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業の国
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しおりを挟む凩が震えながら少年の元に戻った時、そこに恐ろしいズオルトの影はなく凩は心底安堵したが、歌っているクルスの視線の先に横たわる男の姿を見た時、驚愕した。
力なく死の影に覆われたように横たわる男の顔は熱波に似ていた。だが凩らしがここではない場所で見た姿と比べると力強さも覇気も無く顔だけを似せたはりぼてを寝かせてあるようだった。
クルスが歌っている間、黒い靄は王に近づけない。だがクルスも生身の人間だ。休まず歌い続ける事は出来ない。クルスが首に下げたネックレスから小さな飾りを取り出し中に入った竜の肝の残りをほんの少しだけ舌先に取り口の中に広げる。その僅かな間は、王の横でその手を握ったクルスの姉が歌い継いだ。
姉の声では黒い靄は払えない。全てを飲み込もうとするかのように覆いかぶさろうとする。
瞬きする間に、歌い続けたせいで腫れ上がり血の滲んだ喉は癒やされ澄んだ美しい声が戻る。
クルスの声に押されるように黒い靄は払われる。閉ざされた部屋で箒で塵を払うようだ。黒い靄は一度は形を失うけれど、無くなりはしない。
凩は、どうして良いかもわからず少年を見つめた。その黒い靄は命ある者に等しく訪れる死の影だった。
人の世界で言うならば、死神。
王の命の終わりを歌で捻じ曲げようと言うのか。
凩は黙って見ていた。
命の終わりを捻じ曲げ続けたのは凩も同じだった。
冬の終わりに大妖束風のくれる冷たい力の欠片が無ければ、彼が凩を冷たい鍾乳洞や洞窟の奥に隠してくれなければ、一人で夏を越す事も出来ずにとうの昔に潰えていた。
例え冬の短いひと時でも束風と一緒に居たくて長らえてきた。
そんな凩に誰かの命に口を出す権利はない、そう思えた。
ただ見つめる先で、クルスが息継ぎをする時、歌の終わりにクルスが手の甲で口を拭うたびに赤いものが滲む。
上着の袖口まで赤く汚れていた。
とうとうクルスの持っていた竜の肝が無くなった。もとよりほんの小指の先程の量しか詰めていなかったものを、ほとんど樵に与えて、小さな容器の端についたものを舐めていたのだから。
クルスの声はかすれはじめた。
それでも黒い靄を近づけぬ不思議な力があった。
クルスの声は割れ始め、時折ひどく咳き込む。もうあの天上から降るような天使の声ではない。それでも黒い靄を払い続ける。
クルスの姉が王の右手を、クルスが左手を取り、二人とも枯れた声で歌い続ける。姉の顔も血の気がなかった。疲労の限界だろう、いつ倒れてもおかしくない。
王の手をただ一つの命綱のように握りしめてクルスの姉も歌っていた。
もはや蟾蜍の方が美しい声で鳴くだろうと思われるほどクルスの声は荒れて血を吐いた。
床と寝具に飛び散った深紅の薔薇の血の花弁。
凩はもう見ていられずに、少年に飛びついたのか叫んだのか自分でも良くわからぬ状態になった。ただ冷たい小さな風はクルスの声と、横たわっていた男の命の炎に幾ばくかの力添えをしたかに見えた。
それが良かったのか悪かったのか…。
黒い靄は何か一つ命を運ばねば消えないものなのかもしれなかった。
その部屋にいた者のうち、無力で、抗う力を持たず、王の薔薇と十字架の守りから少し外れた人の生を素早く刈り取り運び去って行った。
この世にまだ生まれていない小さな命を黒い靄が運び去ると同時に、ゆっくりと王の瞼が震える。
歌い続けたクルスはもう立っている事も出来ずに寝台の下に頽れた。つないだ手は離れてしまった。
王の暗い視界に映るのは蒼白な顔をした女の顔だった。
命をかけて自分の生を繋いでくれた女の顔は、何より美しく輝いて見えた。苦しんでいる間ずっと聞こえ続けた美しい歌声を生涯忘れる事はないだろう。
自分を愛していると命懸けで歌ってくれたただ一人の女。
王は愛が何かをようよう悟った気がした。永遠にこの右手を離すことはないと心に誓った。
だから凩以外誰も気が付かなかった。
本当に命懸けで愛を叫んだ者が倒れている事にも、生まれる前の小さな命がすでに失われていることにも。
そして王の薔薇が、十字架の存在を告げなかったことも…。
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