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十九. 双葉
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黒く巨大な、岩のような形。たゆたう影。
熱く生臭い息づかいを、双葉は全身で感じた。
龍神。
頭上に見えるのは、神などではない。
生身のこの躯を喰らい尽くす、恐ろしい獣。
双葉は、龍神の本当の姿に今気付いた。
龍神はこの時が訪れるのを待ちわびていたかのように、滑り光る眼で双葉を見下ろしていた。
これが、神の正体。
双葉から全てを奪い尽くすモノの姿。
双葉は、急に恐ろしくなった。初めて、龍神に恐怖を覚えた。それが生き物としての本能であるかのように、酷く慄《おのの》いていた。
これが、双葉が姫巫女として全てを捧げてきたモノの姿。
双葉の眼から、再び涙が溢れていた。それは恐怖の為なのか、心の苦しみの所為なのかは判らない。
双葉には、只泣く事しかできなかった。
逃げる事も、もうできない。
後は只、残されたほんの僅かな時に、心を殺して祈るだけ。
双葉をじっと見下ろす、ふたつの巨大な眼球。その眼には、はっきりと狂喜が宿っていた。
全てを犠牲にし仕えてきた龍神は、今その姿を只の獰猛で途方もなく巨大な獣へと変えていた。その鋭い爪と牙は、最早柔らかな五体を切り裂く凶器でしかない。
第三の眼を持ち生まれ出でたその日から、姫巫女として生きる定めを与えられた。
そして今、こうしてその末路と対峙している。
双葉は、両の眼を閉じた。そして額の眼だけを、しかと見開く。
姫巫女の眼で、龍神を見上げる。
猛然と構え、黒く滑る体躯。
双葉は静かに、覚悟を決めた。
己に託された、只ひとつの務め。
姫巫女として生きた、少女の最後の役目。
「私は、この身を龍神様に捧げます」
双葉は今、姫巫女として全てを受け入れると決めた。
それが、姫巫女として生まれた娘の定め。
最初からそうだったのだ。あの少年と出会う前からの、決め事。それは、揺るぐ事のない定め。
少女の凛とした祈りが、冷たい岩場に響いた。
真っ赤に開いた龍神の口角から、生暖かい唾液が滴り落ちる。額に開いた眼は、恐れる事なく真っ直ぐに龍神を見据えていた。
遠くで、聲が聞こえた気がした。
双葉を呼ぶ、聲。
幻聴だと思った。少女は、祈り続けた。
もう一度、聲が聞こえた気がした。
「双葉ぁぁぁっ‼」
双葉は、はっとして両の眼を見開いた。
そして、息を呑む。
「双葉ぁぁぁっ‼」
聲が、出せなかった。
牙星の聲だった。
遠く聞こえてくるのは、間違いなく牙星の聲だった。
双葉は祈る事も忘れ、立ち尽くした。
姫巫女であろうと決めた。そう決めた筈だった。
それなのに。
双葉の眼からは涙が溢れていた。
◆
巫殿の暗い通路を駆け抜け辿り着いた岩場で、牙星は双葉の姿を捉えた。
真っ白な装束に、長い黒髪の後ろ姿。その正面には、岩のように巨大な黒い影。
「双葉ぁぁぁっ‼」
牙星は、喉が擦り切れる程に少女の名を叫んだ。
◆
只の一人の娘としての、最後の願い。
初めて、恋する事を覚えた。
もう一度、もう一度だけ、会いたい。
けれど、姫巫女として、龍神の元へ行くと決めた。
「戻ってこいっ! 双葉ぁぁぁっ‼」
双葉は、振り向いた。
遠く駆けてくる、力強い足音。細く長い影。
牙星だった。
牙星は、何度も何度も双葉の名を叫んだ。
双葉の眼から、幾筋もの涙が零れ落ちた。
只一人、恋しい人。
牙星が、呼んでいる。
もう一度、二人で逃げよう。
もう二度と、離れないように。
遠く、遠くへ逃げよう。
誰も追いつけない、遠い処へ。
二人で…………。
牙星と双葉、二人の距離が近付いていく。
牙星の腕が、真っ直ぐに伸びた。双葉は、戸惑う事なく手を差し伸べた。
ふたつの影が結び付く、刹那。
牙星の眼前から、双葉の容が消え去った。
鋭い風が、空を切る。
真っ赤なものが、頭上から雨のように降り注いだ。生暖かい、錆のような臭いの雨。
牙星は、只惚けたように佇んだ。
事態が呑み込めなかった。
硬いものが砕ける、鈍い音が響いた。再び、赤いものが降り注ぐ。
牙星は、見上げた。
真っ黒に伸びた、龍神の胴体。その裂けた口の端から滴り落ちる、赤黒い滴《しずく》。
牙星は、足元を見た。
赤く染まった岩場の上に、白いものがひとつ、転がっていた。
小さな、白い手。
手首から先だけの、小さな手。真っ赤な血がついていた。
理解するのに、時間がかかった。
双葉の手だった。
そう気付いた刹那、牙星は頭が真っ白になった。
これは、何だ……。どういう、事だ……?
揺らぎ伸ばされた、双葉の細い腕。ほんの寸分で掴める筈だった、愛しい手。
…………双葉…………‼
「……うっ……、うあ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ‼」
牙星は叫んだ。
双葉が、双葉が、双葉が、双葉が、双葉が、双葉がっっ‼
龍神の牙の間から、再びぐちゃりと鈍い音がした。
瞬間、混乱していた牙星の内側で、何が弾けた。ようやく、理解した。
双葉は、龍神に喰われた。
お前が、双葉を喰ったのか……?
お前が、双葉をっ…………!!
「うああああぁぁぁぁぁぁっ‼」
牙星は怒りと本能のままに叫び、剣を抜いた。まるで獣の咆哮のような聲を上げながら、龍神に飛びかかっていく。
童子とは思えない動き、人を超えた速さで地を駆け、高く飛ぶ。押さえようのない怒りの全てを、滑る巨体に突き立てた。
ザンッ
龍神の黒い鱗に被われた皮膚に、剣がくい込む。龍神が巨体をうねらせた。激しく乱舞するが如く、ぐるぐると螺旋に伸び上がっていく。牙星を振るい落とさんとばかりに、動き回る。
牙星は突き立てた剣の柄を力いっぱい握り締め、暴れまわる龍神の動きに耐え凌ぐ。
決して、剣を離すものか。この龍神を、打ち殺す。双葉を奪った、この化け物を。
突如、龍神が体を旋回させた。龍神の牙を剥いた頭が、尾の辺りにぶら下がった牙星に向く。ぎらり光る眼が、牙星を捉えていた。
瞬間、牙星の体を切り裂かんと、龍神の牙が襲いかかった。
「うああああぁぁぁぁぁっ‼」
牙星は剣を引き抜くと咆哮のような聲を上げ、向かってくる龍神の顔に飛びかかった。怒り、悲しみ、憎しみ。全てが怒涛のように牙星の中に溢れ返る。
けれど、その全ての思いの中心には、双葉が居た。双葉を奪ったモノへの怒り、双葉を失った悲しみ、双葉を喰らったモノへの憎しみ、それらの激しい感情が牙星を支配する。荒ぶる血流。その動きは、龍神をも凌駕した。
ウォォォォォォォン
轟く程の龍神の咆哮。
片眼を剣で深々と突かれ、龍神がうねりのた打つ。泥のような赤黒い血が、まるで涙の如く溢れ落ちた。
地が裂ける程の凄まじい咆哮が、再び谺した。鼓膜を揺るがす、雷鳴のような聲。
噴き上げるような地響き。
岩場の底から、龍神の巨体が天を突き刺す勢いで舞い上がった。
天変地異のような轟音。それは、千里彼方までも揺るがした。
鱗に覆われた黒い巨体が、閃光を放つ。
全てが、一瞬の光の白に包まれる。
ようやく岩場に辿り着いたタケルは、凄まじい轟音と震動に驚いて見上げた。
龍神の巨体が岩の天井を突き崩し、天へと伸び上がっていく。
崩れ落ちる岩の天井。龍神が消え去った後には、巨大な穴が残されていた。開いた穴から、発光しながら飛来していく龍神の姿が見えた。狂ったように舞い踊る光は、やがて宵の空の彼方、雲の中へと溶けていった。
そして岩場には、静寂が戻っていた。
牙星は、天を見上げて立ち尽くしていた。だらりと垂れ下がった手には、龍神の血がこびりついた剣が握られていた。ぽたりぽたりと、その血が地面に滴り落ちる。
タケルはその壮絶な有り様に、聲も出なかった。
牙星は、ゆっくりと地面に眼を落とした。
一面の、赤。血溜まり。それは、龍神のものなのか、双葉のものかは判らなかった。
生臭い臭《にお》い。
牙星は魂のない抜け殻のように、ぼんやりと残された有り様を見詰めていた。
虚ろに視線を彷徨わせる。
「……双葉……」
牙星の嗄れた喉から、少女の名が洩れた。
血溜まりの中に、手首から先だけの小さな手のひらが落ちていた。
少女が残したものは、それだけだった。後は、何もない。
「これが、双葉なのか……?」
牙星は、崩れ落ちるように膝をついた。まだ生暖かい血溜まりから、少女の手を拾い上げる。
互いの温もりを確かめ合って繋いだ、手と手。
それは、まだ昨日の出来事。
今ここにあるのは、あの時握った手のひらだけ。只、それだけ。
「こんなになっちまったら、双葉かどうかなんて判らないじゃないかっ‼」
牙星は両手を広げ、血溜まりの中をまさぐった。必死に、何かを探すように。双葉の容《かたち》を、双葉の証を取り戻そうとするように。
染み込んでいく血が、牙星の衣を紅に変えていた。
牙星は、双葉の容を夢中で探した。けれど、何も見つけられなかった。
牙星の両眼から、涙が溢れ出していた。
「うわぁっぁっぁぁっぁっぁっ……ぁぁぁっ‼」
泣き、嗚咽を洩らしながら、双葉を求め、その跡形を探し続けた。
只、一心不乱に。
その様は、すでに正気ではなかった。
タケルには、それを止める事すらできなかった。
立ち込める血と獣の臭い。タケルは、胃袋の中のものを吐き戻しそうになった。
「うああああああああああああああっ‼」
牙星は、獣のような聲で号泣した。
双葉の手を抱いたまま、何度も何度も叫び続けた。
慟哭は岩場に響き、跳ね返る。天井に空いた穴の向こうに、赤く染まった空が覗いていた。その赤よりもずっと深く重い紅に膝をつき、牙星は泣き続けた。怒りが燃え尽きた後には、悲しみしか残っていなかった。どれ程哭こうが、どれ程叫ぼうが、救われる事のない悲しみ。
それを癒してくれる双葉は、もう何処にも居ない。
掻き集めても、血溜まりの中から何も取り戻せなかった。
只ひとつ、小さな手のひら。只、それだけ。
笛の音が聞こえた。タケルが振り仰ぐ。
岩壁に立つ童子。
守人。
牙星と同じ姿形をした、双子の童子。
ずっと、そこに居たのか。
ここで起きた惨劇の一部始終を眼の当りにした後も、その顔はやはり能面のように感情がないままだった。
守人の笛の旋律は、悲愴の姫巫女への鎮魂曲のように全てが終わってしまった岩場に谺していた。
熱く生臭い息づかいを、双葉は全身で感じた。
龍神。
頭上に見えるのは、神などではない。
生身のこの躯を喰らい尽くす、恐ろしい獣。
双葉は、龍神の本当の姿に今気付いた。
龍神はこの時が訪れるのを待ちわびていたかのように、滑り光る眼で双葉を見下ろしていた。
これが、神の正体。
双葉から全てを奪い尽くすモノの姿。
双葉は、急に恐ろしくなった。初めて、龍神に恐怖を覚えた。それが生き物としての本能であるかのように、酷く慄《おのの》いていた。
これが、双葉が姫巫女として全てを捧げてきたモノの姿。
双葉の眼から、再び涙が溢れていた。それは恐怖の為なのか、心の苦しみの所為なのかは判らない。
双葉には、只泣く事しかできなかった。
逃げる事も、もうできない。
後は只、残されたほんの僅かな時に、心を殺して祈るだけ。
双葉をじっと見下ろす、ふたつの巨大な眼球。その眼には、はっきりと狂喜が宿っていた。
全てを犠牲にし仕えてきた龍神は、今その姿を只の獰猛で途方もなく巨大な獣へと変えていた。その鋭い爪と牙は、最早柔らかな五体を切り裂く凶器でしかない。
第三の眼を持ち生まれ出でたその日から、姫巫女として生きる定めを与えられた。
そして今、こうしてその末路と対峙している。
双葉は、両の眼を閉じた。そして額の眼だけを、しかと見開く。
姫巫女の眼で、龍神を見上げる。
猛然と構え、黒く滑る体躯。
双葉は静かに、覚悟を決めた。
己に託された、只ひとつの務め。
姫巫女として生きた、少女の最後の役目。
「私は、この身を龍神様に捧げます」
双葉は今、姫巫女として全てを受け入れると決めた。
それが、姫巫女として生まれた娘の定め。
最初からそうだったのだ。あの少年と出会う前からの、決め事。それは、揺るぐ事のない定め。
少女の凛とした祈りが、冷たい岩場に響いた。
真っ赤に開いた龍神の口角から、生暖かい唾液が滴り落ちる。額に開いた眼は、恐れる事なく真っ直ぐに龍神を見据えていた。
遠くで、聲が聞こえた気がした。
双葉を呼ぶ、聲。
幻聴だと思った。少女は、祈り続けた。
もう一度、聲が聞こえた気がした。
「双葉ぁぁぁっ‼」
双葉は、はっとして両の眼を見開いた。
そして、息を呑む。
「双葉ぁぁぁっ‼」
聲が、出せなかった。
牙星の聲だった。
遠く聞こえてくるのは、間違いなく牙星の聲だった。
双葉は祈る事も忘れ、立ち尽くした。
姫巫女であろうと決めた。そう決めた筈だった。
それなのに。
双葉の眼からは涙が溢れていた。
◆
巫殿の暗い通路を駆け抜け辿り着いた岩場で、牙星は双葉の姿を捉えた。
真っ白な装束に、長い黒髪の後ろ姿。その正面には、岩のように巨大な黒い影。
「双葉ぁぁぁっ‼」
牙星は、喉が擦り切れる程に少女の名を叫んだ。
◆
只の一人の娘としての、最後の願い。
初めて、恋する事を覚えた。
もう一度、もう一度だけ、会いたい。
けれど、姫巫女として、龍神の元へ行くと決めた。
「戻ってこいっ! 双葉ぁぁぁっ‼」
双葉は、振り向いた。
遠く駆けてくる、力強い足音。細く長い影。
牙星だった。
牙星は、何度も何度も双葉の名を叫んだ。
双葉の眼から、幾筋もの涙が零れ落ちた。
只一人、恋しい人。
牙星が、呼んでいる。
もう一度、二人で逃げよう。
もう二度と、離れないように。
遠く、遠くへ逃げよう。
誰も追いつけない、遠い処へ。
二人で…………。
牙星と双葉、二人の距離が近付いていく。
牙星の腕が、真っ直ぐに伸びた。双葉は、戸惑う事なく手を差し伸べた。
ふたつの影が結び付く、刹那。
牙星の眼前から、双葉の容が消え去った。
鋭い風が、空を切る。
真っ赤なものが、頭上から雨のように降り注いだ。生暖かい、錆のような臭いの雨。
牙星は、只惚けたように佇んだ。
事態が呑み込めなかった。
硬いものが砕ける、鈍い音が響いた。再び、赤いものが降り注ぐ。
牙星は、見上げた。
真っ黒に伸びた、龍神の胴体。その裂けた口の端から滴り落ちる、赤黒い滴《しずく》。
牙星は、足元を見た。
赤く染まった岩場の上に、白いものがひとつ、転がっていた。
小さな、白い手。
手首から先だけの、小さな手。真っ赤な血がついていた。
理解するのに、時間がかかった。
双葉の手だった。
そう気付いた刹那、牙星は頭が真っ白になった。
これは、何だ……。どういう、事だ……?
揺らぎ伸ばされた、双葉の細い腕。ほんの寸分で掴める筈だった、愛しい手。
…………双葉…………‼
「……うっ……、うあ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ‼」
牙星は叫んだ。
双葉が、双葉が、双葉が、双葉が、双葉が、双葉がっっ‼
龍神の牙の間から、再びぐちゃりと鈍い音がした。
瞬間、混乱していた牙星の内側で、何が弾けた。ようやく、理解した。
双葉は、龍神に喰われた。
お前が、双葉を喰ったのか……?
お前が、双葉をっ…………!!
「うああああぁぁぁぁぁぁっ‼」
牙星は怒りと本能のままに叫び、剣を抜いた。まるで獣の咆哮のような聲を上げながら、龍神に飛びかかっていく。
童子とは思えない動き、人を超えた速さで地を駆け、高く飛ぶ。押さえようのない怒りの全てを、滑る巨体に突き立てた。
ザンッ
龍神の黒い鱗に被われた皮膚に、剣がくい込む。龍神が巨体をうねらせた。激しく乱舞するが如く、ぐるぐると螺旋に伸び上がっていく。牙星を振るい落とさんとばかりに、動き回る。
牙星は突き立てた剣の柄を力いっぱい握り締め、暴れまわる龍神の動きに耐え凌ぐ。
決して、剣を離すものか。この龍神を、打ち殺す。双葉を奪った、この化け物を。
突如、龍神が体を旋回させた。龍神の牙を剥いた頭が、尾の辺りにぶら下がった牙星に向く。ぎらり光る眼が、牙星を捉えていた。
瞬間、牙星の体を切り裂かんと、龍神の牙が襲いかかった。
「うああああぁぁぁぁぁっ‼」
牙星は剣を引き抜くと咆哮のような聲を上げ、向かってくる龍神の顔に飛びかかった。怒り、悲しみ、憎しみ。全てが怒涛のように牙星の中に溢れ返る。
けれど、その全ての思いの中心には、双葉が居た。双葉を奪ったモノへの怒り、双葉を失った悲しみ、双葉を喰らったモノへの憎しみ、それらの激しい感情が牙星を支配する。荒ぶる血流。その動きは、龍神をも凌駕した。
ウォォォォォォォン
轟く程の龍神の咆哮。
片眼を剣で深々と突かれ、龍神がうねりのた打つ。泥のような赤黒い血が、まるで涙の如く溢れ落ちた。
地が裂ける程の凄まじい咆哮が、再び谺した。鼓膜を揺るがす、雷鳴のような聲。
噴き上げるような地響き。
岩場の底から、龍神の巨体が天を突き刺す勢いで舞い上がった。
天変地異のような轟音。それは、千里彼方までも揺るがした。
鱗に覆われた黒い巨体が、閃光を放つ。
全てが、一瞬の光の白に包まれる。
ようやく岩場に辿り着いたタケルは、凄まじい轟音と震動に驚いて見上げた。
龍神の巨体が岩の天井を突き崩し、天へと伸び上がっていく。
崩れ落ちる岩の天井。龍神が消え去った後には、巨大な穴が残されていた。開いた穴から、発光しながら飛来していく龍神の姿が見えた。狂ったように舞い踊る光は、やがて宵の空の彼方、雲の中へと溶けていった。
そして岩場には、静寂が戻っていた。
牙星は、天を見上げて立ち尽くしていた。だらりと垂れ下がった手には、龍神の血がこびりついた剣が握られていた。ぽたりぽたりと、その血が地面に滴り落ちる。
タケルはその壮絶な有り様に、聲も出なかった。
牙星は、ゆっくりと地面に眼を落とした。
一面の、赤。血溜まり。それは、龍神のものなのか、双葉のものかは判らなかった。
生臭い臭《にお》い。
牙星は魂のない抜け殻のように、ぼんやりと残された有り様を見詰めていた。
虚ろに視線を彷徨わせる。
「……双葉……」
牙星の嗄れた喉から、少女の名が洩れた。
血溜まりの中に、手首から先だけの小さな手のひらが落ちていた。
少女が残したものは、それだけだった。後は、何もない。
「これが、双葉なのか……?」
牙星は、崩れ落ちるように膝をついた。まだ生暖かい血溜まりから、少女の手を拾い上げる。
互いの温もりを確かめ合って繋いだ、手と手。
それは、まだ昨日の出来事。
今ここにあるのは、あの時握った手のひらだけ。只、それだけ。
「こんなになっちまったら、双葉かどうかなんて判らないじゃないかっ‼」
牙星は両手を広げ、血溜まりの中をまさぐった。必死に、何かを探すように。双葉の容《かたち》を、双葉の証を取り戻そうとするように。
染み込んでいく血が、牙星の衣を紅に変えていた。
牙星は、双葉の容を夢中で探した。けれど、何も見つけられなかった。
牙星の両眼から、涙が溢れ出していた。
「うわぁっぁっぁぁっぁっぁっ……ぁぁぁっ‼」
泣き、嗚咽を洩らしながら、双葉を求め、その跡形を探し続けた。
只、一心不乱に。
その様は、すでに正気ではなかった。
タケルには、それを止める事すらできなかった。
立ち込める血と獣の臭い。タケルは、胃袋の中のものを吐き戻しそうになった。
「うああああああああああああああっ‼」
牙星は、獣のような聲で号泣した。
双葉の手を抱いたまま、何度も何度も叫び続けた。
慟哭は岩場に響き、跳ね返る。天井に空いた穴の向こうに、赤く染まった空が覗いていた。その赤よりもずっと深く重い紅に膝をつき、牙星は泣き続けた。怒りが燃え尽きた後には、悲しみしか残っていなかった。どれ程哭こうが、どれ程叫ぼうが、救われる事のない悲しみ。
それを癒してくれる双葉は、もう何処にも居ない。
掻き集めても、血溜まりの中から何も取り戻せなかった。
只ひとつ、小さな手のひら。只、それだけ。
笛の音が聞こえた。タケルが振り仰ぐ。
岩壁に立つ童子。
守人。
牙星と同じ姿形をした、双子の童子。
ずっと、そこに居たのか。
ここで起きた惨劇の一部始終を眼の当りにした後も、その顔はやはり能面のように感情がないままだった。
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