熔鉄

小目出鯛太郎

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2.6 晴彦

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「成人の財布に札が入ってねーなんてまじありえんわ。アホかお前、前もって金くらいおろしておけよ」

 夏に軽く頭を叩かれて晴彦はうめいた。痛くはないが反射的に声が出てしまったのだ。

「金なかったら焼肉行けないじゃん。お前だって肉食いたいだろー?カードは?カード有るんだろ?」


「カードはお母さんに取られちゃった。お金使い過ぎるからって」
 本当は、晴彦から母に預けた。夏と買い物に行く度に支払いが増えるからだ。晴彦は計算は得意ではないが、自分が買ったもの以上に請求がくるのはおかしいと、それぐらいは理解できた。
 カードを持っていては、請求は増え続けてしまう。解約してしまいたかったが一枚くらいは持っていなさいと困り顔の母が通帳と共に預かってくれたのだ。

 そして毎月まとめて貰っていた小遣いは一日五百円にしてもらった。
 これなら昼食におにぎりとカップ麺を買ってもお釣りがくる。そしてお釣りを貯めておけば時々漫画も買える。

「まじ使えねーなー」
 ぐいぐいと頭を掴まれて晴彦は俯いた。


 どうしてこんなことになってしまったのか。



 夏は幼馴染で、美容師になり春には就職して晴彦の髪を切ってくれた。夜は遅くまでカットの練習をして偉いなぁと思っていたのに。
 すぐに服装が派手になり、言葉使いが乱暴になった。乱暴になったのは言葉だけではなかった。

 服は派手なほうが、晴彦に分かりやすいだろう?と言われれば実はその通りなので全く反論できなかった。

 髪を脱色ブリーチされ、所々青に染められた時は激しく動揺した。髪の太さや質で発色が違うから練習したいから協力してと言われて頷いたけれど。会社勤めや公務員の子にはとても頼めないからと言うはずだ。
 ものすごく目立つ。

 染めたばかりの髪は酷い匂いがして嫌だったけれど似合うよ、かわいい、格好いいと褒めそやされたら、悪い気はしなかった。
 

 その後で夏と夏の友達とカラオケに行って…部屋はうるさくて、ギラギラして、歌っているのか酒を飲んでいるのかわからなくて、晴彦は夏とキスをしながら、本当に夏とキスしているのか混乱した。    
 皆似たような髪型で派手な服を着てげらげら笑い酒と整髪料と何かが混ざった匂いがした。


「童貞と処女をいっぺんに卒業できて良かっただろ」
 と笑いながら尻を叩かれて、ずり下げられた下着を引き上げようとしながら晴彦は夏を呼んだ。

「なっちゃん、なっちゃん!!」

「なんだよ、気持ち良くしてやるから泣くなよ」
 その声は間違いなく夏の声で、夏の唇は煙草とぷんと強い酒の香りがした。晴彦とキスしているのが夏ならば、今後ろから激しく晴彦に腰を打ちつけて体の中身をかき回すのは誰なのか。

「なっちゃん、痛いよ、たすけて、なっちゃん…」
 派手なシャツは皆脱いでしまい、下品なミラーボールが光を上下に投げかける。光も影も渦巻く中で晴彦の知っている夏はもう何処にもいない気がした。


「おい。店員来るとめんどいからあんま泣かすなよ」
 誰かの声で律動が弱まり、替わりに酒と煙草に襲われて晴彦はむせた。


「お前も可哀想というかバカだよなー。金むしり取られて、ダチにケツまで売られて」
 誰かが背後から重くのしかかりながら晴彦に囁いた。

「センパーイそーいう言い方はないっしょ、こいつ可愛いから連れて来いって言ったの先輩じゃん。壊さないでくださいよー」

 知らない人の声のようだった。晴彦は団子虫のように縮こまって目を瞑っていた。誰かがずっと可愛いと晴彦の髪と身体を撫でて体の中に入って来た。


「晴彦泣くなよ、ほらみんなやってるだろ」

 
 学校ではみんなと同じ事が出来ないと叱られたり馬鹿にされたりした。それはいつもとても辛くて、でも夏は仕方ねぇなって優しくしてくれたのに。優しく手を引いてくれたのに。
 今、夏の手は、別の場所に絡みついて晴彦に悲鳴をあげさせた。


「…なっちゃん!…やめて!もう帰る!おれもう帰るから」
 
 立ち上がることも出来ずに晴彦は泣いた。晴彦の視界はぐらぐらと揺れて、地震で押し潰されて死ぬのだと思った。
 重くて、苦しくて、息が出来なくて。

「…ほら、ハル出して良いぞ。気持ち良いだろ…?こんなにいっぱいもらして気持ち良いだろ?」

 手で包まれてすりあげられた場所には痛みではない快感があった。だが囁かれる言葉に晴彦は素直にうなずけなかった。

 吐精した快感よりも、帰りたい気持ちが大き過ぎた。
「…もう帰る」


 夏の声が、何を言ってももう帰るとしか返事をしなかった。
 抱えられ、支えられて夏のアパートに連れ帰られて、ぼんやりと夏の声を聞いていた。



「…晴彦ちょっと食べすぎて、お酒も飲んじゃってうちで寝てるんですよ。このまま寝かせておきますから。大丈夫ですよ、明日の10時に店に間に合うように行かせますから。あーそんなの気にしないでくださいよ、俺明日休みだし、本当に気にしないでくださいよお母さん」


 恐らく母からの電話に愛想良く応えるその姿は、晴彦の知る夏だった。優しくて面倒見が良くて、晴彦が迷子にならないように手を引っ張ってくれる夏の声だった。

 カラオケであった事が全部酔ったせいで見た悪い夢だったのではないかと思わせた。しかし身体に残る痛みが、あれが夢ではなかったと訴えた。

「…ハルまだ怒ってるのか?みんなあれぐらい普通にやってるし上手な人にやってもらえてセックスすんの気持ち良かったろ?」

「…よくない」
 小さく呟いた晴彦の声に夏は怒りはしなかった。

「ウソつけ、突っ込まれてフル勃起してたじゃん。何回いったと思ってるんだよ、恥ずかしがんなよ、お前気持ちよかったんだよ」


 晴彦の身体の事が夏にわかるわけがないと叫びたいような気持ちに駆られて、しかし晴彦は言い返せずに口籠った。
 いつも晴彦の言いたい事を上手く代弁してくれるのは夏だったのに…。


「…痛いのか?撫でてやるから機嫌直せよ、な?」
 次の休みはもっと良いところに連れて行ってやるから、と頭を撫でられて痛む腰をさすられて、晴彦はうとうとと眠りに落ちた。


 思えばこの頃から財布からお札が無くなったり、食事に行っても夏がお金を持っていなくて替わりに晴彦が支払うようになった。

 晴彦は十分すぎるくらいに小遣いを貰っていたので困りはしなかったが、夏との関係の歪さに傷ついた。

 恋人でもない。

 友達…でもない。

 大事だったけれど何か違うものになってしまった。夏の手を振り払えないのは、いつも泣いていた自分の手を引いてくれたのは夏だったからだ。

 夏が困っているのなら助けたいと思うのに、そのままずるずるとおかしな関係になってしまった。

 恋なんていうのは母が作る木苺フランポワーズのソースかレモンのケーキのような甘酸っぱいものだと思っていた。
 
 今そんな気持ちを感じるのは、夏ではなくて別の人だ。
 つい先日、その人に彼氏らしき人がいて失恋したばかりだ。


 夏とのことは、ほんの一滴で良いラム酒をどぼどぼと誤って注いだようにどうにもならなくなっていた。

「おい、店に少し釣り銭置いてるんだろ?明日補充することにしてそれ持ち出せよ。二万くらい良いだろ?」


 良いはずがなかった。

 夏だって二万円の価値が分からないはずがないのに。
「…だ、だめだよ、お店のお金はだめ」

「かったいなー明日戻せばばれないじゃん、飯を喰いに行こうぜ~どうせ、もう客なんて来ねえんだろ?お前ん所予約の奴ばっかりじゃん」

 ショーケースに身を乗り出すようにして夏が言い募る。

 夏の様子が豹変する前にがらんがらんとドアベルが鳴った。

 一瞬夏が怯えたように身体をすくませたように晴彦には見えた。

 晴彦も後ずさりそうだった。

 黒服の仁王像が一体。漫画ならずずーんとかどぉーんと効果音を貼り付けての登場だっただろう。
 実際はドアベル以外の音は無かったが威圧感は凄まじかった。


「こんにちは。もし前に買ったシュークリームの今日の販売分があるなら買いたいんだけど…無かったら予約で」

 聞き覚えのある声だった。
 仁王像にこの声はサハラさんの彼氏だと、晴彦は白衣の裾を掴んで、狼狽えた。


「今日は帰るわ」
 逃げるように夏が出て行き、ドアベルが乾いた音を響かせた。

「あれ、邪魔しちゃったかな?」
「い、いえ、あのごじゃります」

 晴彦は極めて冷静に、ございますと言おうとしたのだが、噛んだ。


「ごじゃりますか、それは良かった」

 黒い仁王像が、にこっと笑ったように見えて晴彦の肩から力が抜けた。

 この人に対してではなく夏の言動に緊張していたのだと晴彦は気がついた。

 何故か助かった…と思った。
 何一つ解決していないのに晴彦はほっとして、座り込みそうになる自分を叱咤した。

「今日は三つあります。それから、あの、あの、お嫌いじゃなかったらプリンがニ個あります」

 
 誰が来ても慌てないように、在庫の数を書いておいて良かったと、晴彦はゆっくり読み上げる。


 その時自分が、どんな顔色をしているかなど晴彦には分からなかった。

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