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四章「咲かない花を夢に見た」
03(アダム視点)
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「……いや、まあ……もちろん彼女の身の上を素直に……君に助けられたことを伏せた上で警察に申し出ても、きっとジェッタは普通の生活に戻れるけどね。ただ、そうなればさすがに警察も再調査するだろうから時間はかかるかもだし、その間の事情聴取なんかの関係もあって……ジェッタはどうしたって児童養護施設に入ることになると思うけど」
「だったら、あなたにはそのほうが」
「でもそれは、ジェッタが望まないと思うんだ」
——ひとりにしないで。
出会った日のジェッタの声が頭の中にこだまして、アダムは息を呑んだ。
警察に改めて通報したほうが真っ当なのは目に見えている。児童養護施設へ入ったほうがジェッタの暮らしは公的機関に守られて安定する可能性が高いし、ディランには手続き以外での負担は低いはずだ。
そんなのは分かりきっていることなのに、ディランの言わんとすることもアダムには分かってしまう。
「養護施設に入れば、ジェッタは間違いなく君と離れることになる。そのうえ君との思い出を誰かと話すことすらできなくなるんじゃないかな」
ディランの言葉が耳に入るたび、外の世界で幸せに生きて欲しいと告げた時のジェッタの涙が鮮明に脳裏に浮かび上がった。
だけど、それでも、と頭の中で言葉を紡いでいるうちにディランが——やや逡巡しつつ「それに」と続ける。
「そうなれば、君は姿を消すつもりだよね?」
「——……」
この場合、沈黙は肯定と同義だ。
分かっていつつも、アダムは返事をしなかった。
「…………それこそ、一番ジェッタが悲しむことだと思うよ」
ディランが少しだけ俯いた、ように見えた。知ったふうな口を聞くなと怒りを買うことを想定した上での発言だったのだろう。
別れの悲しみをジェッタに味あわせることになるのは間違いない。ジェッタが何より恐れているのは、近しい存在を失ってひとりきりになってしまうことなのだから。だがヒトという厄介な生き物と共に在ることのほうが、どう考えても圧倒的に彼女のためにならない。当然それはディランもだ。
先日ディランに告げた通り、ジェッタの安寧が確保されればもう無茶苦茶な取引のもと彼に負担を強いる必要もない。
過去の罪そのものである自分がいなくなることこそ、ディランにとっても良いはずだ。
アダムがここに残る理由は、一つもない。
「……これで全て終わるなら、それでいいじゃないですか」
ローテーブルの下で拳を一瞬強く握り込み、アダムはうっすらと笑みを形作った。
「養子縁組なんて、あなたには荷が重すぎることをする必要なんてないですよ。ありがとうございます。色々と」
「……アダム?」
唐突に席を立ったアダムをディランが不安げに見上げてくる。つられたのか腰を浮かせかけるのを、静かに手のひらで制した。
「動くのは早いほうがいいです。警察を通すなら、彼らが一度はここを訪れるでしょう?」
「っ」
一から十まで告げずとも、こちらの言いたいことは存分に伝わったらしい。
いや、伝わり過ぎてしまったと言うべきか。そのまま踵を返そうとした瞬間、伸びてきた腕に手首を掴まれアダムは青眼を見開いた。
ディランがとった行動そのものよりも、掴んでくる手の力の強さに。
「あ、……」
そしてディラン自身、そんなことをした自分に戸惑っているようだった。
中途半端に開いた口で何を言ったらいいのか分からないようで、酸欠の魚のようにパクパクと動くばかり。それでも手だけはしっかり掴んだまま、離そうとはしない。
様子のおかしかった先日の彼をまた思い出し、アダムは手首を掴む手とディランの顔を交互に見る。
情を移してしまった相手を放っておけない、そんなディランの気質は知っている。それが今また出てしまったのだと、アダムは唇を噛んだ。
獣人同士ならともかく、ヒトにまでその優しさを向けるなど愚の骨頂。【楽園】を追放されてもまだ、彼の甘さは変わらないままなのだ。……そんなことはとっくに気付いていたし、だからこそディランを利用してしまったのだったと自嘲する。
だけど、もういいと伝えたはずなのに。
側に置いても罪悪感で辛いばかりなのだから——もう、捨てていいのに。
「アダム」
呼びかけてくる声が不自然に揺れていた。
——ほら、また泣きそうになっている。
力いっぱい腕を引いてみたが、ディランは少し痛いくらいの力で手首を掴んだまま。離してくれる気配はない。
それでも、こちらを気遣って加減してくれていると分かっていた。彼ら獣人はたとえその気がなくてもうっかりヒトの骨を折ってしまう程度の力を持っていると、アダムは身をもって知っている。
手を押さえつけただけで簡単に指の骨が折れたことに目を丸くしていた最初の飼い主をふと思い出したところで、「アダム」ともう一度呼びかけられた。
そこから続く言葉はない。
ただじっと、なんとも言えない表情でこちらを見つめてくるばかり。
「……何ですか、ドクター」
つい、責めるような口調で訊ねてしまった。
ディランに自覚があるのかは分からないが、さっきから半端に口を開けてはまた閉じるを繰り返しているのだから何かしら言いたいことはあるはずだ。
この際だから何でも言えばいい。それが迷惑をかけられた恨み言でも、こんな愚かなヒトを蔑む言葉でも。
「なにか、言ってください」
やっとのことでそう告げた自分の声は、ディランよりも震えていた。
これ以上は何も喋れない、喋ってはいけないと己の状態を察する。むしろ、いま言葉を発したことこそ間違いだった。
情けないほど弱々しい声音に、泣きそうなのは自分のほうなのだと自覚してしまった途端。
——言って欲しい言葉がある、なんて。
頭の奥から突如花開いた願望。
すんでのところで飲み込んで、押し込めて、だけど無かったことにはできなくて。
湧き上がってしまった願いはみるまに、ずっとアダムが張っていた壁にヒビを入れた。
過去のことも、お互いの立場も、本当はそんなことひとつも考えたくない。胸の澱みを吐き出す先なんてなくたっていい。取引など関係なく、いまディランに求めているものがある。言って欲しい言葉がある。
たとえそれが哀れみからのものだとしても、絵空事のようなものだとしても構わない。
この手の優しさに、その記憶に、ずっと救われてきたのだから——
「……っ!」
まっすぐに彼の顔を見ようと視線を持ち上げた刹那、目に映ったそれにアダムの呼吸が止まる。
ディランの後ろ、カーテンの閉まりきっていない窓。
真っ暗なガラスに彼らが映っていた。
両腕のない女の子。包帯まみれの男の子。焼け爛れたように肌がぼろぼろの男の子。頭部が欠けた小さな小さな女の子。
【楽園】で共に生まれ育ち、共に外に逃がされ、先に死んでいったヒトの子たち。ぽっかり空いた真っ黒な虚の目から絶え間なく涙を落とし、じっとこちらを見ている。
それは今までにも何度も見てきた姿だった。
現実のものではないと、アダムはとうに理解している。脳裏に焼きついた凄惨な記憶と、最年長であったにもかかわらず彼らを助けられず生き残ってしまった自分の罪悪感が見せている幻影なのだと分かっている。
けれど今、このタイミングで彼らが顔を覗かせたことに心臓が凍りついた。
すぐ様子のおかしさに気付いたらしいディランが再び呼びかけてきたような気がするが、何も答えられない。唯一、彼に手を掴まれている感覚だけがアダムの意識をわずかに現実に繋ぎ止めていた。
忘れるな 忘れないで
無かったことにしないで
立ち止まるな やめようとしないで
——許すな
そんな声が、激しく何度も脳内に反響する。
どれも彼らが口にするなど有り得ない言葉たちだと、それも分かっていた。獣人たちが支配するこの世の仕組み、【楽園】の真実、その何もかもを彼らは知らない。素直に獣人たちに尽くすことしか知らないまま死んでしまった仲間たちが、こんなことを言うわけがない。
分かっているのに。
「アダム!」
焦った声に鋭く呼ばれたのと、膝に衝撃を感じたのは同時。
力が抜けて頽れた自分に気が付いたが、だからと言って何のリアクションも起こせなかった。遅れてやってきた鈍痛はローテーブルに脚をぶつけたせいだろう。机の上のものを落とさなかったかどうかだけ、どうしてか妙に冷えた頭の端で場違いに考えていた。
駆け寄ってくるディランの顔をぼんやりと眺め、それから窓のほうへ目を向ける。
彼らはまだ、そこにいる。消えてくれない。
楽になることなど許されないのだ。
「……分かっているよ」
奈落の底よりなお暗い虚の瞳たちを見つめ返し、呟いた。
ディランが不可解そうに顔を歪める。何でもないですと首を振って、肩を支えようとしてくる腕に身を預けた。これくらいなら、見逃してもらえるだろうか。
「アダム! どうかしたの⁈」
ディランが何か言おうとしたのか口を開いた瞬間、血相を変えたジェッタがリビングに駆け込んできた。
すっかり眠ったものだと思っていたが、今の騒ぎで目が覚めてしまったのだろう。今後のことを話したせいで不安にさせてしまい眠りが浅かったのかもしれないと、アダムは申し訳なさを覚える。
「……大丈夫。躓いただけだよ、ジェッタ」
「でもすごい音したよ⁈ 怪我してない⁈」
泣きそうなジェッタをなんとか宥めようと声をかけ頭を撫でてやるが、まったく効果はないようだ。
素早くディランのほうを振り返り、「ねえディラン先生、アダムどうかしたの⁈」と責めているかのような勢いで食ってかかるジェッタ。
今のはアダムが自分自身の制御を失ったせいであって、ディランに非はない。ゆえに止めなくてはとジェッタに伸ばしかけた手は、しかしディランに首を振られて止まった。
「驚いたよね、ごめんねジェッタ。アダムが躓いたのは本当。そのとき少し……テーブルに脚を打ち付けていたから、打撲くらいはしているかも。これからちゃんと診るから、安心して」
「……、……う……ん」
ゆっくりと言葉を紡ぐディラン。その穏やかな声が浸透していったのか、沸騰しかけていたジェッタが刹那息を呑み——ゆっくりと吐き出す。
自分を納得させるかのように何度か頷き、やがていつものようにアダムにぴったりと寄り添った。
以前指を切った時もそうだった、とアダムは思い出す。いつも自分のことになるとジェッタを混乱させてしまい、落ち着かせてやることができない。保護者のような立場でいるつもりだったが、それらしいことなど何もしてやれていないのだと改めて思い知る。
窓に立ち尽くしたままの連なる影と、夢で見たディランの泣き顔を思う。
——何もできていない。何もしてあげられていない。誰にも。ずっと。ずっと昔から。それなのに、自分の望みだけ叶えたいなど。
のっぺりとした仲間たちの影は、もう何も言わない。ただそこにいて、ずっとこちらを見つめているだけ。
分かっているからと再び心の中で返事をしても、時が止まったように彼らは微動だにしなかった。
【四章 了】
「だったら、あなたにはそのほうが」
「でもそれは、ジェッタが望まないと思うんだ」
——ひとりにしないで。
出会った日のジェッタの声が頭の中にこだまして、アダムは息を呑んだ。
警察に改めて通報したほうが真っ当なのは目に見えている。児童養護施設へ入ったほうがジェッタの暮らしは公的機関に守られて安定する可能性が高いし、ディランには手続き以外での負担は低いはずだ。
そんなのは分かりきっていることなのに、ディランの言わんとすることもアダムには分かってしまう。
「養護施設に入れば、ジェッタは間違いなく君と離れることになる。そのうえ君との思い出を誰かと話すことすらできなくなるんじゃないかな」
ディランの言葉が耳に入るたび、外の世界で幸せに生きて欲しいと告げた時のジェッタの涙が鮮明に脳裏に浮かび上がった。
だけど、それでも、と頭の中で言葉を紡いでいるうちにディランが——やや逡巡しつつ「それに」と続ける。
「そうなれば、君は姿を消すつもりだよね?」
「——……」
この場合、沈黙は肯定と同義だ。
分かっていつつも、アダムは返事をしなかった。
「…………それこそ、一番ジェッタが悲しむことだと思うよ」
ディランが少しだけ俯いた、ように見えた。知ったふうな口を聞くなと怒りを買うことを想定した上での発言だったのだろう。
別れの悲しみをジェッタに味あわせることになるのは間違いない。ジェッタが何より恐れているのは、近しい存在を失ってひとりきりになってしまうことなのだから。だがヒトという厄介な生き物と共に在ることのほうが、どう考えても圧倒的に彼女のためにならない。当然それはディランもだ。
先日ディランに告げた通り、ジェッタの安寧が確保されればもう無茶苦茶な取引のもと彼に負担を強いる必要もない。
過去の罪そのものである自分がいなくなることこそ、ディランにとっても良いはずだ。
アダムがここに残る理由は、一つもない。
「……これで全て終わるなら、それでいいじゃないですか」
ローテーブルの下で拳を一瞬強く握り込み、アダムはうっすらと笑みを形作った。
「養子縁組なんて、あなたには荷が重すぎることをする必要なんてないですよ。ありがとうございます。色々と」
「……アダム?」
唐突に席を立ったアダムをディランが不安げに見上げてくる。つられたのか腰を浮かせかけるのを、静かに手のひらで制した。
「動くのは早いほうがいいです。警察を通すなら、彼らが一度はここを訪れるでしょう?」
「っ」
一から十まで告げずとも、こちらの言いたいことは存分に伝わったらしい。
いや、伝わり過ぎてしまったと言うべきか。そのまま踵を返そうとした瞬間、伸びてきた腕に手首を掴まれアダムは青眼を見開いた。
ディランがとった行動そのものよりも、掴んでくる手の力の強さに。
「あ、……」
そしてディラン自身、そんなことをした自分に戸惑っているようだった。
中途半端に開いた口で何を言ったらいいのか分からないようで、酸欠の魚のようにパクパクと動くばかり。それでも手だけはしっかり掴んだまま、離そうとはしない。
様子のおかしかった先日の彼をまた思い出し、アダムは手首を掴む手とディランの顔を交互に見る。
情を移してしまった相手を放っておけない、そんなディランの気質は知っている。それが今また出てしまったのだと、アダムは唇を噛んだ。
獣人同士ならともかく、ヒトにまでその優しさを向けるなど愚の骨頂。【楽園】を追放されてもまだ、彼の甘さは変わらないままなのだ。……そんなことはとっくに気付いていたし、だからこそディランを利用してしまったのだったと自嘲する。
だけど、もういいと伝えたはずなのに。
側に置いても罪悪感で辛いばかりなのだから——もう、捨てていいのに。
「アダム」
呼びかけてくる声が不自然に揺れていた。
——ほら、また泣きそうになっている。
力いっぱい腕を引いてみたが、ディランは少し痛いくらいの力で手首を掴んだまま。離してくれる気配はない。
それでも、こちらを気遣って加減してくれていると分かっていた。彼ら獣人はたとえその気がなくてもうっかりヒトの骨を折ってしまう程度の力を持っていると、アダムは身をもって知っている。
手を押さえつけただけで簡単に指の骨が折れたことに目を丸くしていた最初の飼い主をふと思い出したところで、「アダム」ともう一度呼びかけられた。
そこから続く言葉はない。
ただじっと、なんとも言えない表情でこちらを見つめてくるばかり。
「……何ですか、ドクター」
つい、責めるような口調で訊ねてしまった。
ディランに自覚があるのかは分からないが、さっきから半端に口を開けてはまた閉じるを繰り返しているのだから何かしら言いたいことはあるはずだ。
この際だから何でも言えばいい。それが迷惑をかけられた恨み言でも、こんな愚かなヒトを蔑む言葉でも。
「なにか、言ってください」
やっとのことでそう告げた自分の声は、ディランよりも震えていた。
これ以上は何も喋れない、喋ってはいけないと己の状態を察する。むしろ、いま言葉を発したことこそ間違いだった。
情けないほど弱々しい声音に、泣きそうなのは自分のほうなのだと自覚してしまった途端。
——言って欲しい言葉がある、なんて。
頭の奥から突如花開いた願望。
すんでのところで飲み込んで、押し込めて、だけど無かったことにはできなくて。
湧き上がってしまった願いはみるまに、ずっとアダムが張っていた壁にヒビを入れた。
過去のことも、お互いの立場も、本当はそんなことひとつも考えたくない。胸の澱みを吐き出す先なんてなくたっていい。取引など関係なく、いまディランに求めているものがある。言って欲しい言葉がある。
たとえそれが哀れみからのものだとしても、絵空事のようなものだとしても構わない。
この手の優しさに、その記憶に、ずっと救われてきたのだから——
「……っ!」
まっすぐに彼の顔を見ようと視線を持ち上げた刹那、目に映ったそれにアダムの呼吸が止まる。
ディランの後ろ、カーテンの閉まりきっていない窓。
真っ暗なガラスに彼らが映っていた。
両腕のない女の子。包帯まみれの男の子。焼け爛れたように肌がぼろぼろの男の子。頭部が欠けた小さな小さな女の子。
【楽園】で共に生まれ育ち、共に外に逃がされ、先に死んでいったヒトの子たち。ぽっかり空いた真っ黒な虚の目から絶え間なく涙を落とし、じっとこちらを見ている。
それは今までにも何度も見てきた姿だった。
現実のものではないと、アダムはとうに理解している。脳裏に焼きついた凄惨な記憶と、最年長であったにもかかわらず彼らを助けられず生き残ってしまった自分の罪悪感が見せている幻影なのだと分かっている。
けれど今、このタイミングで彼らが顔を覗かせたことに心臓が凍りついた。
すぐ様子のおかしさに気付いたらしいディランが再び呼びかけてきたような気がするが、何も答えられない。唯一、彼に手を掴まれている感覚だけがアダムの意識をわずかに現実に繋ぎ止めていた。
忘れるな 忘れないで
無かったことにしないで
立ち止まるな やめようとしないで
——許すな
そんな声が、激しく何度も脳内に反響する。
どれも彼らが口にするなど有り得ない言葉たちだと、それも分かっていた。獣人たちが支配するこの世の仕組み、【楽園】の真実、その何もかもを彼らは知らない。素直に獣人たちに尽くすことしか知らないまま死んでしまった仲間たちが、こんなことを言うわけがない。
分かっているのに。
「アダム!」
焦った声に鋭く呼ばれたのと、膝に衝撃を感じたのは同時。
力が抜けて頽れた自分に気が付いたが、だからと言って何のリアクションも起こせなかった。遅れてやってきた鈍痛はローテーブルに脚をぶつけたせいだろう。机の上のものを落とさなかったかどうかだけ、どうしてか妙に冷えた頭の端で場違いに考えていた。
駆け寄ってくるディランの顔をぼんやりと眺め、それから窓のほうへ目を向ける。
彼らはまだ、そこにいる。消えてくれない。
楽になることなど許されないのだ。
「……分かっているよ」
奈落の底よりなお暗い虚の瞳たちを見つめ返し、呟いた。
ディランが不可解そうに顔を歪める。何でもないですと首を振って、肩を支えようとしてくる腕に身を預けた。これくらいなら、見逃してもらえるだろうか。
「アダム! どうかしたの⁈」
ディランが何か言おうとしたのか口を開いた瞬間、血相を変えたジェッタがリビングに駆け込んできた。
すっかり眠ったものだと思っていたが、今の騒ぎで目が覚めてしまったのだろう。今後のことを話したせいで不安にさせてしまい眠りが浅かったのかもしれないと、アダムは申し訳なさを覚える。
「……大丈夫。躓いただけだよ、ジェッタ」
「でもすごい音したよ⁈ 怪我してない⁈」
泣きそうなジェッタをなんとか宥めようと声をかけ頭を撫でてやるが、まったく効果はないようだ。
素早くディランのほうを振り返り、「ねえディラン先生、アダムどうかしたの⁈」と責めているかのような勢いで食ってかかるジェッタ。
今のはアダムが自分自身の制御を失ったせいであって、ディランに非はない。ゆえに止めなくてはとジェッタに伸ばしかけた手は、しかしディランに首を振られて止まった。
「驚いたよね、ごめんねジェッタ。アダムが躓いたのは本当。そのとき少し……テーブルに脚を打ち付けていたから、打撲くらいはしているかも。これからちゃんと診るから、安心して」
「……、……う……ん」
ゆっくりと言葉を紡ぐディラン。その穏やかな声が浸透していったのか、沸騰しかけていたジェッタが刹那息を呑み——ゆっくりと吐き出す。
自分を納得させるかのように何度か頷き、やがていつものようにアダムにぴったりと寄り添った。
以前指を切った時もそうだった、とアダムは思い出す。いつも自分のことになるとジェッタを混乱させてしまい、落ち着かせてやることができない。保護者のような立場でいるつもりだったが、それらしいことなど何もしてやれていないのだと改めて思い知る。
窓に立ち尽くしたままの連なる影と、夢で見たディランの泣き顔を思う。
——何もできていない。何もしてあげられていない。誰にも。ずっと。ずっと昔から。それなのに、自分の望みだけ叶えたいなど。
のっぺりとした仲間たちの影は、もう何も言わない。ただそこにいて、ずっとこちらを見つめているだけ。
分かっているからと再び心の中で返事をしても、時が止まったように彼らは微動だにしなかった。
【四章 了】
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