ミコ―龍の子の祭り―

遠堂瑠璃

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二十八. 龍の子の祭り

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 人々は、天を振り仰いだ。
 そして、ある者は震え慄いた。龍神の怒りだと祈り、泣き叫んだ。
 そしてある者は、嘆きに涙を流した。まだ若い龍の御子の、悲しみに打ちひしがれる聲を聞き、お可哀想にと共に泣いた。

 そして一人の母は、時が満ちた事を知り、泣き伏した。

「……タケルが、呼んでいる……」
 そう呟き、紅の眼の片割れは神殿を後にした。風を手に入れ、獣の速さで。
 そしてもう一人の片割れは、稲妻に導かれるが如く天に近い頂へと駆け出した。

 稲光と共に重く黒い雨雲が空一面を覆い、天が轟いた。
 そして、尋常ではない、雨、風。渦巻き、荒れ狂う大気。
 人々はその時が訪れた事を悟り、逃れようのない運命に深くこうべを垂れ、手を合わせた。

          ◆
 
 タケルは幾度となく雄叫びながら、峠を駆け登った。
 龍の尾のような髪が、荒れた風に煽られ乱舞する。まるで手負いの獣のように、全身を振り乱し、タケルは走り続けた。

 幾年もの歳月、食物はおろか水すら口にしていない筈なのに、タケルの全身には力という力がみなぎっていた。もうずいぶん走り続けているのに、呼吸すら乱れていない。

 タケルはいつの間にか、荒れ狂う天の頂へと辿り着いていた。
 黒い雲を渦巻きながら、天は唸っていた。タケルの動揺と悲しみをそのまま映し出しているかの如く、叩きつける雨。

 タケルは頂に立ち、何度も何度も叫んだ。喉の奥が、血で染まる程に。
 溢れる涙は、雨に洗い流された。
 
 途方もない、絶望。
 今の自分は、もう、人ではない。人である筈がない。
 タケルの中に流れる、もう半分の血が目覚めていた。
 龍の血。
 タケルは紛れもなく、龍の御子だった。


 天を貫く稲妻。


 瞬間、タケルの心臓が激しく波打った。
 はっとして、眼を見張る。

 叩きつける雨に霞む視界の向こうに、人の姿が見えた。
 息を呑み、眼を凝らす。

 美しい、一人の男。
 この気配。
 タケルは、茫然と立ち尽くした。
 忘れる事などできない、この強い生命力。過ぎていった時がその姿を変えさせようと、タケルには判った。
 タケルが誰よりも、何よりも欲していた存在。
 
 牙星きばぼしだった。
              
       ◆

 何なのだ、この者は。
 雨の向こう側に立つ、異形の童子。
 人のなりはしていた。けれど、とても人とは思えなかった。その全身から発せられる気配は、到底人のものではない。
 雨に濡れて張りついた、異常な長さの頭髪。童子の両のまなこは、琥珀の光を帯び牙星を見詰めている。そして童子の全身からみなぎり溢れる、魂の気配。

 この気配は、タケル。
 いや、まさか。
 牙星が、眼を疑う。この異形の者がタケルであるのならば、何故童子のままなのだ。袂を別ったあの日から、すでに数年の歳月が経過している。
 牙星と同じ歳のタケルが、童子の筈がない。牙星と同じく、成人の姿の筈。

 童子のままのタケル。
 
 だが、牙星は本能的に気づいていた。
 あの日のままなどではない。

 タケルはもう、人などではない。
 この気配。タケルの中に流れる、もう半分の血。龍神の血。

 そこに居るのは、龍の御子みこタケルだった。

 タケルは人の子から、龍の御子へと姿を変えたのだ。
 それに気づいた瞬間、牙星の全身を巡る血が煮えたぎった。

 眼前に立つは、憎き龍の血を引く者。いとおしき者を奪った、龍神の血を継ぎし者。
 只一人本気で愛した双葉を、牙星から奪い去った、龍神。
 
 そして。
 牙星は気づいた。
 
 龍の血を継ぐ者。
 この者こそが、牙星から全てを奪う存在なのだと。
 牙星が王として司る筈のこの世界を。牙星が伐つべき者は、守ノ皇帝もりのこうていなどではない。
 眼の前に居るのは、真に忌むべき存在。
 龍の御子。
 
 この者はもう、タケルなどではない。
 躊躇う必要など、ない。

 牙星は素早い動きで、腰の鞘から剣を抜いた。瞬間光った稲妻が、鋭い刃先に反射する。容赦ない雨が、タケルと牙星の全身に叩きつける。

「……儂から、双葉を奪った龍神……お前は、その血族」
 
 タケルは剣を構えた牙星を、只惚けたように見詰めていた。

「そして儂から、全てを奪おうとする者」 

 刹那、牙星の剣がタケルを掠める。タケルはそれを、只本能で交わしていた。タケルの頭髪が、雨に散る。

 タケルは息を呑んだ。

 紙一重だった。以前の自分ならば、確実に急所を突かれていただろう。
 牙星の殺気を帯びた眼差しが、タケルを射抜く。牙星は、本気でタケルに剣を向けていた。

 止む事を知らぬ、濁流のような雨。
 全てが、悪い夢のように。
 牙星が、再び剣を振り下ろす。タケルの髪が、散り流される。

「……牙星……」
 タケルは、酷く久し振りに言葉を発した。

「黙れっ!」
 言葉と共に、牙星の剣が襲う。
「……やめろ、牙星……!」

 言葉など無駄だった。牙星の攻撃は、只激しさを増すばかりだった。雨を纏い、その剣は一心不乱にタケルを追い詰める。
 殺気は雨に流れ出し、一帯を染め上げる。血飛沫が、煙るように雨に散る。タケルは腕に、焼けつくような痛みを感じた。一文字に裂けた傷口に、雨が差し込む。

 閃光が荒れ狂う天を駆ける。
 頂で合間見える二人の姿は、雨に乱舞する二体の龍のように美しく崇高な光を纏った。稲光を映し、二人の眼は琥珀と紅の光を宿した。

 タケルは、酷く苦しかった。牙星の剣は、只ひたすらタケルを追い続けた。タケルの命を絶つ事しか、今の牙星の頭にはない。
 龍の御子となった、タケルを絶つ。もう只の人の子ではない、タケルを。

 そう、もうタケルは人ではない。人ではないモノとなってまで、生き続けてどうするのだろう。これから先、人ではないモノとして生きていくのか。
 タケルの内を、ゆらりそんな思いが過る。

 剣を突き出す牙星。

 これは一体、何なのだろう。

 牙星は、只一心不乱にタケルを追い、剣を振り続けた。両の眼に憎悪だけを宿し、タケルを捉えて放さない。
 
 牙星は今、本気でタケルを憎んでいた。
 
 タケルには、牙星が本気で自分を憎むわけが判らなかった。 
 タケルが、龍神の御子だから?
 タケルは只、牙星に生きて欲しいだけだった。
 
 龍神となったタケルがこの世界を手中にするのだと、龍貴妃りゅうきひは云った。
 そんなものは要らない。欲しいとも思わない。
 自分が消えれば、定めの輪は変わるのだろうか。
 牙星は、もう一度あの頃のように、無邪気に笑ってくれるのだろうか。

 二人で登った大木の頂上で楽しそうに笑っていた、牙星の姿を思い出した。
 不意に、タケルの気が緩んだ。
 激しい雨の飛沫を受け、牙星の姿が幻影のように揺らぐ。
 刹那の稲光に、全てが白く溶け去る。
 

 鈍い音がした。肉と骨を突く、嫌な音。

 不思議と、痛みはない。
 タケルの上に、何が崩れ落ちた。その重みでタケルの体は、ぬかるむ土の上に倒れた。

 タケルは驚いて、目蓋を開いた。
 ぐっしょりと雨に濡れた、鮮やかな衣。タケルの上に横たわる、細身の体躯。すっかり血の気の引いた、美しい面差し。

「……守人……」

 タケルは、愕然と眼を剥いた。
 何故、いつの間にここへ現れたのか。
 ぐったりと横たわった守人の胸には、牙星の剣が深く突き刺さっていた。雨の染み込んだ衣に、真っ赤な鮮血が広がっていく。

「……どうして」
 ほんの一時の間に、何が起きたのか。タケルが守人の体を起こした、その時だった。

「……ぐはっ……!」

 苦しげな呻きが聞こえた。タケルが、驚いて振り向く。口から多量の鮮血を吐き出し、崩れ落ちる牙星の姿が見えた。

「……何故、儂が……」

 言葉と同時に、再び鮮血が溢れた。零れ落ちた血を、すぐに雨が洗い流していく。牙星の心臓が、激しく波打っていた。牙星は手のひらで心臓を掻きむしるように押さえ、悶えながら土の上に倒れ込んだ。
 牙星は低く咳込むと、再び鮮血を吐き出した。

「牙星っ!」

 起き上がったタケルは、牙星の傍に駆け寄った。

 牙星は倒れたまま、苦しげな血眼をすでに事切れた守人に向けた。同じ時に生まれ落ちた、双子の弟。

 何故、今まで気がつかなかったのだろう。双子の片割れの発する、この気配は。
 牙星は、己の迂闊さを悔いた。


「……そうか、今、判った……」
 口元に幾筋もの紅を溢しながら、牙星が云った。


「お前が、儂と命を共にする、龍神なのだな……」


 もうすで、守人が言葉を洩らす事はない。
 牙星は、憎々しげに呪うように、天空を見上げた。いつの間にか、あれ程激しかった雨は止んでいた。まだ重苦しい雲が、流れ動いていく。
 牙星の視界が、白い霧に覆われていく。朦朧と、息苦しい。
 
 牙星は、ゆっくりと目蓋を降ろした。

 こえが、聞こえた気がした。
 懐かしい、あの愛しい聲。

 ああ、聲が……。
 双葉の聲が聞こえる……。

 ゆっくりと目蓋を上げると、そこに双葉の姿があった。
 双葉は、只微笑んでいた。
 あの穏やかで優しい眼で、牙星を見詰めていた。


 これは、死の間際の、夢幻なのだろうか……。
 
 しかし、それでも構いはしない。

 ああ双葉、今再び、儂の傍に居てくれるのか……。
 今再び、その懐かしい眼で、儂を見てくれるのか……。
 儂はなあ、双葉。
 お前が最後に見せた、あの涙がずっと気になっていたんだ。
 お前が悲しいまま、たった一人で黄泉の国へ行ってしまったのではないかと、ずっとずっと気になっていた……。まだ童女のお前が、黄泉の国でも泣き続けているのではないかと……。

 良かった……。
 お前が再び、笑ってくれて……。
 
 ……双葉、今度こそ誠に、お前を……儂の妃に……。



 牙星は、虚ろに目蓋を開いた。そこから覗いた紅の眼は、焦点すら定まらぬまま、天を彷徨《さまよ》った。


「……儂は、ここより高い国を司る……、この世界は、お前に譲ろう……」
 
 

 不思議と穏やかな聲で、牙星は云った。雲間から、微かな陽が射していく。

 そのまま、牙星の紅の眼を再び見る事は、もうなかった。流れた血が、まるで鮮やかに咲く花のように、その屍を飾っていた。
 
 牙星は、泣いていた。

 すでに魂の抜け殻である筈の牙星の眼から、細い涙の筋だけが静かに流れていた。



「……牙……星」

 タケルは惚けた顔のまま、横たわった男の名を呼んだ。すでに返る言葉が、ある筈もない。
 白い目蓋は動く事なく、それを縁取る長い睫毛の先には、光の粒が宿っていた。
 タケルは、もう一度牙星の名を呼んだ。
 もう一度、呼ぶ。
 もう一度。


「牙星ぃぃぃっ!!」 

 最後の呼び聲は、泣き聲に変わっていた。


 牙星は、死んだ。
 傲慢で高飛車だった少年は、もう笑う事すらない。その足で、野を駆ける事もない。
 
 眠りに落ちたような、牙星の顔。穏やかに、微笑んでいるように。
 タケルは、無邪気に笑う牙星の姿しか、思い出す事ができなかった。

 ここより、高い国。
 牙星は、これから何処へ向かっていくのだろう。婆様とは、恐らく別の処。残されたタケルには、知る術もない。
 タケルは只一人、泣き続けた。


「兄……上……」

 聲に、タケルは振り向いた。
 守人が、生きている。守人は胸に剣が突き刺さったまま、ゆらりと立ち尽くしている。
 
 タケルは、己の眼を疑った。
 
 守人の頬に伝う、一筋の涙。
 泣いていた。
 感情を一切見せる事のなかった守人が、今タケルの目の前で泣いていた。
 その顔に、やはり表情はなかった。面のような顔の上を、涙だけが零れていた。タケルは、只黙ってそれを見ていた。


「……私は、兄上の分身である筈の、龍の化身……」
 
 やがて口を開いた守人の体は、幾つもの白い粒子に包まれていた。

「私は、天の大気の中から生まれた。龍は皆、そうして生まれる」

 守人の聲は、その全身を包む粒子に溶けるように、大気に響いた。

「そうして生まれたばかりの私は、母の胎内に抱かれ眠る赤子の姿を見た。私は、母の温もりなど知らない。そこに眠る兄上の姿は、この上なく安らぎ、心地良さそうだった。そして私は、いつしかその中に身を委ねていた」

 牙星と命を共にする筈の龍神。その龍神は、牙星を身籠った龍貴妃の胎内に自ら宿った。赤子の牙星と共に胎内に宿り、十月十日の後人の赤子として産み落とされた。牙星と共に生まれた人の形をした龍神を、神殿の者たちは双子の皇子だと思ったのだ。

「母の胎内というのは、おかしなものだな。あの水の中で揺られ眠るうちに、生き物は輪廻転生の記憶を置き忘れるのだろうな」

 抑揚のない聲。
 人の形をした、龍神。
 感情を一切伴わない守人の聲の中に、タケルは止めどない悲しみと虚しさを知った。守人と同じ龍の子であるタケルは、その内に潜むものを苦しい程に感じ取っていた。

「私は、タケルが羨ましい。龍の子でありながら、母を知る、お前が……」
 
 言葉が終わる刹那、守人の姿は白い龍となった。ゆらりと、天に舞い昇る。
 
 まだ若い龍神は、美しい白い肢体から燐光を発しながら、森羅万象という母の元へ還っていく。雲の隙間から空が覗き、光が射した。
 陽の光を受け、彼方の空に白い龍神は一筋の光となった。

 雷鳴のような低い咆哮が、天の遥まで谺した。

  
 タケルは頂の上に、只一人残された。
 濡れた草の上に、笛が転がっていた。守人が片時も手放す事のなかった、白い笛。
 龍でありながら、牙も爪も持たなかった守人。この白い笛が、そのふたつの代わりだったのかもしれない。
 龍の姿へ還り、牙も爪も手に入れた守人には、もう必要のないもの。

 タケルは、静かに笛を拾い上げた。
 冷たく、獣の牙のように硬い笛。タケルはそれを、そっと口元に近づけた。

 笛の音が響く。 
 それを奏でるタケルの顔には、一切の感情すら見られない。薄く開かれた目蓋の下に、琥珀の眼が揺れていた。
 長い髪が風に吹かれ、タケルの痩躯《そうく》を包み込む。光を纏い、鬣(たてがみ)のように輝きながら。
 残された幼い龍神は、只一人笛を奏でた。
 苦しみ、痛み、悲しみ、全ての感情を内に眠らせて。
 タケルはすでに、幾つもの大切なものを失っていた。

 笛の音は谺した。
 久遠の旋律。龍の子守唄。人の子でもあった己を眠らせる為の、子守唄。

 ミコよ、今は只、おやすみ。
 何も心病まずとも、良いように。

 再び目覚める時まで、今はおやすみ。

 タケルの笛の音と重なり、遠くお囃子の音が聞こえた。
 村や里、都では、龍のミコを迎える為の祭りの仕度を始めていた。

 
                      ❬終劇❭ 
 
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