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第十四章
第十四章
しおりを挟む霧に籠められた暗い横丁には幾組の男女が寒さに身を摺り寄せて急いで歩いている。通りに停まる車からは酔っている男が大声で唄うのもあった。真暗な路地口や電気燈の瞬きする路の角々には、三人四人と一塊になって立っている売笑婦たちが夜が更けるまま、寒さに身の凍えるにつけ、半分は泣き声で通り過ぎる男の袖をば引く。
霧と燈火の相戦う四辺の薄暗さに烟のような建物の影は、夢に見るものとしかおもわれない。深い過去の追懐は、運ばれる歩調の速度に従うが如く、猶も引き続いてその後の生涯を描くかの様である。
お京と博多で別れた当座は実に寂しいものがあった。ひとおもいに大阪までもどろうか、寧そお京を呼び寄せようかとおもって便りを綴ってみもした。しかし、不明な経歴の淫売女を遠くから呼び寄せ、強いて日陰の暮らしをするほどでもあるまいと、知らず知らず気持ちは鈍る。
現実に見て破綻を生ずる憂いのあるよりも、寧ろこころの中で長く変わらず、お京の純粋な恋とも慕情とも呼べるものを味わっている方がよいと理屈を付けた。
お京と別れた後、次第々々に胸の中を占める寂寞に馴れた。時に却って寂寞を愛する様にさえなった。そして、お京との事は最早堪え難い烈しい追想ではなくて、遠い、快い、夢のようなものになっていた。そして古に伊都と呼ばれる地で無為徒食に他愛なく時間を過ごし、燻る様な日々を送っていた。そこに突然おもいも縁らぬ再会は、湿った暗い森を抜けて、陽の照る花園を見たより更に烈しいものであった。何か解釈の出来ぬ不思議とおもった。
女一人買うでもない日々から、何か埋め合わせをしたい気がして、然程遊びたくもない晩でも遊びに出掛けた事が偶然の歯車を噛み合わせたのである。
腹が空いてた為か前夜を更かしたにも関わらず朝早く眼が覚めた。
寝台には女の姿は無かったが、わたしの身体の至る所にはお京の痕跡がしっとりと残っている気がした。
わたしは生叭をしながら衣服を身に着け部屋を退出すると、近くのカフェーへと出かけた。
「待ってたのよ」
お京は大勢の人が居るにも拘わらず抱き付いて接吻をした。先に注文していた珈琲が運ばれてる来ると平素のように献立書から、わたしの好みそうなものを給仕人に頼んだ。
「お腹が空いてるでしょう?」
女は無暗に嬉しく、はしゃいで居る。そして何処かへ行かないかと誘った。わたしも久しく女と青空の下に出かけていないことを覚えて首を縦に振った。
「いいよ、どこにしようか」
「箱島の辺りまでどうかしら」
「わかった、そうしよう」
それならば是非とも着換えて行きたいという女の言葉に、長支度の間に車の手配をすることにした。
久しぶりに自分でハンドルを握るのと借用した車ということもあり、最初は少々戸惑いがあったが海沿いの国道を走る中に、すっかり余裕を持って景色を眺める事が出来た。
加布里を過ぎて急な曲路を行くと、陸続きの小さな石の島がある。嘗ては景勝地として有名であった箱島だったが、今では釣人がたまにやって来る位だという。
わたしたちは石積みの防波堤の突端に立ってみた。正面には筑紫富士と呼ばれる加也山が見える。まるで海の中に佇んでいるかのような錯覚を起こす人も多いらしい。昔は此の防波堤がなく、島には料亭まであったそうだ。
鳥居の左横には箱島神社の由来が記されていたので読むと、祭神の一つが塞坐三柱大神で過津神の侵入を防ぎ村を守って来た神様だとあった。次に西宮大明神で大漁や商売繁盛の神様。最後は愛染明王で恋愛を助け遊女を守る神で、信仰すると美貌になると信じられたという。
お京が松ノ木を遮る様に鎮座する岩に手を当てて、じっと瞳を閉じ動かないで居る。
「身体の中にね、何か気の様なものが入ってくる感じがするの」
お京に帰りの車中で尋ねると、くすりと微笑んで、そう答えた。
お京はどうかすると一時の酔興なのか恐ろしく所帯じみた真似をした。燈火を暗くし、衣服を脱ぎ、寝床に這入ると、其の寝床が二人の身体で温かになり、遂には蒸されて寝返りなどする時には肉を焼く竈の扉が開けられた様に、脂染みた熱い空気が夜具の間から鼻先へ漏れ来る。街の物音が次第に遠く幽かになり、隣の室の話声が妖しげに途絶え、灯を消した階段をば折々に疲れた人の跫音が来る……乃ち、女が男の眠りにつく前を覗って種々微細な事を云い聞かす時刻というやつだ。
お京はこの時刻を逃さずに、一緒に所帯を持ってみたいと語った。忠実に女房らしく働くし、食事も上手く賄ってみせると、色々に水入らずの生活の楽しさや艶かしさを喃々と続けた。
「ねぇ、あんたはどうも訳ありの様だから、働かなくたっていいのよ。わたしが面倒見てあげる」
「そうだなぁ」
「あなた、約束してくださいな。ね、ね、いいでしょう」
わたしは拒絶もせぬ代わり、進んで引き受ける風でもなく、唯々にやにやと笑っていた。
「わたしは前科持ちだからなぁ」
「そんなの、別に気にしやしないわ」
「いや、おまえが気にしなくても、気にしてる連中や面倒臭いのが付き纏って穏やかな暮らしを邪魔するだろうから」
「いいわよ。あんたと暮らせるなら、覚悟をするから」
一生懸命わたしの為にまめまめしく働き、覚悟を決めると言う女の様子を見れば、さすがに情も動く。
お京は続けて無邪気に夢の新婚生活ぶりを話した。ストーヴの前にある小机に白い布をかけ臨時の食卓を作ると、二人差し向かいで食事をする。時には晩酌でシャンパンもいい。いや旨くない葡萄酒でも十分に甘く感じるであろう。花瓶には一輪の花が飾られ、レエスで飾られた衣服に紅白粉をつけて装う自分の手を取り、わたしから食後には進んで散歩に誘う。斯様な物語は如何にも恋の落人が世を忍びつつ生活する様で、若い女の憧憬らしい。
だが、其れは余りに現実離れであって、わたしには癪に障るのを禁じえなかった。
続
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