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少女
しおりを挟むそこは病院だった。
記憶の奥底にある情景。
山未宗助は、かつて自分の母親が入院していた病院にいた。
様座な人々が行きかう待合室で、宗助は一人立ち尽くしていた。
窓から差し込む陽の光が、白い床と壁をやさしく照らす。
目の前では、車いすの女性が子供らしき少年に押されていた。
その様をすぐ横で、看護婦が穏やかな表情で見つめている。
車いすに座っている女性は、ケラケラと笑っていた。
そのまま三人は『山未』と書かれた表札の部屋に入っていった。
ベッドに腰を下ろした女性は、車いすを押していた少年の頭をそっとなでて、ありがとう、と優しい声で言った。
それを宗助は一人、部屋の開け放たれた扉の外から、じっと見つめていた。
これは過去の情景の焼き直しだ。
かつて自分が体験した日々だ。
今は遠き日々だ。
手を伸ばそうとして、それを止める。
それは無意味な行為で、もはやどうしようもなく悲しくなってしまったからだ。
ふん、と鼻で笑うと、その光景がガラスのように割れて砕けて散って、目の前には昨日見た真っ白な世界が広がっていた。
その中に一つ、人型の靄のようなものがいた。
靄はすっと立ったまま動かず、表情のない顔をただこちらに向けているだけだった。
「――真理」
宗助はその靄に向かってそう言うと、靄は反応するようにブブっと振動した。
「――なぜ、ワタシだと……?」
靄が言う。しかし、その声は真理のように甲高くはなかった。
合成音声のようなノイズ混じりの声だった。
「半分は勘だよ」
「半分は」
「――お前は僕を殺さなかった」
靄がまた震える。
「僕を殺すように言われておきながら、お前は僕を殺さず、パソコンを奪って逃げた。それが故意か、事故かは分からない。けれど、僕がここに来れば、どちらにせよお前は反応してやって来るだろうと思っていた」
「なるほど」
その声は平たんなものだった。
だが宗助には、それがどうにか冷静でいようと必死になっているように見えた。
「さっき、母さんから手紙が届いた。僕が一五歳になったら読ませるよう、周りの人に頼んでいたみたいだ」
宗助の言葉に、しかし真理は応えない。ただ、宗助の次の言葉を待つだけだった。
「読んだよ。大体全部書いてた。――やっぱり父さんだった。でも、だから。だからお前は僕に近づいてきたんだろう? 転入生として、一緒に事件を解決するパートナーとして、そういう立ち位置に納まるようにして、僕に近づいてきた」
思えば最初から不自然だったのだ。
どうしてコイツは自分に話しかけて来たのか。
自分ばかりに絡んできたのか。
「――そうだね」
靄が言った。
その声に力は無かった。何かを諦めたような声だった。
そして、靄は問うた。
「どうしたいんだい?」
「僕は決着をつけなければならない、父さんと母さんが始めたことに」
「キミじゃなくても、決着をつけられる人間は居ると思うけど?」
「だろうね。でも僕は、僕が決着をつけたいと思っているんだ」
敵は大きな組織だ。あるいは、どこか別の組織がその行いに気づいて、何らかの策を講じているかもしれない。例えば、国家の特殊部隊なりが解決するかもしれない。
自分からは遠く、離れたところで、静かに話は終わるかもしれない。
あぁ、でも、けれど。
それでもなお、決着は己の手で付けたいと思っている。
いや、決着をつけるのは自分自身でなければならないと、そう思えて仕方がないのだ。
「だから、力を貸してほしい」
その言葉は思いのほか自然と口から滑り出ていた。
靄をじっと見つめる。それは動かない。それは動けなかった。
少し経ってから。靄は震えた。
「――どうして、ワタシを呼んだんだ……? ワタシは、キミを殺そうとしたんだぞ」
「でも殺せなかった。――だから呼んだ」
じぃっと靄を見つめる。
それはだんだんと薄れ始めていた。
宗助は思う。
あの夜、自分を殺せなかった真理。
今、目の前にいる黒い靄。
自己犠牲も当たり前な、人間のそれとは掛け離れた考えを持つ真理たちの種族。
人としての考えをトレースした真理。
それら全てを踏まえて思う。
出来損ないだと彼女は言っていた。
けれど、それは嘘で。
彼女自身も気づいていないけれど、彼女は――。
「あと、やっぱりもう一度、お前に会いたかった」
靄がぴたりと止まった。
まるで、制御できないデータをむりやり読み込もうとしている風だった。
二人とも動かなくなって、ただ時だけが流れて、
「――人魚姫」
靄がぽつりとつぶやいた。
「今なら、あの話も分かる気がする」
そしてそれきり、靄はまた黙ってしまう。
二人は見つめあったままで、どちらも口を開こうとはしなかった、
やがて靄がまた、何かを諦めたように吹き出した。
すっと靄が晴れる。
そこに真理がいた。
クスクスと人を小ばかにしたように笑う彼女がいた。
「そういえば、お前、あの本持ってっただろ」
「何回読んでも理解出来なかったのが癪でね。でもまぁ、今しがた理解出来たところだし、もう返すよ」
「どうも」
「あぁでも、起きるなら早くした方が良い。実は寝てるキミの顔に落書きしようとしてる所なんだ、今」
◆◆◆
夢の世界から覚醒して、宗助が目を覚ますと、目の前には『目』があった。
別に驚きはしなかったが、まさか本当とは思わなかった。
「頼むから水性にして」
宗助がそう言うと、その目の主はすっと後ろに下がった。
マーカーを手にした真理が、ベッドで眠る宗助にのしかかるような形で座っていた。
時刻は夕方で、カーテンで閉じた薄暗い室内で、彼女の表情を詳しくはうかがい知れないが、
「ごめん、もう書いちゃった」
とクスクスと笑いながら返す真理の声を聴いて、宗助はいつもの無邪気な彼女の笑顔を思い浮かべていた。
◆◆◆
夕日が沈んで、もうすぐ夜になろうとしている時に、風許雅は夕飯と明日の見舞いの土産を提げて、家路についていた。
宗助の家で届いた母のメールには、それらを買って帰ってくるように書かれていた。どうやら母は、明日の準備今日一日動けないらしい。
スーパーで買い物をしてから、一人、誰もいない住宅街を歩いていた。
そういえば――と。
以前、学校で流行っていた『夢女』の噂はどこに消えたのだろうか。
あの妙な夢は、今はもうすっかり見なくなっていたし、別に噂で聞くような恐ろしい妖怪に出会ってもいない。
結局あれは、ただの噂話だったのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、
「ねぇ」
と不意に届いた声に驚いて、雅はぎょっとして立ち止まった。
そこにいたのは、自分の学校の制服を着た少女だった。
その少女が、じっと雅を見つめていた。
――どこかで彼女を見た気がする。
そんなことを思い浮かべながら、雅はどうにかその少女に返事をする。
「な、なに……?」
不意に声をかけられたときの動揺が抜けていないのか、少女に問いかける声は震えていた。
「ンフフフ」
少女がわざとらしく口を押えて笑う。
それから、すぅっと、雅を見上げて
「後ろ」
とつぶやく。
ハッとして背後に視線を送る。
雅がかろうじて捉えたのは、黒く長い腕だった。
頭に強い衝撃を感じて、雅は意識を手放した。
遠ざかる意識の中、少女の笑い声が雅の意識の中に染み込んでいった。
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