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知沙さんとワインバー

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「俺は飲まないので、全員を送迎そうげいします」

 そう申告しんこくしたがっくんの車で、ワインバーに向かうことになった。

「滝本。おまえの車、すごいな」
「そうですか?」

 助手席の大久保主任が、感嘆のため息をつく。
 そのきもち、ものすごくわかります。

「ステアリング、ナディアの350か?」
「くわしいですね。これは360mmです」
「俺ノノ派だわ」
「実は、RACEレースと迷ったんです」
「だろ!? あれはホールド力に定評が――」

 前席のふたりは、少年のようにきらきらとした瞳で語りあっている。

「あれ、なんの話だ?」

 瀬戸さんが、ふしぎそうに聞いてくる。
 私も車にくわしくはないが、ふたりを見ている限りでは。 

「ハンドルじゃないですかね」
「ハンドルって、変えるものなのか?」

 急に振られた知沙 ちささんが、苦笑する。

がくは、よくわからないところがあるから」
「あー、まあ、そうだよな。実家が金持ちってことぐらいしか知らねぇわ」

玲於れお。誤解をまねくようなことは、言わないでください」

 瀬戸さんの言葉を聞きつけたがっくんが、運転席から釘をさす。

「事実だろ? めっちゃいいマンション住んでるんだし」
「だから、あれは親戚しんせきに頼まれて、管理しているだけです。あ、着きましたよ」

 大通りから1本入ったところに、その店はあった。

 外観は、朱色しゅいろ一色の、個性的な店構えだ。
 丸太 まるた輪切わぎりにしたような、まるい看板が、地面からのスポットライトで照らされている。

 店内は、照明がひかえられた、おちついた空間だった。
 レンガ造りの内装に、1枚板のカウンターがめだつ。

 店は縦長たてながで、わたしたちは奥に通される。

 店内は入り組んでいて、おもったより広い。
 壁や柱が、半個室のような空間をつくっている。

 案内されたのは、5人がけの、丸テーブルの席だった。

「俺、大久保さんと腹を割って話したいんで、となりいいですかー?」
「こわいな。どうぞ」
 
 瀬戸さんが人好きのする笑顔で、大久保主任と座る。
 大久保主任が、私を見て、目を細めた。

「萌ちゃん、となり来なよ」
「あ、はーい」

 ご指名しめい だ。
 そういう店ではないが、ざつな営業スマイルをうかべて、隣にすわる。

「知沙は俺のとなり! 岳は冷たいからやだ!」

 瀬戸さんの言葉に、知沙さんとがっくんが、同時にあきれたような顔をした。
 ふりまわされてるな、ふたり。

 消去法で、がっくんが私のとなりに来た。

 スタッフが、ドリンクのメニューを2冊持ってきた。

 レディファーストらしく、知沙さんと私に渡される。
 重厚な黒革の表紙に、期待がふくらむ。

 ワインバーというだけあって、ワインの種類は豊富だった。
 産地ごとに記載され、赤、白、ロゼ、スパークリングにわかれている。

 グラスからフルボトルまで、客の好みと財布事情に合わせて選べるようだ。

 そういえば、がっくんの家で飲んだシャンパンは、とてもおいしかった。
 もしかしてあるかもしれない、と銘柄めいがらを思い出そうと努力する。
 Brutブリュット――辛口からくちってことはおぼえているんだけど……。

「お、一番高いの、10万円じゃん」

 知沙さんのメニューをのぞきこんでいた瀬戸さんが、おもしろそうな声を出す。

「どれですか?」

 興味本位から、きいてみる。

「4ページ目、フランスシャンパーニュ地方の、一番下」

 4ページ目をひらく。
 その一番下には、見覚えがあるつづりが載っていた。

「あっ!」
「どしたの、宮崎さん」

 瀬戸さんの問いに、私は震えながら答える。

「わ、わたし、これ、きのう飲みました……」
「うそ!?」
「こんな高いやつだなんて、知らなくて」
「どうだった?」
「めっちゃおいしかったです! ああ~、知ってたらもっと大事に飲んだのに……」
「でもシャンパンだから、泡が抜ける前に飲むのが正解だろ?」 
「……それもそうですね!」

 飲んじゃったものはしょうがない。
 瀬戸さんの言葉におおきくうなずくと、彼が声をあげて笑った。

「宮崎さんって、おもしれー」
「ん? 瀬戸さんの言葉に、同意したんですけど」
「いいのいいの。わかってないなら、それはそれで」

 パタリとメニューを閉じた知沙さんが、瀬戸さんにさしだす。

玲於れお、メニューどうぞ」
知沙ちさはなに飲むの?」
「ロワールのロゼ」
「じゃ俺もそれにしよ」
「てきとうね。じゃ、岳。メニューをどうぞ」
「ありがとうございます」

 3人の会話を聞きながら、私はメニューとにらめっこを続ける。
 ブルゴーニュ地方の赤もいいけど、ボルドー地方の白も捨てがたい。
 最初に重厚なものや複雑な香りを選ぶと、次がぼやけてしまいそうだし……。

「萌ちゃんは、なに飲むの?」
「決められないので、お先にどうぞ」

 うれしい悩みに降参こうさんするように、大久保主任にメニューを手渡す。
 顔を上げると、カウンターの酒棚――バックバーが目に入った。

 さまざまなボトルが、競うようにならんでいる。
 ボトルの色や高さがそろっている場所もあれば、あえてバラバラなものをあつめ、ライトアップしている場所もある。
 
 中央の飾り棚の、赤いハイヒールをしたワインスタンドが印象的だった。

 そのとなりに、あざやかな桜色のボトルがあった。 

「ご注文は、お決まりでしょうか」

 ちょうどスタッフが来たので、聞いてみることにした。

「あのロゼワイン、すごくキレイですね」
「昨年のボジョレーです。数か月寝かせることで、しっかりとした凝縮感のうしゅくかんが生まれます」

 数か月なら、熟成じゅくせいというほどでもないし、ロゼだから、そこまで重くもないだろう。
 
「グラスでいただけますか?」
「もちろんでございます」

 やった。
 ボジョレーを寝かせたことがないから、とても楽しみだ。

 しばらくして、全員分のドリンクが運ばれてきた。

「大久保さん、乾杯かんぱいおねがいします」

 瀬戸さんにいわれ、大久保主任がうなずいた。
 姿勢を正し、おちついた声音で話し出す。

「卓球大会のお疲れさま会となりましたが、営業部と経理部の若手わかて親睦しんぼくが深まったことを、うれしく思います。おいしいワインをたのしみましょう。乾杯」

 全員で、かるくグラスをかかげる

 ひとくち飲んで、そのおいしさに目を輝かせる。

 ボジョレー・ヌーヴォーのロゼといえば、フルーティで酸味が強いイメージがあった。 
 数か月寝かせたことで、その酸味がまろやかになっており、果実味とのバランスがいい。
 ひかえめな甘味もあって、これは当たりだと思った。

「このロゼ、エビに合いそう」
「萌ちゃん、しあわせそうに飲むね」
「しあわせですもん」

 前菜やチーズの盛り合わせが来たので、運んでくれたスタッフにたずねる。

「エビの料理、ありますか?」
「エビでしたら、生春巻き、ガーリックシュリンプ、エビカツサンドがございます」
「生春巻きください」
「かしこまりました」

 そつない受け答えの女性スタッフは、透明感がある和風美人で、立ち姿が美しい。
 つい、後ろ姿を、目で追ってしまう。

「みくの好きなタイプですね」

 営業部のふたりがむせた。

 苦しそうにせき込む瀬戸さんとは対照的に、知沙さんは小さく咳払いをするようにむせている。

 美人はむせても絵になるのか、と新しい発見をした。
 今度、みくに教えてあげよう。
 きっと喜ぶだろうな、と彼女の笑顔を思い出しながら、ボジョレーの口内に広がるフレーバーの余韻よいんを楽しんだ。



「やっぱ俺、ビール飲みたい」

 グラスを空けた瀬戸さんは、いうがはやいか、スタッフにビールを注文する。
 
玲於れおったら」

 知沙さんが、ためいきとともにつぶやく。
 瀬戸さんは、それを横目で見て笑いながら、イスをこちらがわに向けた。

「大久保さーん。俺が酔うまえに、相談させてくださーい」
「かまわないよ」
「仕事の話になるんですけど、いいすか?」
「君が俺に? 畑違いじゃないか?」
「いえ。むしろ、違う立場の人の意見が聞きたくて」
「そういうことなら」

 そういって、ふたりは話しこむ。
 熱い卓球勝負バトルを繰り広げたことで、男の友情が芽生えたのかもしれない。

「すげー参考になりました。ありがとうございます!」
「それは良かった」
「あ、おれいに、女の子紹介しますよ?」
「ははは。今はいいかな」
「もしかして、かわいい彼女でもいるんですか?」
まだ・・いないね」
「じゃあ彼氏はいるんですか?」

 こんどは私がむせた。
 
「だいじょうぶ!? 萌ちゃん!」

 大久保主任が、背中に手を置いてきた。
 しゃべれないので、片手をあげて制止の意を示し、背中をさすられるのを辞退じたいする。
 
「瀬戸くん。わるいけど、俺は女性にしか興味がない」

 大久保主任が、きっぱりと宣言する。
 他人事のようにビールグラスをかたむけていた瀬戸さんが、ふしぎそうに首をかしげた。

「あれ、なんか俺、振られたみたいになってます? 俺もきれいなお姉さんにしか、興味がありませんからね?」

「玲於、失礼よ」
「え? どこが?」

 本気でわかっていない顔に、大久保主任がちいさくふきだした。 

「星野さん、気にしないで。営業は、このくらいの勢いがあったほうがいいから」
「大久保さんが、そうおっしゃるなら」

 瀬戸さんが、勝ち誇ったかのように、知沙さんを見た。

「ほらみろ、知沙。大久保さんは、俺らと違って、大人なんだよ」
「私と玲於を、一緒にしないで」

 知沙さんと瀬戸さんが、仲良くケンカしてる。
 
 それをながめながら、私はボルドー地方の白ワインを、舌で転がした。

 このエレガントな酸味がたまらない。
 フレーバーに香ばしさがある、重厚な味わいだ。

 これは和食にも、合いそうだ。
 白だから、やはり魚料理か。
 焼くより、煮るや蒸す方がきっと……っ!!

 真剣に合わせる料理を考えていると、大久保主任から名を呼ばれた。

「萌ちゃんは、休日は何してるの?」
「ソロキャンプです」

 毎回、がっくんがいろいろと手伝ってくれるけど、2区画にわかれているから、ソロキャンプで合っているだろう。

「女の子ひとりでキャンプって、あぶなくない?」
「だいじょうぶですよ。テントにかぎも付けられるので」

「そうなんですか?」

 反対隣から声をかけられ、がっくんの方に顔を向ける。

「あのテントに、もともとついているわけじゃないですよね?」
「はい。女性ソロキャンパーの動画で、ナンバー式の南京錠を、ファスナーの穴に通して鍵にしていたので」
「なるほど。ナンバー式だったら、鍵を無くす心配がなくて、いいですね」
「そうなんです! ただ、飲み過ぎてナンバーを忘れないか心配で、買ったはいいけど使ってません」

 そういうと、がっくんが笑った。

「意味ないじゃないですか」
「だって、なにかあっても、がっ……」

 おだやかな彼の笑顔に気がけて、あやうくがっくん呼びをしてしまうところだった。
 そのうえ、この場で言うには、ふさわしくないことを、言いかけた気がする。

 ぐるりと首を大久保主任の方にまわし、真面目なトーンでつづけた。

「ガッと逃げて周囲に助けをもとめつつ通報すればなんとかなるじゃないですか」

 なんとかごまかせた。

「俺、ちょっとトイレに行ってきますね」

 がっくんが、笑いをこえらえるようにして席を立つ。
 うん、彼には、ばれたようだ。
 
「でもさ。やっぱり危ないよ」

 大久保主任が、しぶるような声を出す。
 もしかしたら、心配性なのかもしれない。
 私は笑顔で、安心できる要素を、げていく。 

「人が多いキャンプ場しか行かないので、だいじょうぶです。管理人さんもいますし」

 がっくんも、いますし。

「じゃあ、俺がついていってあげるよ」
「え!?」

 予期よきせぬ話の流れに、おもわず聞き返す。
 マジマジと大久保主任を見つめると、なぜか彼は照れたように笑った。

「遠慮はいらないよ。俺も子供のころ、よく家族でキャンプに行っていたから。道具は実家にそろっているし」
「あ、そ、そうなんですか」
「でも、どれが必要かわからないから、萌ちゃん、一緒に来て、見繕みつくろってくれない?」
「いやいやいやいや、おそれおおくて、とても行けません」
「どうして? うちの親なら、とくに気を使う必要はないよ?」

 職場の先輩の実家など、気を使うことこの上ない。
 大学の先輩の家に遊びに行くのとは、わけが違う。

「毎週キャンプに行くなら、早い方がいいよね? 実家は県内だから、平日の夜でも、かまわないよ」

 なぜか行く方向に話がまとまりかけて、あわててさえぎった。

「まってください! あの」
「ん? なにかな?」

 なんて言って断ればいい?
 私を心配して、言ってくれているのはわかる。
 直球で断ると、失礼にあたるのかもしれない。
 さいあく、場の雰囲気を、壊すかもしれない。
 でも、大久保主任の実家になんて、絶対に行きたくない。

 あせりから、思考がぐるぐると回る。
 ワインのアルコールも手伝って、うまく言葉が組み立てられない。

 その時、がっくんが席にもどってきて、彼の顔を見たら、なぜだか急にホッとした。
 きっといまの私には、おちつく時間が必要だ。

「私も、お手洗いに行ってきますね」

 秘儀ひぎ・女子トイレに逃げるを発動させた。





 会社と違って、あまりトイレにこもるのもまずいだろう。
 そう思い、廊下に出てはみたが、席にもどる気が起きない。

 壁によりかかり、どうしたもんかと思案する。
 
「はっきり断ったりは、しないのね」
知沙ちささん」

 おもわず、名前呼びをしてしまう。
 そんな私に、彼女はいぶかしげな視線を投げた。

距離感きょりかんの無い子ね」

 そういって、私のとなりで立ち止まる。
 巻いた髪を耳にかけるしぐさは、薄暗いところで見ると、色気がすごい。
 女の私ですら、ドキリとしてしまう。

「自分では、断っているつもりなんですけど」
「つもりね。ああいうタイプには、向かないわ」
「そうなんですか?」
危機感ききかんまで無いの? 実家に誘われていたじゃない」
「……キャンプ道具は、口実こうじつ、ですよね?」
「いまさらなの?」

 知沙さんのいうとおり、いまさら、気づいてしまった。

 ――大久保主任が、恋愛的れんあいてきな意味で、私のことが好きだということに。

 自意識過剰じいしきかじょうな仮説 は、いままでのすべてに辻褄つじつまう。

「のこのこ着いていったら、外堀そとぼりから埋められて、既成事実きせいじじつを作られるわよ」
「え、こわい」
「男なんて、そういうものよ」

 どうしよう。
 知沙さんを、ねえさんと呼びたくてしょうがない。

「知沙さんだったら、どうしますか」
「あなた……私に聞くのね」
「参考までに」

 答えてもらえないのを前提に聞いたが、予想に反して、彼女は考えこむようにうつむいた。
 しばらくして、顔を上げた彼女は、かわいらしく小首をかしげる。

 その様子が、初めて会った時とリンクする。
 あ、これは彼女のくせなんだ、と思った。

「『彼氏に怒られるから』と言うわ」
「そうですか……私は彼氏がいないので、無理ですね」
うそをついてでも、追い払いたいんでしょ?」
「あ、そういうことですか」
「……気の抜ける子ね」

 知沙さんの表情が、すこし和らいだような気がした。

「知沙~。なにしてんの、こんなとこで」
玲於れお
「あれ、宮崎さんも」

 やってきた瀬戸さんに、かるく会釈をする。
 
「あ、もしかして、おたがいだれねらいか、話してる感じ?」

 きゃー、と裏声うらごえを出す瀬戸さんを、残念なものとして見てしまう。

「知沙は誰ねらい?」
「合コンじゃないのよ」

 瀬戸さんが、かがんで知沙さんと目線を合わせる。
 一歩ひいた知沙さんの背中が、かべにあたった。

 瀬戸さんが笑いながら、一歩の距離をつめる。
 そして、知沙さんの頭上のかべに、片手のこぶしをトンとつけた。

 こ、これはもしや、かべドン!

「俺にしなよ」
「馬鹿じゃないの」
「知沙ってどこから見てもきれいだな。俺とデートしよ?」
「彼氏に怒られるから」

 なるほど。こういう場面で使用するのか。
 勉強になるな。

 うなずいていると、瀬戸さんの笑い声が聞こえた。

「その彼氏・・にあいさつさせてよ。仕事でつちかった営業トークで、ぜったいに了承りょうしょうをとりつけてやるから」
 
 知沙さんがため息をついて、瀬戸さんの体を押しもどす。
 彼は降参するように両手をあげて、知沙さんから離れた。

「彼氏がいてもいい、という人間には、通用しないわ」
「美人すぎるのも、たいへんですね」

 知沙さんが、面食らったようにまばたきを繰りかえす。
 まつ毛が長い。

「あなたといい、秋津あきつさんといい、最近の若い子って変わっているのね」

 みくが、知沙さんのことを好きな理由が、すこしわかったような気がした。
 彼女はきっと、頼ってくる人を、見捨てられないのだろう。

「宮崎さん。俺でよかったら、手を貸すよ」

 瀬戸さんの言葉に、知沙さんが軽く眉をよせる。

「どこから聞いていたの」
「既成事実のくだりから。いい案だけど、宮崎さんってうそつけるの?」

 瀬戸さんが、からかうように聞いてくる。
 答えにつまり、視線をさまよわせた。

 たしかに、嘘は得意ではない。
 架空かくうの彼氏について質問でもされたら、うまくかわせる自信がない。
 でも、これ以上のあんなど、すぐには思いつかない。

「じゃあさ、俺が彼氏ってことにすれば?」
「え?」
「にせもの彼氏。助け舟を出すから、てきとうに話を合わせてよ」
「でも、それだと瀬戸さんにご迷惑が」
後輩こうはいを助けるのは、先輩せんぱい役目やくめってね。あ、俺のことは玲於れおってよんでね」

「まって玲於。どういうつもり?」

 知沙さんが、いぶかしげな目を向ける。

「いいじゃん。知沙だって、ふたりにうまくいってほしくないんでしょ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」

 知沙さんが、言葉につまる。 
 反論はんろんを、ためらっているかのようだ。

 瀬戸さんのいうことを要約ようやくすると――大久保主任と私に付きあってほしくない。
 つまり、私の味方ということですよね!?

 期待に満ちた目で、知沙さんを見る。
 彼女は、私の視線には気づかず、じっと瀬戸さんを見上げている。

「深く考えるなよ。俺が勝手にリベンジするだけだから」
「あなたのそれは、いやがらせというのよ」
上等じょうとうじゃん」
「玲於」
「相手が敗北感はいぼくかんを抱けば、必然的に俺の勝ちだ」

 何の話をしているのだろう。
 瀬戸さんの言葉に、知沙さんの表情が、けわしくなっていく。

「その極度きょくどな負けず嫌いは、矯正きょうせいしたほうがいいんじゃないかしら」
「知沙ぁ?」

 怒気をふくんだ瀬戸さんの声に、知沙さんの細い肩がゆれる。

「いま、そんなこと言ってる場合じゃねぇだろ? なぁ?」

 不穏ふおんな空気に、おもわずふたりのあいだに割りこむ。

「ああああの! 滝本先輩には、話しておいたほうが、よくないですか?」

 私の言葉に、同時にふたりから視線が飛ぶ。
 知沙さんは目を伏せ、瀬戸さんはあごを上げた。

「岳はいいんだよ」
「でも」
「敵をだますには、まず味方から。聞いたことない?」
「あります、けど」

 うってかわって、優しい声で、さとすように言われる。
 その急激な変化に、背筋せすじがゾクリとした。

「俺にまかせておけば、だいじょうぶだから」

 口調は優しいが、有無を言わせぬ強引さがある。

「宮崎さん」

 ほそい指が、私の腕にふれる。
 照明にきらめく、ローズピンクのネイルがきれいだった。

 知沙さんは、迷うようなそぶりで、口をひらく。

「決めるのはあなただけど――ほんとうに、いいの?」

 悪い話ではないはずだ。
 うまくいけば、萌ちゃん呼びもなくなるし、必要以上に誘われることもない。
 嘘の苦手な私より、話術わじゅつけた瀬戸さんにまかせたほうが、安心だ。 

 だから、この胸騒むなさわぎは、きっと緊張きんちょうによるものだ。

 不安を取りはらうように、私はふたりの視線を受けとめ、しっかりとうなずいた。

「よろしくおねがいします」
「よし、じゃあいくか」

 深呼吸をし、廊下から店内へと、足を踏み入れる。

「あ、そうそう」 

 背後から、笑いをふくんだ瀬戸さんの声がした。

「俺を名字 みょうじで呼んだ瞬間、ぜんぶバラすから。気合入れていけよ、もえ

 おもわず足を止め、瀬戸さんを見上げる。
 至極しごくたのしそうに目を細める彼に、言うべき言葉がみつからない。

 視界のはしで、知沙さんが頭痛をこらえるように、ひたい に手をあてているのが見えた。
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