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第二夜 日出台の怪人たち
第二夜 日出台の怪人たち③
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翌日、目覚ましアラームの音で飛び起きた。
快適な目覚めではなかったが、きちんと風呂に入って汗を流し、歯磨きして布団をかぶって目覚まし時計をかけて寝たくらい、きちんと規則正しく就寝できていた。いくら下戸卒業したとは言え、九度の酒を飲んだら酔っていた。しかし、以前のような気持ち悪さはない。スッキリとした目覚めに感動しつつ、やはりあの催眠術は本物だったのだと再認識する。
黙々と着替えていると、玄関のチャイムが鳴った。新しい冷蔵庫がやってきた。
そう言えば、エアコンは備え付けだったので佐原さんのエアコンは使わずにいられそうだ。心底ホッとする。あとは、道端でばったり出くわさなければいいことを祈るのみ。
「──よし、行くか」
俺はジージャンを羽織って意気込んだ。
いよいよ髪を切りに行く。俺は吉田くんの名刺を出し、財布とスマホを持って部屋を出た。
快晴。どこからともなく風が吹き、首をすくめて静かな道をてくてく歩く。昨日、酒盛りをした日出台公園は午前十時の時点で、幼い子どもや若い母親や父親がいた。とても、昨夜に成人男と女が酒を飲んで笑い合っていたとは思えないほど夜の面影がない。不思議な気持ちになってくる。
その横を何食わぬ顔で通り過ぎ、まっすぐ道なりに進んだ。
美容室オーガストは駅近ながら、入り組んだ日陰の場所にあった。名刺と同じくミントグリーンの爽やかな屋根と、白い板壁。ドアにかかった看板に「August」と書いてあり、入り口はすのこのような板が敷かれていた。外には白いベンチもある。夏っぽい。海の家みたいなお店だ。
これが美容室……若干の入りづらさがある。女性向けなのだろうと思う。でも、男性スタッフもいるし、吉田くんのあの言い方じゃ、女性だけの店というわけでもない。はずだ。
おそるおそるドアを開ける。カランコロンとベルが鳴り、思わず手が引っ込む。が、顔をそっと覗かせて入る。
「いらっしゃいませー」
声をかけてくれたのは、吉田くんだった。淡いグレーと黒のグラデーションがかった髪色を見ると、それだけですんなりと安心してしまい、俺はすぐに中へ入ってぎこちなく笑った。
「どうも。約束通り、来ました」
「ども。予約入った時、すぐに喜多屋さんだと分かって待ってましたよ。どうぞー」
吉田くんは長い前髪の向こうにある目元を嬉しそうに曲げた。そして「上着、預かりますねー」と言い、丁重にもてなしてくれる。
美容室、すごい。
そうしていちいち感動しながらもうつむき加減に、吉田くんの案内で鏡の前に座らされる。店全体はこじんまりとしているが、数人の客がいて、鏡の前で散髪をしてもらったり、カラーが馴染むのを待っていたり、シャンプーをしてもらったりしている。女性美容師率が圧倒的で、男性スタッフは吉田くんの他にもうひとりしかいない。
「少々お待ち下さい」
そう言って、彼は先輩らしき女性美容師に報せる。こうして、入れ替わり立ち替わりで華やかな女性美容師が笑顔たっぷりにやってきた。
「こんにちは。吉田から伺っておりますー。初めてのご来店ですね」
茶色で花柄のワンピースを着た彼女は、ベビーフェイスの若い女性だった。笑顔がかわいい。かわいいので、とても緊張してしまう。
この店が特殊なのか、他もそうなのか知らないが、まず最初に髪の状態や悩みなどを記入するアンケート用紙が渡された。曰く、カルテだという。今まで、適当にまとまればいいやと思っていたが、その考えを改めなければいけないと反省した。
それからまた、女性美容師が移動式の椅子を持ってきて、横で熱心に俺の髪の毛を診る。要望をうまく伝えられず、とりあえず渡されたカタログから無難なスタイルを選んだ。普段は営業をかける側なもので、受け身になるとしどろもどろになってしまった。
「お仕事先では髪を染めたらダメ、とかあります~?」
「いや、ダメではないけど……派手にしなければ問題ないですよ」
「そうなんですね~。んじゃあ、思い切ってカラー入れちゃってもかっこよく仕上がると思いますよ~。ナチュラルなお色みも合いそうですし、アッシュブラウンも落ち着いたカラーだから派手にならずにおしゃれできますよ~」
そう言われると、その気になってしまいそうだから困る。この美容師、手強い。
「あー、なるほど……んー、でも今日はカットだけで……」
「分かりました。またいらした時に、気が向いたら試してみてくださいね」
強く勧めるでもなく、こちらに罪悪感がない。次回、本当に考えてみようかな……。
「それじゃあ、まずはシャンプーしましょっか。すみません、シャンプー台にご案内しますねー」
首元にタオルを巻かれたまま移動する。店の奥にあるシャンプー台へ通された。
そう言えば、ここに座るのは初めてだ。子供の頃に、一回だけ母親に連れられて美容室で髪を切ったが、漫画を読むのに夢中で全然覚えていない。この椅子の感じといい、洗面台といい、なんだか歯医者を思わせる。
シャンプー台には吉田くんが待っていた。
「よろしくお願いします」
そう言ったのは彼のほうだった。俺が言うべきセリフだろう、とつい噴き出す。
「よろしくお願いします……えっと、強めにしてもらっても構わないので」
「はい……じゃ、しつれーしまーす」
そんなに固く緊張するんじゃない。椅子に座らされ、寝かされ、顔にガーゼみたいなのを敷かれると、様子が一切分からない。
さらに吉田くんは、まったく喋らなかった。そのせいで、見えずとも彼が緊張しているのが伝わってくる。
なんだろう。他人にシャンプーを預けるというのはなんというか……ものすごく怖い。吉田くんが何も言わないから、余計に怖い。これは確かに短気な客に怒られるのも分かる気がする。頭皮に指が当たり、ヒヤッとした。
それからしばらく泡立てるような音がする。んー……思ったより弱くない。話に聞いていたのは「泡を撫でているだけ」ということだったが、結構しっかり頭皮を掴んでくる。
しばらく、わしゃわしゃと軽快な音がしていた。しかし、吉田くんは無言である。こういう時、「かゆいとこないですかー?」と訊いてくるものじゃないかとふと疑問に思う。事前に後輩の市田くんに美容室のことを聞いていたのでなおさら不審だった。
「……吉田くん」
「はい!」
上ずった声とともに、吉田くんの手が止まる。それだけで話しかけて申し訳ないと思ってしまい、俺は声を落とした。
「いや、あの……なんでもないです」
「え、なんですか? めっちゃ気になります。あ、かゆいとこないですか?」
「あー、えーっと、大丈夫です……」
話しかけたくせに、なぜか怯んでしまった。まぁ、かゆいところはないし、全然問題ないんだけど。なんと言うか、気まずい。
そして、シャンプー時間が意外と長い。そんなに熱心に洗ってくれなくてもいいのに。と思いつつも今まで感じたことのない頭皮マッサージにちょっとだけ心地よくなる。でも、それが是か非かは判断できなかった。そして、吉田くんは終始無言だった。
すすぎも丁寧で、シャワーの温度も快適。念入りにゆっくりと洗い流していく。ゴロゴロと水が流れる音を聴いているうちに、ようやく緊張のシャンプー時間が終了した。
「それでは、カットに入りますね。お疲れさまでした!」
晴れやかに言う吉田くん。難局を切り抜けた安堵からか、ここ一番の笑顔だ。
それから、俺はあの女性美容師にあれこれと手ほどきを受ける。
あ、そうか。吉田くんは新人だから、カットの担当じゃないのか。あのシャンプーの時間を利用して、引っ越しの話とかこの町のこととか話すべきだったなぁと気づいたのは、それからしばらくしてからだった。
吉田くんは忙しく、シャンプーがない時間帯は先輩美容師の指示を受けながら、ドライヤーで髪を乾かしたり、カラーを混ぜたり、床を掃除したり。話しかける隙きはない。
そして俺の担当美容師は、最初はいろいろと話しかけてくれた。お住まいはどちらですか? お仕事は何されてますか? 今日はお休みですか? などなど。そのあとは、俺の話し方が下手なおかげで、向こうがあれこれと自分の話をしてくれる。それに笑いながら相槌を打つ作業に徹する。時折、真剣な顔で髪の毛を切っている姿を見て、やっぱりかわいいなと思ってしまったりと気持ちが緩む。
そんな感じで自然と緊張感もなくなってきたかと思われた。その時だった。
入店のベルが鳴り、すかさず「いらっしゃいませー」と落ち着いた吉田くんの声が背後で聴こえる。
「こんちはー。よう、新人、今日も張り切ってるな」
威勢のいい闊達な女性の声が聴こえる。俺は鏡を経由して彼女の姿を見た。
「あっ」
その姿を見て、思わず青ざめる。すぐに目をそらした。
「え、どうしました?」
女性美容師がびっくりした声を上げ、手を止めた。
「いや……なんでもないです。すいません」
「何かあったら遠慮なく言ってくださいねー」
そう優しく言ってくれるも、俺は口ごもっていた。言えるはずがない。だって、入店してきたのがあのアシカ屋という珍妙なエアコン怪人、佐原沙織だったのだから。
吉田くんの案内で椅子に座る彼女はふんぞり返って雑誌を手に取った。
「今日は前髪カットね。やっぱり、短くぱっつんにしたいんだよねぇ。あ、新人、今日はシャンプーはいいから。次来たときは上達しとけよー」
「はい、がんばります」
吉田くんは健気に返事した。その様子から、妙に冴え渡った俺の脳が瞬時に察する。彼の悩みの種は、この女だったのだと──
シャキンとハサミが鳴る。その音を最後に、俺の散髪は終了した。
「うん、いい感じです。どうですか?」
女性美容師が鏡を持ってくる。
伸び切っていた髪の毛は、どうやら不揃いだったらしい。それが綺麗に整い、襟にかかり気味だった襟足もすっきりしている。冴えないセンター分けの前髪も眉上で右へ流し、分け目も変わって新鮮だ。確かに、いい感じ。
「なんだか、明るくなったような……いいですね。かっこいいかも、です」
照れくさいので曖昧に言うも彼女は得意満面に笑った。実際、このヘアスタイルは気に入った。それに、これだけ髪型が変われば、奥で雑誌を呼んでいるアシカ屋にはバレるまい。そう企んで、忍び足でレジへ向かう。
しかし、会計時に吉田くんから「喜多屋さん、お疲れさまです!」と声をかけられてしまい、あえなくバレてしまうのだった。
快適な目覚めではなかったが、きちんと風呂に入って汗を流し、歯磨きして布団をかぶって目覚まし時計をかけて寝たくらい、きちんと規則正しく就寝できていた。いくら下戸卒業したとは言え、九度の酒を飲んだら酔っていた。しかし、以前のような気持ち悪さはない。スッキリとした目覚めに感動しつつ、やはりあの催眠術は本物だったのだと再認識する。
黙々と着替えていると、玄関のチャイムが鳴った。新しい冷蔵庫がやってきた。
そう言えば、エアコンは備え付けだったので佐原さんのエアコンは使わずにいられそうだ。心底ホッとする。あとは、道端でばったり出くわさなければいいことを祈るのみ。
「──よし、行くか」
俺はジージャンを羽織って意気込んだ。
いよいよ髪を切りに行く。俺は吉田くんの名刺を出し、財布とスマホを持って部屋を出た。
快晴。どこからともなく風が吹き、首をすくめて静かな道をてくてく歩く。昨日、酒盛りをした日出台公園は午前十時の時点で、幼い子どもや若い母親や父親がいた。とても、昨夜に成人男と女が酒を飲んで笑い合っていたとは思えないほど夜の面影がない。不思議な気持ちになってくる。
その横を何食わぬ顔で通り過ぎ、まっすぐ道なりに進んだ。
美容室オーガストは駅近ながら、入り組んだ日陰の場所にあった。名刺と同じくミントグリーンの爽やかな屋根と、白い板壁。ドアにかかった看板に「August」と書いてあり、入り口はすのこのような板が敷かれていた。外には白いベンチもある。夏っぽい。海の家みたいなお店だ。
これが美容室……若干の入りづらさがある。女性向けなのだろうと思う。でも、男性スタッフもいるし、吉田くんのあの言い方じゃ、女性だけの店というわけでもない。はずだ。
おそるおそるドアを開ける。カランコロンとベルが鳴り、思わず手が引っ込む。が、顔をそっと覗かせて入る。
「いらっしゃいませー」
声をかけてくれたのは、吉田くんだった。淡いグレーと黒のグラデーションがかった髪色を見ると、それだけですんなりと安心してしまい、俺はすぐに中へ入ってぎこちなく笑った。
「どうも。約束通り、来ました」
「ども。予約入った時、すぐに喜多屋さんだと分かって待ってましたよ。どうぞー」
吉田くんは長い前髪の向こうにある目元を嬉しそうに曲げた。そして「上着、預かりますねー」と言い、丁重にもてなしてくれる。
美容室、すごい。
そうしていちいち感動しながらもうつむき加減に、吉田くんの案内で鏡の前に座らされる。店全体はこじんまりとしているが、数人の客がいて、鏡の前で散髪をしてもらったり、カラーが馴染むのを待っていたり、シャンプーをしてもらったりしている。女性美容師率が圧倒的で、男性スタッフは吉田くんの他にもうひとりしかいない。
「少々お待ち下さい」
そう言って、彼は先輩らしき女性美容師に報せる。こうして、入れ替わり立ち替わりで華やかな女性美容師が笑顔たっぷりにやってきた。
「こんにちは。吉田から伺っておりますー。初めてのご来店ですね」
茶色で花柄のワンピースを着た彼女は、ベビーフェイスの若い女性だった。笑顔がかわいい。かわいいので、とても緊張してしまう。
この店が特殊なのか、他もそうなのか知らないが、まず最初に髪の状態や悩みなどを記入するアンケート用紙が渡された。曰く、カルテだという。今まで、適当にまとまればいいやと思っていたが、その考えを改めなければいけないと反省した。
それからまた、女性美容師が移動式の椅子を持ってきて、横で熱心に俺の髪の毛を診る。要望をうまく伝えられず、とりあえず渡されたカタログから無難なスタイルを選んだ。普段は営業をかける側なもので、受け身になるとしどろもどろになってしまった。
「お仕事先では髪を染めたらダメ、とかあります~?」
「いや、ダメではないけど……派手にしなければ問題ないですよ」
「そうなんですね~。んじゃあ、思い切ってカラー入れちゃってもかっこよく仕上がると思いますよ~。ナチュラルなお色みも合いそうですし、アッシュブラウンも落ち着いたカラーだから派手にならずにおしゃれできますよ~」
そう言われると、その気になってしまいそうだから困る。この美容師、手強い。
「あー、なるほど……んー、でも今日はカットだけで……」
「分かりました。またいらした時に、気が向いたら試してみてくださいね」
強く勧めるでもなく、こちらに罪悪感がない。次回、本当に考えてみようかな……。
「それじゃあ、まずはシャンプーしましょっか。すみません、シャンプー台にご案内しますねー」
首元にタオルを巻かれたまま移動する。店の奥にあるシャンプー台へ通された。
そう言えば、ここに座るのは初めてだ。子供の頃に、一回だけ母親に連れられて美容室で髪を切ったが、漫画を読むのに夢中で全然覚えていない。この椅子の感じといい、洗面台といい、なんだか歯医者を思わせる。
シャンプー台には吉田くんが待っていた。
「よろしくお願いします」
そう言ったのは彼のほうだった。俺が言うべきセリフだろう、とつい噴き出す。
「よろしくお願いします……えっと、強めにしてもらっても構わないので」
「はい……じゃ、しつれーしまーす」
そんなに固く緊張するんじゃない。椅子に座らされ、寝かされ、顔にガーゼみたいなのを敷かれると、様子が一切分からない。
さらに吉田くんは、まったく喋らなかった。そのせいで、見えずとも彼が緊張しているのが伝わってくる。
なんだろう。他人にシャンプーを預けるというのはなんというか……ものすごく怖い。吉田くんが何も言わないから、余計に怖い。これは確かに短気な客に怒られるのも分かる気がする。頭皮に指が当たり、ヒヤッとした。
それからしばらく泡立てるような音がする。んー……思ったより弱くない。話に聞いていたのは「泡を撫でているだけ」ということだったが、結構しっかり頭皮を掴んでくる。
しばらく、わしゃわしゃと軽快な音がしていた。しかし、吉田くんは無言である。こういう時、「かゆいとこないですかー?」と訊いてくるものじゃないかとふと疑問に思う。事前に後輩の市田くんに美容室のことを聞いていたのでなおさら不審だった。
「……吉田くん」
「はい!」
上ずった声とともに、吉田くんの手が止まる。それだけで話しかけて申し訳ないと思ってしまい、俺は声を落とした。
「いや、あの……なんでもないです」
「え、なんですか? めっちゃ気になります。あ、かゆいとこないですか?」
「あー、えーっと、大丈夫です……」
話しかけたくせに、なぜか怯んでしまった。まぁ、かゆいところはないし、全然問題ないんだけど。なんと言うか、気まずい。
そして、シャンプー時間が意外と長い。そんなに熱心に洗ってくれなくてもいいのに。と思いつつも今まで感じたことのない頭皮マッサージにちょっとだけ心地よくなる。でも、それが是か非かは判断できなかった。そして、吉田くんは終始無言だった。
すすぎも丁寧で、シャワーの温度も快適。念入りにゆっくりと洗い流していく。ゴロゴロと水が流れる音を聴いているうちに、ようやく緊張のシャンプー時間が終了した。
「それでは、カットに入りますね。お疲れさまでした!」
晴れやかに言う吉田くん。難局を切り抜けた安堵からか、ここ一番の笑顔だ。
それから、俺はあの女性美容師にあれこれと手ほどきを受ける。
あ、そうか。吉田くんは新人だから、カットの担当じゃないのか。あのシャンプーの時間を利用して、引っ越しの話とかこの町のこととか話すべきだったなぁと気づいたのは、それからしばらくしてからだった。
吉田くんは忙しく、シャンプーがない時間帯は先輩美容師の指示を受けながら、ドライヤーで髪を乾かしたり、カラーを混ぜたり、床を掃除したり。話しかける隙きはない。
そして俺の担当美容師は、最初はいろいろと話しかけてくれた。お住まいはどちらですか? お仕事は何されてますか? 今日はお休みですか? などなど。そのあとは、俺の話し方が下手なおかげで、向こうがあれこれと自分の話をしてくれる。それに笑いながら相槌を打つ作業に徹する。時折、真剣な顔で髪の毛を切っている姿を見て、やっぱりかわいいなと思ってしまったりと気持ちが緩む。
そんな感じで自然と緊張感もなくなってきたかと思われた。その時だった。
入店のベルが鳴り、すかさず「いらっしゃいませー」と落ち着いた吉田くんの声が背後で聴こえる。
「こんちはー。よう、新人、今日も張り切ってるな」
威勢のいい闊達な女性の声が聴こえる。俺は鏡を経由して彼女の姿を見た。
「あっ」
その姿を見て、思わず青ざめる。すぐに目をそらした。
「え、どうしました?」
女性美容師がびっくりした声を上げ、手を止めた。
「いや……なんでもないです。すいません」
「何かあったら遠慮なく言ってくださいねー」
そう優しく言ってくれるも、俺は口ごもっていた。言えるはずがない。だって、入店してきたのがあのアシカ屋という珍妙なエアコン怪人、佐原沙織だったのだから。
吉田くんの案内で椅子に座る彼女はふんぞり返って雑誌を手に取った。
「今日は前髪カットね。やっぱり、短くぱっつんにしたいんだよねぇ。あ、新人、今日はシャンプーはいいから。次来たときは上達しとけよー」
「はい、がんばります」
吉田くんは健気に返事した。その様子から、妙に冴え渡った俺の脳が瞬時に察する。彼の悩みの種は、この女だったのだと──
シャキンとハサミが鳴る。その音を最後に、俺の散髪は終了した。
「うん、いい感じです。どうですか?」
女性美容師が鏡を持ってくる。
伸び切っていた髪の毛は、どうやら不揃いだったらしい。それが綺麗に整い、襟にかかり気味だった襟足もすっきりしている。冴えないセンター分けの前髪も眉上で右へ流し、分け目も変わって新鮮だ。確かに、いい感じ。
「なんだか、明るくなったような……いいですね。かっこいいかも、です」
照れくさいので曖昧に言うも彼女は得意満面に笑った。実際、このヘアスタイルは気に入った。それに、これだけ髪型が変われば、奥で雑誌を呼んでいるアシカ屋にはバレるまい。そう企んで、忍び足でレジへ向かう。
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