伊都國綺譚

凛七星

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第十三章

第十三章

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 午後もやがて暮れ近くになると処々の学校から、帰途に着く元気の可い書生連や子らが通りを賑やかに往来していた。門並みに飯屋、呑み屋が立連なる裏通りでは窓や戸口からは、前垂れがけの娘や女房らしき女たちの商売の備えをする声や音が漏れ聞こえる。
 さて陽もすっかり落ち暮れ果てると、街の角々の燈火が点り、いずこより聴こえる音楽が色を添えて夜は活気を帯びて来る。歓楽を追う若人の腕にすがろうとする夕化粧を凝らした浮かれ女たちの姿が街の到る処で人目を惹く。裾短な洋服の着具合は商売に対する意気と愛嬌を見せている。
 お京と再会を果たしたわたしは、その夜も一軒の食堂で葡萄酒と木の実という取り合わせに始まって、燗酒と塩辛という晩餐に陶然となると、勘定を済ませ其の辺りを散歩しつつ、女の居る店へと足を向けた。途中、音楽が酣な唯あるカフェーに誘われるように這入ってみる。
 店内は色硝子で四方を囲し、天井は天女の絵模様が描かれた広い一室の中央辺りには伴奏に合わせて唄える一段と高い場所が設えており、白く透ける衣服を纏った女を抱え御満悦な年嵩の男が眼に入る。歩むだけの間を残して一面に据え並べたテエブルには、若い男女が茫然と酒に酔い、或いは夢中で骨牌を取り、或いは談話や議論に花を咲かせていた。
 煙草の紫煙で室内の燈火はやや黄色く見え、空気は重く暖かい。音楽の一節が済むと、人々の話し声が皿やグラスの音と一緒になって、海潮が激するように一段と室内で反響する。給仕人や出入りする客たちが目まぐるしく椅子の間を歩く。
 絶えず開閉される戸口からは粋な姿をした街の女が流行と覚しき姿で、入れ替わり中の様子を窺いに来る。突如馴染みと見える男のテエブルに坐るもあれば、女同士で長々と話しているのも在る。又は唯た一人離れた席に着いて壁に嵌め込んだ姿見を相手に頻と着物の具合を気にしているのも居た。
 わたしは人混みの中で空椅子を見つけて腰を下ろし、近くに居る人達の様子を眺め廻した。辺りは肩幅広く厳しい容貌を殊更強調するがごとき頬髯や顎鬚を生し、流行する不良な黒ん坊の服装を真似た若い男があれば、まるで婦女子のように綺麗な艶々した肌の優しい瞳をした者もある。かとおもえば無精髯ぼうぼうとして、如何にも芸術家を以って任ずるらしき姿もあれば、仕立てのよい背広姿の出で立ちで頻と憂き身をやつしているのもあった。
 時代が移ろうとも、場所が何処であろうとも斯様な光景が夜を彩り、人は心躍るものを求めて集うのであろう。



 突然、音楽に誘われ空想と戯れていたわたしは、傍らの空いた席に坐る若い女の気配で現実に引き戻されるのであった。
 其の方を見ると同時に女も誰に限らず座に着く時に少し四辺を見廻るものだから、互いに顔を見合わせてしまう。女は愛嬌の微笑と共に遠慮なく口を切った。

「あなたは、日本の方ですか?」

 唐突な問いに戸惑いながらよく視ると小造りな女だった。黒味を帯びた紫色のドレスには薔薇色のリボンが飾られている。黒い縞のあるオリイヴ色の上着を脱ぐと露になった首元から肩、腕にかけて細く優しい線を見せた。
 化粧が上手なので年齢は不可知であるが、かなり若いようである。渦巻く豊かで両の耳を蔽う栗色の髪と細面の抜けるように白い肌が良く似合うばかりか、近くで見ると皮膚の滑らかさは驚く程であった。とは云うものの、やや落ちこけたその頬と瞳の奥深くには、浮浪の生活から来るものであろう寂しさと苦労の影が映るのを隠せない。其の襟許の美しさ、其の肩の優しさ、玉の様に爪を磨かれた指先の細さ、それらに男は万事を忘れて其の方に惹き付けられるのは致し方ないところであろう。
 わたしは通り過ぎる給仕人を呼んで女の望む飲み物を命ずる。女はやや椅子をわたしの近くへと引き寄せた。

「長らく此方にいらっしゃるのですか?」
「いや、まだ三月位のもので。あなたはどうしてわたしを日本人じゃないと」

 女は俯き加減で微笑むだけである。

「お馴染みの方がいたと見えますね」
「ええ、一時は……」
「この辺には外国人は随分居るのかな?」
「ええ、近頃は夜の方ばかりじゃなく。それと昔ながらに暮らす…たぶん貴方と同じ立場の人も少なくありません」
「古くから大陸とは縁がある地だからなぁ。それに東京より釜山の方が近いし」
「そうですわね。大阪より近いでしょう」
「姉さんの一番御存知なお馴染みは?」

 わたしはまだ糸島の地も人も多くは知らなかったが、知っている名前が出るかと何心なく尋ねてみた訳である。

「今じゃ、どなたも知りません。時々お話位はしますけれど、お名前なんざぁ、ちっとも知りません」
「姉さんもこちらの訛りがないねぇ。東の方からのようだね」

 女の顔色が微かに変わる。それから笑って少時黙った後わたしに近寄ると瞳を閉じて唇を小さく動かした。

「ああ、よい香気だわ」
「姉さん、あなたの店は?」
「すぐ近く。今からいらっしゃる?」

 わたしは女の手を取ると席を立ち、先を案内するよう視線で促した。



 僅か一週間ばかりではあるが寄り道をしてしまうと、訳もなく久しい間行かねばならぬ処へ行かずに居る心持にわたしはなった。
 若い時から遊び馴れた身でありながら、女を訪ねるのにこんな心持になったのは絶えて久しく覚えた事がないと言っても決して誇張ではなかった。
 やがて見知った路地口。いくら世間から見捨てられたような此路地でも、同様に秋は知らず知らず夜毎に深くなる。
 辿り着いた店先では早い客を送るお京の姿があった。わたしは此方から眺めて怪しみながら歩み寄ると、お京は如何にもじれったそうに扉を開けながら手を拱いた。

「あなた」

 其の一言の強さは、嘗て博多で馴染んだ頃と変わらぬ親しみが表れていた。

「心配してたのよ。それでも、まァよかったわねぇ」

 わたしは初め其意を解しかねて、どう応じればよいやら分からずに店の中へと導かれた。

「新聞に出てたわよ。少し違うようだから、そうじゃあるまいとおもったけど、随分と心配したわ」
「そうか」

 わたしは漸く当がついた。一週間ばかり前、此の辺りで裏世界の連中が一悶着して、警察の厄介になっていたのたが、どうやら女はそれに巻き込まれたものと勘違いをしている。

「おれはそんなドジな真似はしないさ」
「一体どうしたの。顔を見れば別に何でもないんだけれど、来る人が来ないと何だか妙に寂しくてさ」
「でも、お京は相変わらず忙しいんだろうに」
「知れたものよ。いくら忙しいたって」

 そう応じた時、お京は「鳥渡、動かないで」と云いながら、わたしの髪に付く小さな屑を指先で摘んだ。

「もうすぐに年の暮れになるな」
「そうねぇ」

 お京は他の客たちのひやかしやからかいをあしらいつつ、わたしの手を取って階段を上がった。ドレスの裾に入った深い切れ込みからは白く滑らかな脹脛が艶かしく覗く。わたしは間もなく部屋に入って、女の華奢な両脚を開き戯れる様を頭におもい浮かべた。


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