ。今では〝情報屋〟以上の言葉が、しっくりとくる。
--〝サイコパス〟
その言葉が、切田の背筋をスッと寒くさせた。落ちた沼から這い上がれない。まとわりついた泥は、切田を沼の底に縛りつけて動けなくする。そこはかとない恐怖に切田はさらに頭に血が巡らなくなった。ぼんやりとした思考に、ルカの声がガツンと響いて無意識に言うことを聞かざるをえなくなるのだ。
「ちゃんと片付けた? 切田さーん」
背後からぶつけられたその声に、切田はビクッと体を震わせた。振り返ると、不機嫌そうな顔をしたルカが立っている。その後ろから、背の高い男が、何を抱えて階段を昇ってくるのが見えた。
「市川……!?」
「大丈夫だよ。死んでないから」
「ッ!!」
「オレが市川さんを、殺すわけないでしょ? 」
苛立ちながら答えるルカの横をすり抜け、背の高い男はぐったりと動かない市川を古いマットレスにゆっくりと下ろす。
「もう……いやだ」
切田が呻いた。
「はぁ? 何言ってんの? 切田さん」
今の現状にも過去の過ちからも逃げたいと、心底思った。自ら蒔いた種子であることはわかっている。わかっているからこそ、今自分が立たされている現状に耐えられなかったのだ。
「うわぁぁぁ!!」
何かが切田の中で、崩れていく。理性も、立場も、人格も。叫び声をあげてルカに殴りかかった。繰り出される乱れた拳を、ルカは難なくよけると、体制を崩した切田の背中に蹴りをいれた。床に突っ伏す切田の背中に銃口を向ける。
「……オレ、めっちゃ機嫌が悪いんだけど?」
ガチャリと撃鉄を引く不気味な音が部屋に響く。同時に弾倉がゆっくりと回転した。
『警察本部です。どうぞ』
『県道三十二号線北上。B市方面林道、現在のところ異常なし。林道行き止まりにつき、佐野、田中両名は周辺検索を開始する。現時刻をもって離席。どうぞ』
『警察本部、了解。なお、検索に当たっては受傷事故防止に注意し、拳銃等の使用については十分配慮されたい』
『了解。以上、F二十九』
舗装が十分とはいえない林道にハンドルを取られながら、勇刀は捜査員からの無線に耳を傾けていた。その隣で、遠野はスマホの灯りを頼りに、手元の地図にボールペンでバツをつける。道の所為でガタガタと揺れることすら、遠野は気にする様子もない。勇刀は意識的にスピードを落とした。
「どうした? 緒方」
「……バツ、何個ついたっすか?」
答えは分かっている、そんな口調で勇刀は遠野に尋ねた。
「……七、だな」
「把握していない脇道があったら話は別っすけど……多分、この道」
「ビンゴだな」
「はい」
気配を音を、なるべく消すように。アクセルを小刻みに踏みながらハンドルをきる勇刀は、木々に埋もれる細い道を進む。
互いの緊張が伝わったのか。勇刀も遠野も、グッと口を噤んだ。同時にジャケットの下に吊るした金属の塊の重さを思い出す。肩から吊るした私服警察官用の拳銃ホルスターの中には、携行を認められた拳銃が一丁。市川を誘拐した犯人は、警察官を襲撃し拳銃を強奪するほどの凶悪犯だ。ましてや四年前の凄惨な事件にも繋がりうる犯人である可能性が高い。とはいえ、勇刀も遠野も、なるべくホルスターから拳銃を抜くことは避けたいと考えていた。
「緒方」
遠野が、静かに口を開く。
「拳銃の使用には十分配慮しろ」
「はい」
「稲本、おまえもだぞ」
「は……はい」
いきなり話を振られることになった稲本も、遠野の圧のある声に思わずホルスターにおさまった拳銃を触った。瞬間、久しぶりに警察官らしい格好をしている、と稲本は変に自覚する。特別専従室ではあり得ないこと。長い間忘れていた緊張感に、思わず口角が上がった。その時、稲本のスマートフォンが短く震える。
「はい、特従・稲本です」
稲本は緊迫した静かな車内で応答した。
その声を聞きながら、勇刀は霜村のスマートフォンから引き出したデータを反芻していた。
『本当に大丈夫なのか?』
霜村のメッセージから始まるやりとり。たった数行の言葉。勇刀は違和感しかおぼえなかったのだ。
『心配しないでよー。大丈夫だから。何? 今更怖気付いた?』
『違う。そんなんじゃない』
『シモムーは一番になりたいんでしょ? だったら、その願いを叶えなくちゃー』
強くはないものの、霜村の痛いところをつく口調や、真綿でじっくりと締め上げ、追い詰めるような言い回し。それは、インターネットでライブ配信をしていたあの男と符合する箇所が多い。一方、野望に自我を失いつつも、理性との間に揺らぐ霜村の気持ちが、短い文面からも伝わってきた。
『じゃあさ、オレにちょうだいよー』
『ちょうだい?』
『シモムーの前じゃ殺さない。オレに渡してくれたら、シモムーの目に触れないところで始末してあげるー』
『本当か?』
『本当も何も、オレだってプロだよ? 信じてよー』
『分かった、頼む』
『了解ー』
『万が一だが、俺も保険をかけたい』
『保険?』
『俺に対する保険だ。俺に万が一の事があれば、お前の存在も明るみになるだろ?』
『それで? 何がしたいわけー?』
『俺もお前も無傷で終わりたいじゃないか、その保険だ』
『ふーん。それで? どうするの?』
『ある男に証拠隠滅を頼んだ。万が一の場合、俺とお前の痕跡を片っ端から消すように言ってある。悪い話じゃないだろう?』
『そうだねー。じゃ頼むよ、シモムー』
勇刀の中で、パズルのピースがパチンとはまる。全てが繋がった瞬間にも拘らず、勇刀の腹の中はなんとも言い難い渦を宿していた。
霜村と切田が繋がっていた。霜村が命を落とした理由は未だ謎のまま。さらに事件直後にとった切田の行動が、どうしても腑に落ちない。
何故、証拠品のデータを消したのか。何故、霜村のコールドケースを漁る勇刀を牽制したのか。指紋を消したと言って、何故市川の様子をうかがいにきたのか。
狡猾だ。真実を知りながら何事もない平気な顔をして、勇刀に話しかけた切田の表情。怒りを覚えると同時に、勇刀の脳裏は無意識に、鑑識の最中に見せた切田の真摯な表情を重ねていた。どこで道を踏み外したのか。勇刀には考えも及ばなかったが、真摯に鑑識に取り組んでいたのなら、こうはならなかったはずである。それは霜村に対しても同様だ。誰かを殺したいほど自分が一番になりたい、という身勝手な感情にどうしようもない怒りが噴きあがった。
「遠野係長」
怒りに支配された勇刀とは対照的に、電話越しに二言三言交わした稲本が、落ち着いた声で遠野に話しかける。
「切田を必ず確保せよ、と首席監察官からの命令です」
「……そうか」
遠野は、稲本の言葉にため息混じりで答えた。
「いつもこの時ばかりは、スッキリしねぇよなぁ」
窓枠に肘をついて、暗く何も写さない車外の風景に視線を投げる。
「非違事案ってわかるよな、緒方」
「はい」
警察職員が起こした不祥事に対して、あまり表面化していない非法行為と違法行為を指し、行政内部の用語として使われる言葉だ。
かつて、警察をめぐる不祥事が続発し、国民の警察に対する信頼が大きく失墜したことがあった。勇刀が、採用される以前のことである。採用されてから今までの間、勇刀は色んな所属で同じような指示事項を繰り返し耳にし、必ずといっていいほどこの言葉を口にさせられてきた。自分には縁遠いと思っていたことである。しかし、今その言葉に直面し少なからずとも他山の石とする事が、今の勇刀にはできなくなっていた。
「直前まで仲間だったそいつに、手錠《わっぱ》をかける。その度に、ここんとこがイヤにモヤモヤすんだよ」
「……でも、やったことは許せないっす」
遠野は、ハハッと乾いた声で笑う。
「緒方はそういうだろうと思ったよ」
「……おかしい、ですか?」
「いや、お前が正常なんだよ」
勇刀は遠野を横目で確認する。窓ガラス越しに映る遠野の顔は、穏やかなのに何故か苦しそうに見えた。
「これ以上……教え子を失いたくねぇな」
「遠野係長」
勇刀の僅かな視線に気付いた遠野は、苦笑いをすると助手席を軋ませながら座り直す。
「心配するな、緒方。お前が懸念するようなことはしねぇよ。間違ってもな」
遠野の発したその言葉に、勇刀はグッとハンドルを握りしめた。
「分かってます。信じてますから、遠野係長のこと」
「……信じてねぇだろ」
「信じてますって!! 遠野係長は……遠野係長が今、一番苦しいはずですから」
「……」
遠野は思わず言葉を失った。
「緒方ぁ。お前、本当よく見てんなぁ」
「自慢じゃないっすけど、唯一の自慢です」
「自慢じゃねぇかよ」
冗談とも本気ともつかない勇刀の発言に、遠野はたまらず声を上げて笑う。張り詰めた緊張の糸が、ふっと緩み、後悔の念で渦巻く遠野の胸が幾分、軽くなったような気がした。
「緒方ッ! 止まれッ!」
後部座席にいた稲本が鋭く叫び、勇刀は声に即座に反応してブレーキを踏んだ。ガクン、とセダンタイプの覆面パトカーが前後に大きく揺れた。
「……んだよ、稲本ぉ」
「……右手奥、見ろよ」
「暗くてわかんねぇよ」
「よく見ろよ、建物がある……」
ハンドルに体を乗せて勇刀が、林の向こうの暗闇に目を凝らす。助手席にいた遠野は、勇刀の肩を掴んで身を乗り出した。暗闇に目が慣れると、次第に稲本が言っていた建物が輪郭を現してくる。
「……あった!」
「緒方! 無線いれろッ!!」
「はいッ!」
遠野の声に、弾かれたように勇刀は無線を握った。
「F三十から、警察本部並びに各局! F三十から、警察本部並びに各局! 県道三十二号線南下、I市方面林道先に建物を確認!! 繰り返す!! I市方面林道先に建物を確認!! 直ちに応援を要請する!!」
上擦る勇刀の声が、無線にのる。耳をつん裂くその声は、林道を走行する覆面パトカーの動きを止めた。
『警察本部、了解。各局直ちに現場に急行し周辺検索中にあたっては、受傷事故防止に努められたい。F三十にあっては、その場で応援が到着するまで待機』
「こちら、F三十。ただ今より周辺検索を開始、以上を持って離席する!」
勇刀は強く言い放つと、無線機のリモコンを車内に投げ捨てる。
「……遠野係長、いきましょう!」
「あぁ!」
遠野は、腹の底から唸るような声で答えた。
「俺も行くぞ!」
後部座席の稲本は、声を震わせながら気合いを入れるように言う。勇刀は頷いた。音を立てずにドアを開けると、林道特有な湿っぽい暗闇の地面に足を下ろした。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「俺の情報屋、かな?」
初めてルカに会った時の印象は、中学生のようだったと切田は記憶している。似つかわしくない、寂れた喫茶店。煙草の香りがソファーに染み付いた薄暗い店内で、少年は切田を見て、ニコニコと愛想よく笑った。
「で? この人は何ができるの? シモムー」
その純粋でストレートな言葉に、切田は面食らった。霜村が言った〝情報屋〟が信じられなかったのだ。今では〝情報屋〟以上の言葉が、しっくりとくる。
--〝サイコパス〟
その言葉が、切田の背筋をスッと寒くさせた。落ちた沼から這い上がれない。まとわりついた泥は、切田を沼の底に縛りつけて動けなくする。そこはかとない恐怖に切田はさらに頭に血が巡らなくなった。ぼんやりとした思考に、ルカの声がガツンと響いて無意識に言うことを聞かざるをえなくなるのだ。
「ちゃんと片付けた? 切田さーん」
背後からぶつけられたその声に、切田はビクッと体を震わせた。振り返ると、不機嫌そうな顔をしたルカが立っている。その後ろから、背の高い男が、何を抱えて階段を昇ってくるのが見えた。
「市川……!?」
「大丈夫だよ。死んでないから」
「ッ!!」
「オレが市川さんを、殺すわけないでしょ? 」
苛立ちながら答えるルカの横をすり抜け、背の高い男はぐったりと動かない市川を古いマットレスにゆっくりと下ろす。
「もう……いやだ」
切田が呻いた。
「はぁ? 何言ってんの? 切田さん」
今の現状にも過去の過ちからも逃げたいと、心底思った。自ら蒔いた種子であることはわかっている。わかっているからこそ、今自分が立たされている現状に耐えられなかったのだ。
「うわぁぁぁ!!」
何かが切田の中で、崩れていく。理性も、立場も、人格も。叫び声をあげてルカに殴りかかった。繰り出される乱れた拳を、ルカは難なくよけると、体制を崩した切田の背中に蹴りをいれた。床に突っ伏す切田の背中に銃口を向ける。
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