閻魔公記――六〇日の物語――

サビ抜き

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一章

霧の日(3)

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 教室の中には、チョークと黒板がぶつかる軽い音が響いていた。
 生徒達は視線を音のする方へと向け、そこに書かれた言葉をノートに写していく。
 その中で、凛太郎だけは視線を窓から投げ出し、学校の前を流れる広江川を眺めていた。
 霧もすっかりと晴れ、窓から見える広江川は、いつも通りの濁った色をしていた。当然ながら、どこにも奈落へと続く入口などない。
 わかっていたはずなのに、その普通の光景に、凛太郎はどこかで落胆していた。
 今日もいつも通りの一日なのか、と。
 それは誰もが持っているであろう、非日常への憧憬だった。普段と違う様子に、少しだけワクワクするような、幼い感情。あの奈落への入口で、この日常が変わるかも。そんな期待を、心のどこかで感じていた。
 実際にそんな問題が起これば、文句と怒りしか湧き上がらないだろうに。と、落ち込む自分を、冷静な自分が笑う。
「確かに……」
 頭の中の声に、凛太郎は小さく呟き納得した。
「――えー、例えるなら、彼はジョンでしょうね」
 教壇の上では、中年の男性教師の授業が続いている。
 普段なら、その姿をぼんやりと眺めるくらいはするのだが、今日に限っては全くそんな気分にはならなかった。
 凛太郎は一度も黒板を見やる事もなく、ぼんやりと川べりに生えている草花を眺め続けた。
「ん?」
 外を眺める凛太郎の目に、川沿いの道路を歩く一人の女性の姿が映る。
 それは稀有な赤く長い髪を持った、若い女性だった。
 彼女は藤色の小袖――昔の一般的な普段着――を纏い、風呂敷らしき布に包まれた大きな荷物を背負っている。
 時代劇でしか見かけることのないような格好の女性に、凛太郎の視線は自然と彼女を追っていた。
 彼女はキョロキョロと辺りを見回し、挙動不審に歩いて行く。それは道に迷っているというよりも、この場所に戸惑っているような印象を受けた。
 ――もしかして、江戸時代からタイムスリップして来たとか?
 凛太郎は、冗談を含みそんな事を思った。
 それと同時に、あり得ない。と、頭の中で独白した。
 ププーー!
 女性の背後から来た車が、道の真ん中を歩く彼女にクラクションを鳴らす。
 突然の大きな音に彼女は驚き、慌てて道端に逃げた。そして走り去る車に、何度も頭を下げ謝っていた――。
 ――ペコン。
 いつの間にか夢中になり外を見ていた凛太郎の頭で、面白い音が鳴った。
 見れば、そこには丸めた教科書を持った教師が立っていた。
「お前なぁ、外ばっかり見てるんじゃないよ」
 呆れた声で、教師はそう言った。
「え、あ、すみません……」
 教師の顔を見るまで、凛太郎はすっかりと授業中だという事を忘れていた。そのためか、反応はまるで寝ぼけているようだった。
「まったく。じゃあ室塚、罰として、お前教科書読め」
「……はい」
 凛太郎は立ち上がり、言われた通り教科書を読み始めた。
 教科書を読みながら、ちらりと女性の姿を探し窓の外を見たが、その姿はもうどこかへと消えていた。
 ――何者だったんだ……。
 その疑問ばかりが、凛太郎の頭の中に繰り返し浮かんだ。

「――それ、絶対嘘でしょ?」
 屋上で昼食を食べながら、華蓮が訝しむ視線を凛太郎に向ける。
「本当だよ。どう見ても別の時代からやって来たようにしか見えなかったんだって」
 凛太郎は、その視線を受け止め答えた。
 話題は、凛太郎が偶然に見つけた異質な様相の女性について。
 凛太郎の突拍子もない説明に、華蓮は否定的な反応を見せた。
「もしかしたら、旅の一座の団員とかだったのかもな」
 端整な顔立ちの男子生徒が、パンをかじりながらそう言った。
 男子生徒の名前は、三木勇太。その容姿から女子生徒の人気が高く、同性よりも異性の友人が多い。
 そんな勇太は、いつも昼休みになると、女子生徒からの昼食の誘いを断り、何故か凛太郎の許にやってくる。
 今日もその例に漏れず、凛太郎のいる屋上に昼食を食べにやって来ていた。
「そうか。旅の劇団か。それは思いつかなかった」
 凛太郎は、勇太の言葉に頷き納得した。
 確かに旅の一座なら、劇の衣装と道具であの格好も説明がつく。旅で慣れない土地に移ったばかりだとすれば、戸惑う事にも納得だ。
 つまり彼女は、過去からの来訪者ではなく、ただの旅の一座の劇団員だった。
 ずっと頭を悩ませていた疑問の答えが、ようやく手に入った。そう頭では思うが、凛太郎の心は晴れなかった。
 導き出されたその現実的な答えは、期待していた答えとは少し違っていた。何だか、つまらない答えだった。
「残念そうだな」
 顔色など変えたつもりはなかったのに、勇太にそう言われ、凛太郎はドキリとした。
 頭の中の馬鹿馬鹿しい考えを読まれたような、そんな恥ずかしさがあった。自分の顔が羞恥で赤くなっていないか、凛太郎は心配した。
「……そうか?」
 凛太郎は精一杯平静を装って尋ねた。
「あぁ。残念そうだ」
 勇太は、悩む事無くそう言った。
「なに? 凜は、その女の人が、過去から来た人だった方が良かったの?」
「そりゃあ、そっちの方が面白そうだろ?」
「まぁ、そりゃあそうだけどさ。――でも、ちょっと意外だなぁ」
「何が?」
「凜がそういうの信じるのがさ」
「信じるっていうか、そう見えたってだけだからな」
「でも、私が同じ事を言っても信じないでしょ?」
「まぁ……そりゃあな……」
「だから、そういう非現実的な事を信じる時もあるんだなぁって」
 華蓮と立場が逆だったら、間違いなく凛太郎はその言葉を信じない。馬鹿にして、まともに取り合おうとしないだろう。
 だが凛太郎自身も、自分の心証でありながら、過去から来たなどと、本気で信じていたかといえば怪しいところだった。
「確かに。凛太郎にしては、随分とお茶目な発想だよな」
「悪かったな」
「いや、悪くなんてないさ。むしろ良い事だ」
「馬鹿にしてんだろ」
「全然。馬鹿げた考えでも、たまには信じてみるのも良いだろ? どうせ事実は変わらないんだ。ちょっと突飛な考えも、こうして話せば面白いじゃないか」
「そうそう。私もその話をいきなりは信じられないけど、本当に別の時代から来た人だったら、そっちの方が嬉しいな」
「そもそも旅の劇団の人間だと、まだ決まったわけじゃあないんだ。それこそ、凛太郎の想像通り、過去から来た人間である可能性も充分に残ってる」
「そっか。まだその女の人の事はわかってないんだもんね」
「あぁ。あくまで推測の話だからな」
 何故か二人は、謎の女性について盛り上がり始める。
「じゃあさ、放課後にその人探してみようよ!」
「良いねぇ。面白そうだ」
 華蓮の突然の提案に、勇太は嬉々として同意した。
「お前ら、本気で言ってんのか?」
「だって面白そうじゃない。――勿論、凜も参加だからね」
「え? 俺もか?」
「当たり前だろ。言い出したのは、凛太郎なんだからな」
「俺は探したいなんて、一言も言ってないぞ」
「正体を知りたいとは思っただろ? なら、直接聞くのが一番だ」
「確かに正体は気になったが、そんな労力を使ってまで知りたいとは思ってない」
「そう難しく考えるなよ。別にこんなのはただの遊びだ。どうせ凛太郎は、家で受験勉強なんぞしていないんだろ? たまにこんな馬鹿みたいな遊びに興じても、支障はないんじゃないか?」
「まぁそりゃあ……」
「その女の人には悪いけど、何だかワクワクするよね。こういうの!」
「あぁ。何故か楽しみで仕方がない」
 二人の期待に満ちた視線が、凛太郎に向けられる。
「……はぁ。わかったよ。俺も乗るよ」
 凛太郎がそう言うと、二人は嬉しそうな笑顔を見せた。
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