上 下
1 / 1

「ここで曲がってやろうか」

しおりを挟む
 今日もまた変わらない一日が始まる。日が昇る前に出勤してサービス残業をして帰ったら倒れるように寝る。

 休日だって変わらない。休日出勤をしてサービス残業をして帰ったらまた倒れるように寝て。

 ちゃんと休んだのはいつだったか。去年のお盆には数日休めたかな。それでも何度も電話は鳴って呼び出されて、予定通りになんて休めなかったが。

 たまに休日はあれど一日中寝てまた出勤。あと何日繰り返せば次の休みは来るのだろうか。

 今日もまた変わらない一日が始まる。日が昇る前に起きて準備をして部屋の鍵を閉めて。
中古で買った軽自動車のエンジンをふかしていいつもと同じルートで通勤してまた残業して帰ってきたらまた行って。
この先の国道はいつも通り渋滞しているんだろう。

 真っ直ぐ突き進んで渋滞に巻き込まれてギリギリでの出勤。そしてまた怒鳴られる。
どれだけ早く出たって渋滞は起きているし、遅く出ればもちろん遅刻確定だ。そしてまた上司に怒鳴られる。

 次の日だって変わらない。いつものように家を出て車に乗って、またあの道を行った先には渋滞が起きているのだろう。
そんな事をいつものように考えていた。その日だっていつもと何一つ変わらない一日だった。なのに。


「ここで曲がってやろうか」


 ふと、邪な考えが頭の中に浮かんだ。
 こんな所で右折したら絶対に遅刻確定だ。怒鳴られるどころでは済まされないだろう。
 その考えはあってはならない悪魔のささやきだ。だからそのまま直進し、いつものように怒鳴られた。

 そしていつも通りサービス残業をして帰ったらまた倒れるように寝て。

 次の日も変わらない朝は始まる。日はまだ寝ているというのに急いで準備をして、食事も不十分に部屋を飛び出して。

 そしてまたこの道だ。この先はいつも通り渋滞しているんだろう。
 信号につかまっている間に、ふと昨日の事を思い出す。


「ここで曲がってやろうか」


 また、あの邪な考えが浮かんだ。

 その考えはあってはならないと言ったはずだ。そんな悪魔のささやきを無視してそのまま直進し、いつも通り怒鳴られた。

 そしてその日もいつも通りサービス残業をして帰ったら気絶するように寝て。
また変わらない朝だ。日だって今日も寝ている。だけど急いで準備して、食事も忘れて家を飛び出して。

 まただ。またあの邪な考えが頭の中に浮かび上がった。


「ここで曲がってやろうか」


 その考えはあってはならないと何度も言っているはずだ。しかし、そのまま直進はしなかった。
ほんの少しの間、ボーっとその場でとどまっていた。次の瞬間。後ろから大きなクラクションが鳴り響いた。

 いつもならここはまだほとんど車は通っていないはずなのに。今日に限って後続車はいるのか。
慌ててアクセルを踏み車を走らせた。また、いつものように怒鳴られた。

 そしていつも通りサービス残業をして帰ったら意識を失うように寝て。
変わらない朝。日だって今日も起きていない。だけど急いで準備して、食事の事など頭の中にも無くて。

 今日もまたあの道にかかった。どうせまた邪な考えが浮かぶのだろう。


「ここで曲がってやろうか」


 もう迷いなんて無かった。誰がなんと言おうと知ったことか。
 そのままハンドルを回し右折した。これでもう遅刻確定だ。

 いつもと違う道に入って、心臓の鼓動が早くなった。

 知らない街並みの中に、ポツンと公園があった。
 公園には大きな椛の木が立っていた。朝日の木漏れ日と相まって、その木はとても美しかった。

 いつも通っていた道なのに、少し曲がればこんなにも美しい椛があったのか。
いつも通り直進していたら永遠に知る事もなかっただろう。ひっそりとそびえ立つ美しい椛の存在に。

 思わずスマートフォンを手に取り、その美しさをカメラの中へと収めた。
しばらくそのまま椛の存在に見とれていた。不意に、手に持っていたスマートフォンが鳴った。

 会社からだ。スマートフォン越しに怒鳴られた。思わず寝坊したと言い訳を付いた。
そのまま会社へ向かい、さらに怒鳴られた。でも、その日は不思議と辛くなかった。

 もしいつも通り直進を続けてたなら、知る事もない存在はどれだけあるのだろうか。
そんな事を考えながらサービス残業をして、でも帰ってすぐには寝なかった。

 あの椛の木を思い出す。美しかった。会社に行く事も忘れて見とれるほどに。
そういえば写真を撮っていたな。スマートフォンを手に取り、暗闇の中で電源を入れた。

 美しい。この手の中に美しさは残っている。思わずまた見とれていた。
しばらくして表示されていた時間に気づいた。もう少しすれば出勤の時間だ。眠る事も忘れて、ある決心をした。

 急いで準備をして、食事も不十分に家を飛び出して。
いつもの道をそのまま直進し、いつも通り怒鳴られて、退職届を出した。

 その後は流れるように時が過ぎていった。いつもの道を右折したり左折したり。
そのまま直進していたら知る事もなかった存在を、見ては惚れて、スマートフォンに収めて。

 もちろん朝は日が目覚めてから起きた。ゆっくり準備をして、朝食も十分に落ち着いて家を出て。

 数日が経ったある日、カメラを買った。数万円ほどするそこそこの物だったが、そんな事は微塵も気にはならなかった。

 それからは普段通らない場所をひたすらに行ってみたり、出張の際に通り過ぎていた気になった場所など今までとは違う場所をひたすらに訪れた。

 いつも通り直進していたら知る事も無かった存在を、これでもかとカメラに収めていった。

 そんな日々が続いたある日。たまたま買った雑誌に写真を応募してみた。結果はそこそこであった。

 それからはもう、ひたすらに写真を撮り続けた。そしてひたすらに応募して、様々な賞を取り、特集も組まれ話題にもなる。

 そんな日々は来なかった。いくら応募しようが賞にかすることもなく、特集も組まれなければ当然話題にすら上がらなかった。

 あれから何年が経っただろう。ついには軽自動車も売りに出していた。貯金はとっくに底を尽いていた。

 残っていたのは最低限の物と、命のカメラだけであった。

 日が目覚めるよりも前に、薄汚れたまま食事も不十分に家を出て、しばらく外をうろついた。

 気づけば、いつもの道に来ていた。何年経てども、身体には染みついてしまっていたのだろう。

 ふとあの言葉を思い出す。


「ここで曲がってやろうか」


 邪な考えだ。そのおかげでこのざまだ。

 いまさら何を言ったってもう遅い。そんな事を考えながら、そのまま右折した。気づいた時には右折していた。

 あの存在が目に入った。朝日の木漏れ日と相まって美しい椛の木が、まだそこには残っていた。

 そのまま、しばらくその存在に見とれていた。そして、カメラを手に取った。

 この美しい存在を収めよう。収めようとしているのにピントが合わない。気づけば手が震えていた。

 グッと力を入れ、無理やりに手を固定する。するとどうだ。今度は目の前が霞んでいるではないか。

 涙が溢れていた。手の震えも抑えれず思わずその場で泣き崩れてしまった。

 私が撮りたかったのはこういう存在だったのだ。あれから何年経っただろうか。

 相変わらず、椛の木は美しいままだ。私はどうだろう。私は、私は。

 涙が引いてきて、手の震えも治まってきた。そのまま、カメラを手に取った。

 この美しい椛の存在を収めた。またしばらくの間見とれて、その後ある決心をした。

 適当に手に取った雑誌へ写真を応募した。結果は、なかなかであった。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...