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第十一章
第十一章
しおりを挟む機会や奇遇と云うものほど怖ろしいものはない。わたしは、とうとうやられてしまった。
お京という女と博多での一件は殊のほか心中を波立たせ、悔恨の情は胸の奥底で爪を立てた。暫し斯様な気分になりたくはないと都会から離れ、福岡の外れである糸島で蟄居しようと意を決していたのに。
然しながら筑前前原、かつて伊都國と呼ばれた一帯は昔から艶事に困らぬという皮肉。用心をして近づかずにいた夜毎の賑わいに、ひと度足を踏み入れてしまうと、わたしは堰を切ったように妖しく輝いた燈火が並ぶ路地へと通い出した。
今宵も凄まじいほど派手な扮装とも云うべき姿の女たちは、悶々と夜を徘徊する男たちを悩殺しようとしている。勿論それらに混じって、うかうかしていると飛んでも無い馬鹿な事をしそうなわたしの姿もあった。
当然至極、夜の女が全て上玉な訳ではない。然るに何故男たちは魅入られるのか。もちろん酒の酔いというものが手伝ってはいるものの、云うに云われぬ魔力を使うのである。一寸ばかり何の気なしに話をする、散歩をする、手を握る、身体を摺り寄せる、凭せ掛ける……やがて知らぬ間に淫蕩の泉の中へと引き込まれ、溺れてしまうのだ。
翌日の朝を迎えて、ぼんやり家に帰ってから初めて馬鹿な事をしたと気がつく。気づきながら悔悟や忿怒の念は起こらず、其の馬鹿な事をもう一度……どれ位に馬鹿なのかと繰り返してみたくなるのだから、男とは困った生き物だ。故に、遊び慣れていない御仁などはひとたまりも無い。
自己を制する事ができず、三日と空けずに夜の陋巷に出かけると、一ト月もすれば半年の生活費を失ってしまうなどという話は少なくない。わたしなんぞ若い頃は遊ぶ金がなくて、亡くなった祖母から「いつか嫁にする女性に」と形見分けの如く貰った金剛石の指輪さえも質に入れ流したことがある。その様に手にした金も、好いたらしい女と三日三晩も宿まり込んで蕩けていれば、綺麗さっぱりと消えたものである。
しかし、この馬鹿げた行為を近頃では御婦人も嗜まれている。蓋し女性は色恋になると遊びで終わらせられぬもので、その結末が無残な場合が大抵である。
兎も角、この地に来た限りは一切電飾燈の色が揺らぐ場には行かぬ、夜の女には手を出さぬと遠ざかって詩人肌に気取り幽愁の山水に酔う積りが、斯くして黄昏の光から巷間の燈へと取り違え浸るわたしだった。
機会は奇遇を呼ぶ。其の夜は淋しい様な、又懐かしい様な心持であった。
何時しか馴れぬ土地であったのが、何か前世の約束でもあったように馴染む自分に気づく。うつろう時節は秋も深まり、霜月も間もなく終わる頃。わたしは手革包をするかしまいかと考えたが、結句卓に置いたまま晩酌をする為にと駅前の路地へと向かう時、いよいよその心地は明らかであった。
停車場のある広場の木の間では、駅夫が何やら声を上げているのを眺めつつ、すっかり常連の仲間となった居酒屋の暖簾を分け入る。当初は余所者に警戒心を露にしていた店主も、今では愛想よく迎えてくれ、顔見知りになった客たちとも古くからの友人のように振舞える。
こうした様子は、この辺りが曰くある土地柄だと知り、先ずもって自分も同様に社会から不当な扱いを受けている身であると明け透けに伝えることで、存外に早く現れた。
席に着くと燗酒を二合徳利で頼み、他愛の無い言葉を誰彼となく交わし、目の前に並べられた肴の幾つかを注文する。
折々女たちが彷徨う外に人通りの絶えた往来からは、微かに淋しく澄んだ喇叭の音が泣くように響いて消えた。その反響の消え行く傍から、小路を流れ流れて伝わり来るギタアの調べがあった。同じ楽器でも喇叭とでは音色が違う。その音は香しい、又懶い情から湧き出る響きを持つ。
わたしはありありと頬を薔薇色に染め、黄金色の頭髪が可憐に巻かれた女の薄い肌衣の下で大きく動悸を打つ豊かに柔らかく、又燃えるほど熱くなった乳房の様をおもい浮かべた。
「いやあ、よか女子やったねぇ」
「そぎゃんよかったと?」
「そやねぇ。都会から来よる女子は違うっちゃん」
店に入って来た男の色事を愉しんで来た声を聞き、わたしは甘い夢に誘われるかの如く席を立つと、勘定を済ませて外へと出た。
人住む家の窓と云う窓は、欄干のあるのも無いのも扉のついたのも付かないのも悉く暗く音なく閉ざされてしまった夜更け。小路から小路へと辿って行く中で、いつしかギタアの調はふっと途絶えていた。
其の時突き当たりの唯ある二階の出窓に、ぼんやり灯の点いてるのをわたしは認めた。ああ、あの窓、燈火の光が薄赤く染める窓掛の花模様を透かして見せる風情よ。手燭にも似た光に照らされた窓ほど眩く豊に、不思議に奥床しきものはない。
日の光で見るものは何によらず、硝子戸越しの彼方のものより風情は浅い。暗くとも明くとも窓と云う穴の中には生命が潜む、夢見ている悩んでいる…と、ボードレールも詠んでいるではないか。
わたしはあの窓の中を覗きたい、窓の中に這入りたい、どんな危険も厭うことはなく、そんな好奇心と妄想に駆られた。すると其の窓が開いて、出窓の欄干に能くは胸も引き合さぬ薔薇色の寝衣を着た女が現れたではないか。
わたしは実に恥じ後悔した。あの女は夜も眠らず恋人が来るのを待っていたやも知れぬのである。純真な恋心を邪な淫情で汚したような気分になってしまった。斯様なわたしに相応しいのは飾り窓に立つ女であろうと、佇む場所から立ち去ることにした。
世には全くの不思議というものが在る。わたしは若かりし頃、日本では言うに及ばず巴里でも、倫敦でも、伯林でも、或いは外の欧州各地でも、予定調和な日常から逸脱するを怖れる人々の空想ですら及ばぬ経験を数多経験してきたが、其の夜の出来事は正にその様な経験に数えてよいものであろう。
何処にでも更渡る夜に見ず知らずの誰かを待つ女は居る。恋人よりも猶お甘い楽しみを与えながら、妻のように重い責任を負わしめない女。
わたしが入った店は古い家屋から湿気た壁の匂いが湧き出る薄暗き中で、女の暖かな息と化粧の匂いが嗅ぎ分けられた。柔らかく馨しい手がよろめくほど強くわたしを内へと引き入れた。顔はよく見えない。然し女は極めて薄い、帽子につける面紗のような薄い衣を纏っていたばかりで、わたしは席までの一歩一歩で手に触れる女の身には薄衣
の外につけているものがないのかと怪しんだほどである。
少しばかりの階段を上がると女は扉を押して室の中にわたしを案内するや否や、身を支える力さえないとばかりに据えた長椅子に倒れるように凭れて、真白な片腕を床の方へとぶら下げた。
椅子やテーヴルに飾られた室内は稍広いけれども燈火は各々たった一つ、赤い花笠をつけたランプがあるばかり。しかもその光は席の間の引幕に包まれているので、薄暗い此方の長椅子から離れた違う席の様は半ば透かして見える
程であった。
ほんの僅か室内を眺めている中に女は長椅子であられもない姿になっている。どうしてこんなに掻乱したかと驚くばかり。有ろうと無かろうと差は無い程度に隠す肌着や胸当て、靴下などは寝台代わりの椅子の上に重なり蟠り、横たわり引掛かりして休息していた。
釦留めの踵が高い靴の片々は倒さになって踏み潰された魚の様な態であった。リボンの飾りをつけた靴下留めも
床の方々に飛び離れて、薔薇の花のように落ちていた。斯様に寝乱れた姿に、男というものは無限味わいを見出すものだ。
汚れの無い処女よりも人妻や妾、情婦、もしくはそれ以上の経歴がある女の方が妄想を膨らます。不義汚行などという名で噂された女たちをわたしは容易に記憶から消去らぬばかりか、其の面影は折々に罌粟の花のように濃く毒々しく魅了するのだ。
道端で腰を振って歩く売春婦それ自身は、殆どが人を誘惑する力が有るのではない。経歴が証明する予想と、何か強い力で吾々男を引張る磁石力の様なものが形から生ずるのである。
わたしが磁力に引き寄せられ女を両の腕で抱きすくめた時、ふと目をやった先に情事を終えた客としな垂れかかる女の歩く様子を見て驚かざるを得なかった。その横顔は、紛れもなくお京だったのである。
続
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