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2.8 晴彦
しおりを挟む「おかあさん、お店休んでもいい?」
車の座席を倒したまま晴彦はつぶやいた。母の顔を見ながら言う事は難しいように思えたからだ。
「もしかしてさっきの人に何か言われたりされたりしたの?」
母の声には不安が滲んでいた。
「ちが、違うよ。あの人良い人だよ」
晴彦は起きあがろうとして、しかし諦めた。腹筋が震えた。
言えば母を困らせることになる。しかし言わなかったならば、いつかもっと困ることになると晴彦は思うようになっていた。
思えば髪色を青く染められた時に、あるいはカラオケに連れて行かれて無理矢理されたことを言うべきだったのだ。
でもカラオケであったことは、どうしても母には言えなかった。
「…なっちゃんがお金貸してって店に来るんだ。今日は途中でお客さんが来たからなっちゃん帰ったけど、次またされたら断れない。お店のお金、みんなとおとうさんのお金だから」
父が事故で亡くなった際の保険金の一部を、事業にあてている事は母から聞かされていた。
自分が普通の店では働けなかったせいだ。
障害を持った子の親同士が集まって就労支援施設を…という話は必要なものや役所のハードルが高くまだ設立に至っていない。
車はウィンカーを出して、道端に寄った。ハザードランプがちっかちっかと規則正しい音をたてる。
晴彦は顔を傾けて母を見た。
ハンドルに顔を伏せる母の姿を見て申し訳なくなった。言わなければ良かったとも思った。苦労と迷惑ばかりをかけて。自分はもう母よりずっと背が高くなったのに。頼りない子供のように見上げている。
ああ、でも。
「おかあさん、ごめんね。おれもうなっちゃんがわからない」
一番の友達だったのに、一番の晴彦の理解者だったのに。夏は変わってしまった。
母が信頼しているのも彼だったのに。
母の手がそっと伸びて晴彦の手を掴んだ。小さな手だった。晴彦の手の方がずっと大きい。
「おかあさん、ごめんね」
「あやまることなんてないのよ。今日倒れたのは夏君のせいなのね…。お店には佐伯さんに入ってもらうようにするから。晴彦……今までも殴られたり、お金を取られたりしてた?」
「…殴られてないよ。お金、取られてないけど、ご飯食べる時いっぱい払ったかもしれない。もう忘れちゃった」
それだけのことを話すのにひどく時間がかかったような気がした。
「晴彦はゆっくり休めばいいから…」
「お菓子焼く方に行ってもいい?」
母が小さく頷くのが見えた。晴彦はゆっくりと瞼を閉じた。
『深呼吸しようか、吸って、はいて…』あの声が自然と思い出された。倒れたのにいつもより呼吸が楽で、言わなくてはいけない事は母に伝えられた。
大丈夫だよと言って晴彦の背を撫でてくれた大きな手も思い出した。
カラオケで身体を這い回った手とはまるで違っていた。
母が車のラジオをつけて、ウィンカーを出す音が聞こえた。聞こえてきた曲は名前も知らない。
背中を撫でてくれた人の名前も知らない。
聞いておけば良かった、と思った。
もし次に顔を合わせる事があってもわからないかもしれない。
仁王像みたいな。
悪いものが入って来ないように立っている仁王像みたいな。晴彦は心の中で繰り返した。
サハラさんの彼氏かもしれない人。
サハラさんの仲の良い友達かもしれない人。失恋したなぁと思ったあの時とは違う感じで思い返していた。
もう夏と比較することもないだろうと、それだけは分かっていた。
きっと誰かに寄り掛かりたい気分なのだ。
倒れても受け止めてくれそうな人に。
ただそれだけなんだ。晴彦は静かに息を吸い込んだ。そして諦めに似た溜息のように吐き出した。
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ご要望ありがとうございますー。結末が当初思ってたのとは全然異なる不幸せな感じになりそうで時間がかかっております…。(›´ω`‹ )チーン
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