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13th episode
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『あのアマァ……!! 人の体で好き放題しやがって……!!』
「……」
ドラコニス大陸のほぼ中央に位置するコサクエ峠から、北に進んだ僕は。西に少し移動して目の前の湖の穏やかな水面にみいっていた。その横で悪態をつくシャッテの声に、一気に現実に引き戻される。
大陸中央を分断するように走る山脈・ドラスーメンからの雪解け水が、湖の透明度を鏡のように高くして陽の光を反射して。眩しさを避けるように、僕はシャッテとアスラに視線をむけた。
シャッテがシャッテに戻って、丸一日。
シャッテに生じた体の違和感を隠すことなく、不機嫌に言った。
『関所の執行官殺害容疑がかかっておりますから……。お二人の魔道士と冒険者も、変えなきゃいけませんね。おほほほ』
コサクエ関所の衛兵に追いかけられ、さらにはマンティコアに襲われて。心身ともに、さらには身なりまでボロボロになった僕たちに対して、ラウラが嬉々としていったんだ。
ラウラは続ける。
『ドラコニス王国・王都ドレスデネを経由して、ウェルデンに参りましょう』と。
今思えば。そう言ったシャッテの中にいるラウラの声が、若干弾んだ声音だったような気がする。
僕と離れていたわずかな間。
シャッテの身を借りたラウラは、辺境のオブキュルス村でやりたい放題していた……らしい。
と、アスラが言っていた。
嫌がるアスラをいいように操ると、品揃えが豊富な市場であれこれ買い込んだ。
もちろん、カタリーナがくれたあの宝飾品で。
どうりで違和感があったはずだ。僕を助けにきてくれた時のアスラとシャッテの腰には荷物が巻かれていて。その荷を解くと、中から新品の服が続々と姿をあらわす。
ラウラは、僕たちがこんなにボロボロになることを想定していたのか。
頭に大きな羽根がついた帽子をかぶった吟遊詩人の服に、地味なケープを巻いたその小姓のような服を前足で今日に広げ。その服の間から、コロンと練り香水が転がった。
カタリーナから受け取って、大事に使おうと思っていた形見が。予想外の物に変化していて、僕はため息をついた。
アスラと僕はその服に袖を通している間。満足気に練り香水を狗の耳につけたラウラ。
それでかなり満足したらしく。サンギス湖の湖畔を歩いている真っ最中に、いきなりシャッテがシャッテに戻った。ずっと、魔女をしていた反動……らしい。
でも、それは狗ですることじゃない……と、思う。
僕らの何倍って嗅覚の鋭いシャッテは、ラウラがつけた練り香水をとろうと、前脚を耳に絡ませて躍起になっていた。
「シャッテ、今までどこにいたわけ?」
そんなシャッテの気を紛らわそうと、僕はいま一番気になる質問をした。
『あ!?』
「いや……別に。話したくなければいいんだけど。あ、そうそう! シャッテがいない間、僕たち大変で」
『知ってる! カーサスから見えていた! それくらい!」
「カーサス?」
『邪神の聖域だ、いわゆる魔界だよ!』
「え? 聖域なのに魔界?」
『あぁ、もう! 要はだな!! 魔女とかそんな奴らが死んだら行くんだよ!! 魔女とかそう奴らのあの世だよ、あの世!! ったく、あの女!! ちょっと気ィ抜いた隙に』
「ラウラの方がよかったなぁ、ボク」
苛立っているシャッテを煽るように。大きな羽根のついた帽子に手を添えて、アスラが酷くにこやかに言った。
『あ!? なんだと、ガキ。もういっぺん言ってみろ!? あ!?』
「だって、ラウラの方が魔法とか使えるしさぁ。シドを助けられたのも、ラウラのおかげだもん」
『うるせぇ! 俺だって魔法の一つやふたつ、朝飯前なんだよ!』
「嘘だね~」
……また、始まった。
ラウラがいたらいたで、色々騒々しかったけど。
シャッテが元に戻った途端、アスラとシャッテの兄弟喧嘩のような戯れた言い争いが復活した。
シャッテが戻って、まだ間もないというのに。
「……あのさ、ちょっと疑問なんだけど」
『なんだ、シド』
「どうして湖の向こう側に行かなきゃならないわけ? ここを真っすぐ歩いちゃいけないの? あっちの方がドラーテム王国に近いんだよね」
今僕たちがいるのは〝禁足地〟と呼ばれる場所で。以前見た地図を思い返した僕は、この禁足地を真っすぐ北へ進んだ方がドラーテム王国に近いと思ったんだ。早く目的地に着けるし、あまり……人に会いたくないし。今まで経験したこと全てが、僕をあまり人の多いところに行くことを億劫にさせた。
そう……。僕に向けられる憎悪や怒りの眼差しに。僕自身が耐えられなくなってきたんだ。
「それはムリなんだ、シド」
いつになくアスラが真剣な面持ちで答えた。
「〝竜の中〟は入れない」
「竜の中?」
『おまえ、この大陸の言い伝えとか知らないのか?』
「言い伝え?」
僕の答えに、僕が本格的に無知だと知ったシャッテは深くため息をついて、一遍の詩を誦んじる。
『世界を神が統べていた時代。
神々に戦いを挑みし白き竜あり。
白き竜、太陽が五度沈む間、天を炎で焦がし続けるが、神々に届くことはなかった。
六度目太陽が昇りし時、神々の放てし雷は、白き竜を貫いた。
力尽き、大地に落ちた白き竜。
その体は気高き山脈を築き、その翼は静かな森となり、その尾は優しき河となった。
かの地の名はテラドラコニス。
神々より竜の力を与えられし約束の地』
「湖の向こう側にある森は、竜の翼。この大地の母なる竜の地には、何人も立ち入れないんだ。シドはもちろん、ドーンゲートの奴らだって……。邪神である、ボクですらね」
アスラはシャッテに重ねるようにいうと、サンギス湖の向こう側をジッと見つめた。
……白き、竜。すべてはその竜が始まりだったんだ。
この大陸に人が生まれ、村ができ、国が建立し。
たくさんの人を従わせることが可能な力を身につけた一国の王でさえ、その古い言い伝えに縛られて白き竜の亡骸を恐れ敬う。
僕は、農夫だったし。日々の生活だけでいっぱいいっぱいだったから、そんな大陸の言い伝えなんてまったく知らなかったけど。
振り返ると、肩越しに隆々と連なる山脈の尾根が、色んな歴史を直接伝えてくれるようで、胸が早鐘のように鼓動を刻む。
僕の今生きている時間なんて、その流れた時間に比べたら、ほんのわずかな時間なんだろうけど。
その大きな流れの一端にいると考えただけで。
僕は前科二犯の凶悪なお尋ね者なんだ、とか。アスラのこととか。僕を追いかけて、傷つける人たちのことだって。そんなことすら気にならないくらい、気持ちがすっきりした。
『一刻も早くここから去りたい。昼間にサンギス湖を渡るとなると目立ちすぎる』
シャッテの言葉に、いまだ疲れが抜け切れない表情をしているアスラが頷く。
『もう少し西に移動して、薄暮時に近距離で渡ろう。いいな、シド。アスラ』
アスラとシャッテの会話に耳を傾けてながら、僕は穏やかに凪ぐ湖面に視線をうつした。
こんな風に、穏やかな幸せを手に入れたい。それは僕がずっと願うことで。小さな僕の願いは、アスラとともに叶えたい。そう改めて思ったんだ。
〝Est hoc modo,sid(こっちだ、シド)〟
古い言葉で名前を呼ばれて、僕はハッとした。
「……なんだ、寝てたのか」
薄暮時までのわずかな時間。
僕とアスラは、木に体を預けて休んでいた。
いつの間にか寝てしまっていたのか。
突然の目覚めた僕は、サンギス湖の穏やかな流を見てホッとする。隣では、僕の肩に頭をのせて眠るアスラがいて。
寝ているにも拘らず、僕の手をギュッと握っているから。僕はその手をそっと握り返した。
夢の中ですら、アスラに呼ばれていたのかな……?
そう考えると無性にアスラを抱きしめたくなった。
そういえば坑道に行く前も、こうして夢の中で呼ばれたっけ? 懐かしいなぁ……。
そんなに前の出来事じゃないのに。
すごく昔のように思えて。
すごく愛おしく思えて。僕はアスラの頭に僕の頭をそえた。
こんなささやかな時間でいいんだけどな……。
それ以上は何もいらないんだ。アスラとこうして。
誰にも邪魔されずにいられたら、それでいいんだよ。僕は、それでいいんだよ。
小さな幸せに浸って。ふと、湖面に視線を戻した僕に、何かが映り込む。
ん? なんだ……? あれ?
サンギス湖の穏やかな流れが、一部だけ滞ってるのが見えた。
なんだろう。浮いてる……? 動物かな。
え!? あれ……もしかして……!!
思わず、履いていたブーツを脱ぎ捨て、湖の中に足を入れた。
「シド!?」
『何やってんだ、おまえ!! サンギス湖になんて入ったら……』
「子ども……子どもが、浮いてる!! 助けなきゃ!!」
『やめろ!! どうせ死んでる!』
「ほっとけないよ!! だって、子どもなんだ!! まだ生きてるかもしれない!!」
そう言って湖の水をかき分けて、動かず浮いている子どもに近づいていく。
思いの外、水が冷たくて。四肢が、末端から麻痺して。早くその子に近づきたくて、勢いよく水をかいているはずなのに、全身が重たくなる。
ヤバ、い。溺れる……っていうか、そもそも僕は泳げたっけ???
「……グァ!」
余計なことを考えてしまったせいで、僕は水を飲みこんだ。鼻や口から、湖の冷たい水が体内を凍らせていく。
こ、んなことくらいで……!!
あの子にもうちょっとで、手が届くのに!!
あと。あと……もう……ちょっ……。
体が……冷たくて……重たくて……。
ザバァッ!
目の前に水の柱が現れて、すぐそこにいたあの子が、急に見えなくなった!
ここまできて……! 必死に手足を動かして、その柱をかき分ける。
瞬間に――。
着ていた服がずしっと重たくなって、水面が足元に見えた。僕の体から、服から、無数の水滴が穏やかだった水面に波紋を広げて波を立てる。
う、浮いてる??? 宙を……浮いてる!?
「うわぁっ!」
手足をバタつかせた拍子に目線が上がって、目の前に小さな子どもがぐったりして浮いていた。
この子、だ!! その子に手を伸ばそうとした時、背中を何者かに掴まれて、ひっぱられるように後にスーッと移動する。そのまま景色が湖から街道沿いの森に移って、僕はいきなり、落とされるように地面に着地した。
「痛って!!」
お尻から落ちた痛さと、氷のように冷たい湖の水を含んだ服の重力で、僕は地面に張り付けられ多様に体を動かすことができない。
「……相変わらず、だよなぁ」
僕の鼻先にアスラの靴の爪先が見えて、僕はその声の先を伺うように見上げた。
「ボクを頼ってって、言ってるじゃないか」
人差し指と中指を天に向けて、僕を見下ろすアスラの顔は、優しく笑ってはいたけど……。
困ったような、寂しそうな。紫色のアスラの彩光は、微妙に揺れているから。僕はアスラから目が離せなくなったんだ。
「へっくしょん!……あー」
アスラがいとも簡単に火をつけた焚火の前で、僕は毛布にくるまりながら、勢いよくくしゃみをした。
『ドラスーメンからの雪解け水が直にくる湖なんだよ、サンギス湖は!! 無茶ばっかりしてんじゃねぇ!』
どうりで……。
体温がなくなるんじゃないか、って思ったよ。
呆れたように僕を叱り飛ばすシャッテは、体を丸めて小さな子を温めるように焚火のそばで添い寝をしている。
冷たい湖に浮かんでいたあの子――。
全身が冷たくて、呼びかけにも応じなかったけど。かろうじて、その子は息をしていて。結果的には助けることができて、僕は心の底から安堵した。
「蛮族の子だ」
アスラが火に木の枝をくべながら、静かに口を開く。
「蛮族?」
「この大陸に昔から住んでいる先住民だよ。この子の格好、シド見たことないだろ?」
「うん……」
たしかに、その子は見たことない格好をしていた。動物の革なのか木の皮なのか、丁寧に編み上げられた薄い布を纏い、耳や首には小動物の牙や頭蓋骨の装飾品が連なっている。
『あの赤毛の鋼臭い娘の時より厄介だぞ』
「あぁ、わかってる」
「それ……どういうこと?」
シャッテとアスラがいつになく訝しげな表情で話していて、僕はたまらずその真相を問いただした。
『蛮族はドラコニアンと言って、竜がこの地を治めている時からの種族だ。誇り高く気高い。だから、この大陸すべては自分たちのもの言って憚らない。自分たちの身を脅かす者は、すべて敵だ。こうして蛮族の子を助けたとしても、奴らはそうは思わない……』
……なん、だよ。それ……どういうことだよ。
『ドラコニアンに捕まったら、生きたままハラワタを喰われちまうぞ』
「え? 生き……?」
シャッテの言葉に腹の下が、キューッと冷えてきた。生きたまま、って……。
「……この子、追われてたんじゃないかな?」
アスラが、少し険しい顔をして言った。
「え!?」
『だとしたら、ドラーテムの蛮族狩りに追われてたんだろ』
「蛮族狩り!?」
『ドラーテムの奴らがドラコニアンを捕まえて片っ端から粛清してんだ。ドラコニアンから逃げ切れたとしても、ドラコニアン狩に捕まって、ドラコニアンの子どもを連れてればドラコニアンとして捕まって拷問されて殺されるだろうし。ドラコニアンではないと理解してもらっても、禁足地をうろついている犯罪者として処刑されるぞ』
「……そ、そんな」
情けない声が、余計に小さく震えてくる。
『おまえが余計なことばっかりするから、また要らぬ危機を引き寄せてるんだろうが!』
また、見捨てればよかったんだって……。
そういうのか?
そんなこと、僕にはできないって……二人ともわかってるくせに。
「まぁ、そこがシドらしいんだけどね」
そんな僕を知ってか知らずか。アスラが、僕の髪を指に絡めながら言った。
「ごめん……二人とも。でも、僕は見捨てられないんだよ。ツライ思いはさせたくないし、その子がアスラに重なっちゃったり……。でもね、後悔はしてないんだ。……これが僕だから」
そう言った瞬間、シャッテの体に身を埋めていた蛮族の子が小さく身震いした。
「!!」
ゆっくりと目を開ける、その子の瞳は。暗闇に星を宿す夜空のように、漆黒で吸い込まれそうで……僕は思わず息をのんだ。
「……s」
小さくかすれた音が、その子の口から漏れ出す。
「Oms……!(誰だ!)」
アスラが時折話す古い古い言葉に似た、独特な響きの言葉を話すその子は。
体はまだ自由にならないのに、強くまっすぐな目で僕たちを睨んだ。
「……」
ドラコニス大陸のほぼ中央に位置するコサクエ峠から、北に進んだ僕は。西に少し移動して目の前の湖の穏やかな水面にみいっていた。その横で悪態をつくシャッテの声に、一気に現実に引き戻される。
大陸中央を分断するように走る山脈・ドラスーメンからの雪解け水が、湖の透明度を鏡のように高くして陽の光を反射して。眩しさを避けるように、僕はシャッテとアスラに視線をむけた。
シャッテがシャッテに戻って、丸一日。
シャッテに生じた体の違和感を隠すことなく、不機嫌に言った。
『関所の執行官殺害容疑がかかっておりますから……。お二人の魔道士と冒険者も、変えなきゃいけませんね。おほほほ』
コサクエ関所の衛兵に追いかけられ、さらにはマンティコアに襲われて。心身ともに、さらには身なりまでボロボロになった僕たちに対して、ラウラが嬉々としていったんだ。
ラウラは続ける。
『ドラコニス王国・王都ドレスデネを経由して、ウェルデンに参りましょう』と。
今思えば。そう言ったシャッテの中にいるラウラの声が、若干弾んだ声音だったような気がする。
僕と離れていたわずかな間。
シャッテの身を借りたラウラは、辺境のオブキュルス村でやりたい放題していた……らしい。
と、アスラが言っていた。
嫌がるアスラをいいように操ると、品揃えが豊富な市場であれこれ買い込んだ。
もちろん、カタリーナがくれたあの宝飾品で。
どうりで違和感があったはずだ。僕を助けにきてくれた時のアスラとシャッテの腰には荷物が巻かれていて。その荷を解くと、中から新品の服が続々と姿をあらわす。
ラウラは、僕たちがこんなにボロボロになることを想定していたのか。
頭に大きな羽根がついた帽子をかぶった吟遊詩人の服に、地味なケープを巻いたその小姓のような服を前足で今日に広げ。その服の間から、コロンと練り香水が転がった。
カタリーナから受け取って、大事に使おうと思っていた形見が。予想外の物に変化していて、僕はため息をついた。
アスラと僕はその服に袖を通している間。満足気に練り香水を狗の耳につけたラウラ。
それでかなり満足したらしく。サンギス湖の湖畔を歩いている真っ最中に、いきなりシャッテがシャッテに戻った。ずっと、魔女をしていた反動……らしい。
でも、それは狗ですることじゃない……と、思う。
僕らの何倍って嗅覚の鋭いシャッテは、ラウラがつけた練り香水をとろうと、前脚を耳に絡ませて躍起になっていた。
「シャッテ、今までどこにいたわけ?」
そんなシャッテの気を紛らわそうと、僕はいま一番気になる質問をした。
『あ!?』
「いや……別に。話したくなければいいんだけど。あ、そうそう! シャッテがいない間、僕たち大変で」
『知ってる! カーサスから見えていた! それくらい!」
「カーサス?」
『邪神の聖域だ、いわゆる魔界だよ!』
「え? 聖域なのに魔界?」
『あぁ、もう! 要はだな!! 魔女とかそんな奴らが死んだら行くんだよ!! 魔女とかそう奴らのあの世だよ、あの世!! ったく、あの女!! ちょっと気ィ抜いた隙に』
「ラウラの方がよかったなぁ、ボク」
苛立っているシャッテを煽るように。大きな羽根のついた帽子に手を添えて、アスラが酷くにこやかに言った。
『あ!? なんだと、ガキ。もういっぺん言ってみろ!? あ!?』
「だって、ラウラの方が魔法とか使えるしさぁ。シドを助けられたのも、ラウラのおかげだもん」
『うるせぇ! 俺だって魔法の一つやふたつ、朝飯前なんだよ!』
「嘘だね~」
……また、始まった。
ラウラがいたらいたで、色々騒々しかったけど。
シャッテが元に戻った途端、アスラとシャッテの兄弟喧嘩のような戯れた言い争いが復活した。
シャッテが戻って、まだ間もないというのに。
「……あのさ、ちょっと疑問なんだけど」
『なんだ、シド』
「どうして湖の向こう側に行かなきゃならないわけ? ここを真っすぐ歩いちゃいけないの? あっちの方がドラーテム王国に近いんだよね」
今僕たちがいるのは〝禁足地〟と呼ばれる場所で。以前見た地図を思い返した僕は、この禁足地を真っすぐ北へ進んだ方がドラーテム王国に近いと思ったんだ。早く目的地に着けるし、あまり……人に会いたくないし。今まで経験したこと全てが、僕をあまり人の多いところに行くことを億劫にさせた。
そう……。僕に向けられる憎悪や怒りの眼差しに。僕自身が耐えられなくなってきたんだ。
「それはムリなんだ、シド」
いつになくアスラが真剣な面持ちで答えた。
「〝竜の中〟は入れない」
「竜の中?」
『おまえ、この大陸の言い伝えとか知らないのか?』
「言い伝え?」
僕の答えに、僕が本格的に無知だと知ったシャッテは深くため息をついて、一遍の詩を誦んじる。
『世界を神が統べていた時代。
神々に戦いを挑みし白き竜あり。
白き竜、太陽が五度沈む間、天を炎で焦がし続けるが、神々に届くことはなかった。
六度目太陽が昇りし時、神々の放てし雷は、白き竜を貫いた。
力尽き、大地に落ちた白き竜。
その体は気高き山脈を築き、その翼は静かな森となり、その尾は優しき河となった。
かの地の名はテラドラコニス。
神々より竜の力を与えられし約束の地』
「湖の向こう側にある森は、竜の翼。この大地の母なる竜の地には、何人も立ち入れないんだ。シドはもちろん、ドーンゲートの奴らだって……。邪神である、ボクですらね」
アスラはシャッテに重ねるようにいうと、サンギス湖の向こう側をジッと見つめた。
……白き、竜。すべてはその竜が始まりだったんだ。
この大陸に人が生まれ、村ができ、国が建立し。
たくさんの人を従わせることが可能な力を身につけた一国の王でさえ、その古い言い伝えに縛られて白き竜の亡骸を恐れ敬う。
僕は、農夫だったし。日々の生活だけでいっぱいいっぱいだったから、そんな大陸の言い伝えなんてまったく知らなかったけど。
振り返ると、肩越しに隆々と連なる山脈の尾根が、色んな歴史を直接伝えてくれるようで、胸が早鐘のように鼓動を刻む。
僕の今生きている時間なんて、その流れた時間に比べたら、ほんのわずかな時間なんだろうけど。
その大きな流れの一端にいると考えただけで。
僕は前科二犯の凶悪なお尋ね者なんだ、とか。アスラのこととか。僕を追いかけて、傷つける人たちのことだって。そんなことすら気にならないくらい、気持ちがすっきりした。
『一刻も早くここから去りたい。昼間にサンギス湖を渡るとなると目立ちすぎる』
シャッテの言葉に、いまだ疲れが抜け切れない表情をしているアスラが頷く。
『もう少し西に移動して、薄暮時に近距離で渡ろう。いいな、シド。アスラ』
アスラとシャッテの会話に耳を傾けてながら、僕は穏やかに凪ぐ湖面に視線をうつした。
こんな風に、穏やかな幸せを手に入れたい。それは僕がずっと願うことで。小さな僕の願いは、アスラとともに叶えたい。そう改めて思ったんだ。
〝Est hoc modo,sid(こっちだ、シド)〟
古い言葉で名前を呼ばれて、僕はハッとした。
「……なんだ、寝てたのか」
薄暮時までのわずかな時間。
僕とアスラは、木に体を預けて休んでいた。
いつの間にか寝てしまっていたのか。
突然の目覚めた僕は、サンギス湖の穏やかな流を見てホッとする。隣では、僕の肩に頭をのせて眠るアスラがいて。
寝ているにも拘らず、僕の手をギュッと握っているから。僕はその手をそっと握り返した。
夢の中ですら、アスラに呼ばれていたのかな……?
そう考えると無性にアスラを抱きしめたくなった。
そういえば坑道に行く前も、こうして夢の中で呼ばれたっけ? 懐かしいなぁ……。
そんなに前の出来事じゃないのに。
すごく昔のように思えて。
すごく愛おしく思えて。僕はアスラの頭に僕の頭をそえた。
こんなささやかな時間でいいんだけどな……。
それ以上は何もいらないんだ。アスラとこうして。
誰にも邪魔されずにいられたら、それでいいんだよ。僕は、それでいいんだよ。
小さな幸せに浸って。ふと、湖面に視線を戻した僕に、何かが映り込む。
ん? なんだ……? あれ?
サンギス湖の穏やかな流れが、一部だけ滞ってるのが見えた。
なんだろう。浮いてる……? 動物かな。
え!? あれ……もしかして……!!
思わず、履いていたブーツを脱ぎ捨て、湖の中に足を入れた。
「シド!?」
『何やってんだ、おまえ!! サンギス湖になんて入ったら……』
「子ども……子どもが、浮いてる!! 助けなきゃ!!」
『やめろ!! どうせ死んでる!』
「ほっとけないよ!! だって、子どもなんだ!! まだ生きてるかもしれない!!」
そう言って湖の水をかき分けて、動かず浮いている子どもに近づいていく。
思いの外、水が冷たくて。四肢が、末端から麻痺して。早くその子に近づきたくて、勢いよく水をかいているはずなのに、全身が重たくなる。
ヤバ、い。溺れる……っていうか、そもそも僕は泳げたっけ???
「……グァ!」
余計なことを考えてしまったせいで、僕は水を飲みこんだ。鼻や口から、湖の冷たい水が体内を凍らせていく。
こ、んなことくらいで……!!
あの子にもうちょっとで、手が届くのに!!
あと。あと……もう……ちょっ……。
体が……冷たくて……重たくて……。
ザバァッ!
目の前に水の柱が現れて、すぐそこにいたあの子が、急に見えなくなった!
ここまできて……! 必死に手足を動かして、その柱をかき分ける。
瞬間に――。
着ていた服がずしっと重たくなって、水面が足元に見えた。僕の体から、服から、無数の水滴が穏やかだった水面に波紋を広げて波を立てる。
う、浮いてる??? 宙を……浮いてる!?
「うわぁっ!」
手足をバタつかせた拍子に目線が上がって、目の前に小さな子どもがぐったりして浮いていた。
この子、だ!! その子に手を伸ばそうとした時、背中を何者かに掴まれて、ひっぱられるように後にスーッと移動する。そのまま景色が湖から街道沿いの森に移って、僕はいきなり、落とされるように地面に着地した。
「痛って!!」
お尻から落ちた痛さと、氷のように冷たい湖の水を含んだ服の重力で、僕は地面に張り付けられ多様に体を動かすことができない。
「……相変わらず、だよなぁ」
僕の鼻先にアスラの靴の爪先が見えて、僕はその声の先を伺うように見上げた。
「ボクを頼ってって、言ってるじゃないか」
人差し指と中指を天に向けて、僕を見下ろすアスラの顔は、優しく笑ってはいたけど……。
困ったような、寂しそうな。紫色のアスラの彩光は、微妙に揺れているから。僕はアスラから目が離せなくなったんだ。
「へっくしょん!……あー」
アスラがいとも簡単に火をつけた焚火の前で、僕は毛布にくるまりながら、勢いよくくしゃみをした。
『ドラスーメンからの雪解け水が直にくる湖なんだよ、サンギス湖は!! 無茶ばっかりしてんじゃねぇ!』
どうりで……。
体温がなくなるんじゃないか、って思ったよ。
呆れたように僕を叱り飛ばすシャッテは、体を丸めて小さな子を温めるように焚火のそばで添い寝をしている。
冷たい湖に浮かんでいたあの子――。
全身が冷たくて、呼びかけにも応じなかったけど。かろうじて、その子は息をしていて。結果的には助けることができて、僕は心の底から安堵した。
「蛮族の子だ」
アスラが火に木の枝をくべながら、静かに口を開く。
「蛮族?」
「この大陸に昔から住んでいる先住民だよ。この子の格好、シド見たことないだろ?」
「うん……」
たしかに、その子は見たことない格好をしていた。動物の革なのか木の皮なのか、丁寧に編み上げられた薄い布を纏い、耳や首には小動物の牙や頭蓋骨の装飾品が連なっている。
『あの赤毛の鋼臭い娘の時より厄介だぞ』
「あぁ、わかってる」
「それ……どういうこと?」
シャッテとアスラがいつになく訝しげな表情で話していて、僕はたまらずその真相を問いただした。
『蛮族はドラコニアンと言って、竜がこの地を治めている時からの種族だ。誇り高く気高い。だから、この大陸すべては自分たちのもの言って憚らない。自分たちの身を脅かす者は、すべて敵だ。こうして蛮族の子を助けたとしても、奴らはそうは思わない……』
……なん、だよ。それ……どういうことだよ。
『ドラコニアンに捕まったら、生きたままハラワタを喰われちまうぞ』
「え? 生き……?」
シャッテの言葉に腹の下が、キューッと冷えてきた。生きたまま、って……。
「……この子、追われてたんじゃないかな?」
アスラが、少し険しい顔をして言った。
「え!?」
『だとしたら、ドラーテムの蛮族狩りに追われてたんだろ』
「蛮族狩り!?」
『ドラーテムの奴らがドラコニアンを捕まえて片っ端から粛清してんだ。ドラコニアンから逃げ切れたとしても、ドラコニアン狩に捕まって、ドラコニアンの子どもを連れてればドラコニアンとして捕まって拷問されて殺されるだろうし。ドラコニアンではないと理解してもらっても、禁足地をうろついている犯罪者として処刑されるぞ』
「……そ、そんな」
情けない声が、余計に小さく震えてくる。
『おまえが余計なことばっかりするから、また要らぬ危機を引き寄せてるんだろうが!』
また、見捨てればよかったんだって……。
そういうのか?
そんなこと、僕にはできないって……二人ともわかってるくせに。
「まぁ、そこがシドらしいんだけどね」
そんな僕を知ってか知らずか。アスラが、僕の髪を指に絡めながら言った。
「ごめん……二人とも。でも、僕は見捨てられないんだよ。ツライ思いはさせたくないし、その子がアスラに重なっちゃったり……。でもね、後悔はしてないんだ。……これが僕だから」
そう言った瞬間、シャッテの体に身を埋めていた蛮族の子が小さく身震いした。
「!!」
ゆっくりと目を開ける、その子の瞳は。暗闇に星を宿す夜空のように、漆黒で吸い込まれそうで……僕は思わず息をのんだ。
「……s」
小さくかすれた音が、その子の口から漏れ出す。
「Oms……!(誰だ!)」
アスラが時折話す古い古い言葉に似た、独特な響きの言葉を話すその子は。
体はまだ自由にならないのに、強くまっすぐな目で僕たちを睨んだ。
応援ありがとうございます!
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