Last Mail

凛七星

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最終章

ラストメール

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「おねぇさん、ホットコーヒーを入れてくれる?」
「お腹減ってへんかぁ?よかったらサンドウィッチ作ってあげよか?『鳳仙花』名物のハムキムチサンド食べてみぃなぁ。メッチャうまいんやから」
「わかった、んじゃそれも」
 この街にあるランドタワーとして有名な塔を、以前から一度見てみたいとケイはおもっていた。すぐ近くには日雇い労働者の街がある。そこの一角だけは、いまも昭和のまま時間の流れを堰き止めて、淀んでいるような雰囲気で街全体が包まれていた。まるで日本社会の繁栄のために使い捨てにされて、行き場を失った者が寄り添って生きているようだとケイは感じた。そして誰もが何んらかの事情を抱え、誰もそれに詮索することもなく、流れ者が集まる治外法権的な街は、犯罪者などが人目から隠れ潜伏するにはもってこいだった。徳山の姉さんがやっている喫茶店は、そんな街の中にあって、世の中の変化にあまりなほど無頓着な様子の佇まいで営業していた。
「このキムチはなぁ、韓国から来たウチの親戚のオバチャンが作ったやつでな。白菜以外は、漬けた人間も調味料も全部天然産直のホンマもんのキムチなんや。たまらんでぇ」
 徳山の姉さんは突然やって来て面識もない、そしてヤクザをしている弟の友だちという人物を、なんの屈託もなく笑顔で迎えた。
 ケイはその店で定位置になったカウンターの隅に座ると、そこから見える小型の古いテレビの画面を横目に新聞を読んだ。
「なぁんも出てへんなぁ、事件のことは」
 サンドウィッチを作りながら徳山の姉さんはケイに向かってそう言った。
 白姫の救出劇を含めた畑上一家内の抗争は、事件発生から数日間はマスコミで大きく取り上げられたが、三ヵ月も過ぎると事件の成り行きについて何も報道されることはなかった。世間は毎日のように様々なニュースであふれている。そんな中どんな大きな事件も、やがて人々の記憶から消え去り、過去の時間の底に埋もれていくのだろう。
 だがケイにとっては被せられた無実の罪を釈明されなければ、ヘタに表通りを歩くことができない。事件があった直後のニュースでは山内と鈴木が逮捕され、徳山が警察病院に運ばれたことを報じていた。白姫やチャンの名前は一切出てこなかったのは、おそらくチャンといっしょに逃げて警察の手が届いていないのだろうとケイはおもっていた。徳山は治療が済んで動けるようになっても、しばらくは取調べを受けるので連絡は取れない。あのあとのチャンの連絡先は知らないし、白姫も電話に出ない状態に、ケイは身を隠して何らかの情報を得るまで動けなかった。
「まぁ、死んだわけちゃうねんから、そのうち連絡もあるやろ」
 姉さんはケイの前に特製のサンドウィッチと香ばしいコーヒーを置くと、そんな言葉と笑顔で元気づけようとした。



「おねぇさん、キムチサンド、マジうまかったよ。ごちそうさん」
 ケイは鳳仙花を出ると、夕暮れが迫る大阪の下町をゆるゆると歩いた。ガソリンをがっちりとキメて赤ら顔で千鳥足のオッチャン、商売にそなえて銭湯で身ぎれいにして化粧のない顔をしたオカマ、相手の手が遅くて賭け将棋の盤面に向かって文句を言いながら貧乏ゆすりする真剣師、ブランドもののコピー商品を路上で売る国籍不明の男女ら、これから遊郭跡にある売春街へ出勤する流行のファッションで身を固めた若い女たち、表通りで堂々と薬を売りさばくチンピラ……。大阪に来て三ヶ月余りだったが、顔見知りになったケイにみんな声をかけたり会釈したりした。どこか陽の当たる場所が似合わない連中たちの適当に距離を置きながら、でも決して無視したりはしない微妙な関わりがケイと交わり過ぎていく。ここならしばらくは身を置いていても悪くない、そんな気持ちにケイがなっているところへ携帯電話が鳴った。
「もしもし、オレや、ヒョンスや」
 あまりに突然の電話でケイは、徳山の声に一瞬とまどってしまった。
「いま、どこで、どうしてんだよ? ずっと連絡を待ってたんだぜ」
「あのあと二ヵ月ほど警察病院に入れられて、それから拘置所に移されて長い長い紙巻きや。連絡しとうてもでけへんやろ」
「ケガはどうなんだ?」
「まだギプスをしてるけどな。治っても少し肩の動きは悪うなるって医者は言うとった」
 徳山は山内と鈴木が殺人容疑で取調べを受けていること、衛藤組と金山組のシマは一家の預かりになったこと、自分が金山組の若頭になったことなどを立て板に水という感じで話した。だが白姫のことについて、なかなか徳山が触れないことに不自然さを感じたケイは、話の途中で言葉を遮って消息を尋ねた。
「あ、うん、それがやな……」
「おまえらしくないなぁ、ハッキリ話してみろよ」
 徳山の話によると白姫はケイが現場を離れたあと、警察が来る前にチャンと逃げたらしい。だが外部との接触を断たれたせいもあって、その後のことがまったくわからないでいたという。徳山は事情聴取が済み、保釈されたその足でチャンのところへ出向いて、白姫のことを詰問した。
「そしたらなぁ。あのネェチャン、密航者やろ。ヘタに病院へも行かれへんから、チャンが知ってるモグリの医者のとこへ連れてったらしいわ。傷はおもてたより深うて、内臓の一部が損傷してたらしい。しばらく安静にしとかなあかんのに、あのネェチャンゆうたらものの1週間ほどで匿うてる部屋を抜けだしよったんや。それでやな……いま、オレは病院にいるんやけどな、そのぉ……」
 言いづらそうにする徳山にケイは苛立ってしまって、声を荒げて先を促がした。
「それでや。処置もようなかったみたいで傷口が化膿して、そやのに仕事をしてたらしい。腹膜炎を起こして、危篤状態やねん。あの子、そんな状態になる前に、おまえに電話したいって何度も看護婦に言うとったらしいんやけど、病室やし携帯を使えんように取り上げられてしもうとったんや」
「で、いまどうなんだ?」
「いまは眠ってるみたいに、静かや」
「くそっ……」
 ケイは声を詰まらせた。頭の中はただ白姫の元気な姿だけがぐるぐると回っていた。
「おい、どうした?」
「いまから、そっちへ行く。どこの病院だ?」
「アホかおまえ?!病院に入ったおかげで、ネェチャンが密航者やいうんがバレてもうとんのや。それに病室の外には刑事や警官が張っとんのやぞ。そんなもん会う前にパクられて終いやろ。まだ、おまえへの容疑は晴れてへんねんぞ。それにや。いまからじゃ間に合わんと……おもうぞ」
 ケイは怒りと哀しみ、そしておもうに任せられない自分の立場に、叫び声を上げてあたりの壁やゴミ箱、立て看板などを蹴り、殴り、身体ごと体当たりして、高ぶった感情をぶつけてまわった。そうでもしなければ、いたたまれなかった。
「ジョンファン、落ち着けって。白姫の意識がもどったら、オレがなんとでもして携帯で電話させるから。話をさせたるから」
 徳山はそう言って、電話を切った。



 それまでのユルくてぬるい感じに浸っていたケイは、いきなり寒くて何も見えない闇の深みに突き落とされた気分だった。白姫が危篤だと言われても、にわかには信じられない、いや信じたくない気持ちでいっぱいだった。
 それからしばらくの間、ケイはどこをどうして時間を過ごしたのかわからなかった。ただ、じっと連絡が来るのを待っていることが耐えられなかった。徳山の知らせから、どれほど経っただろう。ケイのポケットにあった携帯電話がメールの着信を知らせた。発信者を見ると白姫に渡した携帯電話のアドレスだったので、慌ててケイは受信箱を開いた。

【けいさん、でんわしようとおもったけど、なにをいえばいいかわからなくるから、めーるしました。けいさん、わたし、めーるできるようになったよ。にほんごもすこしじようずになったよ】
 いくつものメールが続けて着信した。開いてみると短い文章のメールだった。次のをと焦るケイの指先は震えて、うまくスクロールできず携帯を持つ手を何度も振った。
〈ホント、日本語が上手になったじゃないか、ひらがなもわかるようになったんだな〉
 ケイはメールくらいできるようにと話したときの白姫の顔をおもい出した。
【わたし、けいさんがだいすき。ほんと、だいすきよ。はじめて、あったとき、わたしにほんにきてすぐで、なにもわからなくて、まいにちないてたよ。みんな、わたしをだましてばかりね。みんな、うそつき。みんな、わるいひと】
〈そうだろうな、みんなおまえを利用することばかり考えて、道具としか見てくれなかっただろう。おまえに人間としての感情があることなんて誰も気づこうとしなかったはずだ〉
 ケイはひとりで自分が競りにかけられる場所へ来て、心細げにしていた白姫をおもい出した。
【なんにちも、ごはんもらえなくて、おなかぺこぺこだった。もうだめおもったとき、けいさんがごはんくれたよ。ちゃーはんとぎょうざ、おいしかった。おいしくて、なみだがでてとまらなかった。にほんにきてたべた、どのごはんよりおいしかったよ】
【にほんにきて、はじめて、やさしくしてもらったね。そして、ないてるわたしにふくをきせてくれた。あったかかったよ。ものすごくあたたかくて、また ないてしまったよ】
【けいさん、まもってくれるのやくそく、まもってくれてありがとう。けいさんがきてくれたとき、うれしいとごめんなさいのきもち、りょうほうだったよ】
〈バカヤロー、あんな安っぽいチャーハンと餃子に、なにをそんなに感謝してるんだよ。売り物を調べるって口実でヤクザたちに輪姦されてたとき、何もしてやれない自己嫌悪から服をかけてやったんだよ。やさしかったんじゃない。それに何を謝ってるんだ。おまえを危険な目にあわせたのはオレだ。そのせいで、そのせいでおまえは……〉
 鼻の奥がツーンと熱くなって、目頭が揺れるような感じをケイは歯を食いしばって必死に堪えた。奥歯が割れるんじゃないかとおもうほどに歯を食いしばって耐えた。
〈オレは泣かない。絶対泣かない。おふくろや妹が撃たれて殺されたときも泣かなかった。日雇いの土方をして、毎日毎日泥だらけになって身体を壊すまで働いて、俺を育ててくれた親父が死んだときも泣かなかった。泣いても誰も助けてくれやしない。泣いたらもっと辛くされるだけだ。泣いたら、もっと泣かされるだけだ……そうして、ここまでオレは生きてきた〉
【わたし、にほんではずっと、よそものね。にほんじんつめたい。ちゅうごくじんもつめたい。わたし、みっこうしゃだから。かかわりたくないね。どこにいてもさびしかったよ。さびしいさびしい、まいにちさびしかったよ】
【でも、わたしのくにでかぞくが、おかねまってる。おじいさんも、おばあさんも、おとうさんも、おかあさんも、おとうとも、いもうとも、おかねまってる。だから、がんばって、かせいだよ。いたくても、つらくても、しょうばいしたよ】
〈白姫……オレもいっしょだよ。おまえといっしょで密航者で。どこにも安心していられる場所がなくて、どこへ行っても邪魔者扱いを受けて。つらくて、寂しくて、哀しくて、痛くて。でも、おまえは家族のためにってがんばって……偉いなぁ白姫、おまえはホントに偉いよ。ホントに……〉
 ケイの持つ携帯に水滴がひとつ、ふたつと落ちる。ケイは鼻水を手で拭うと、涙で濡れた瞳を乾かそうと空を見上げた。ネオンで輝く通天閣が歪んで見える。
【けいさん、もういちど、あいたかったよ。わたし、つかれた。もうだめ、めーる もうできない。もういちど、あいたかったよ。けいさん、だいす       】
 メールはそこで途切れていた。ケイは生まれて初めて人前で大声を出して泣いた。涙を拭うこともなく泣いた。自分でどこからこんなに涙が出てくるのかとおもうほど、ケイは涙を流した。しばらくして電話の呼び出し音が鳴った。徳山が白姫の死をケイに淡々と告げた。そしてメールは送信されることなく携帯電話の中に遺されてたものだったことを付け加えた。



 白姫の死から二週間が過ぎた。昼間のケイはまるで抜け殻ように、呆然として毎日を過ごしていた。そして夜になると正体が不明になるほど酒に酔いつぶれた。ときには徳山の姉にドヤ街近くに借りた部屋まで運ばれるときもあった。吐いては飲み、飲んでは吐きするほど酒を浴びても、ケイの胸の内に駆けめぐる憤りと悲しみは治まることはなく、むしろ鋭い刃となって魂を突き刺し、そして激しく血しぶきを飛び散らせた。
「にいちゃん、にいちゃん、悪いねんけどな、もう看板やねんわぁ」
 ケイはその声に突っ伏していたカウンターから身体を起こした。肩を叩いて店の営業終了を知らせた女は、本気なのか商売用なのか、潤んだ瞳をしてケイに寄り添い耳元で囁いた。
「なぁ、ええ男がひとりで酒ばっかり飲んでたらもったいないやん。これからウチの部屋まで来やへんか?」
 柔らかな胸を押しつけて誘う女を身体から離すと、ケイは勘定以上の札をカウンターに置いて、釣りはいいと店を出た。
 朝が早い街はまるでゴーストタウンのように静かで、ケイの足音だけが闇の中で響いていた。まだ営業をしているはずのオカマバーにケイは頼りなげな足どりで向かう。細い路地に入って一段と暗くなったところを歩いていると、背中にドンと誰かがぶつかった。ケイが振り返ると、そこには血で染まった短刀を持って震えるヨシオがいた。そして火箸で貫くような熱さと痛みが二度三度つづくと、ケイは腰のあたりに手をやった。ぬるりとした感触と鉄錆のような匂いがする。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
 ヨシオが泣きながら叫んでいる姿を、ケイは倒れながら眺めていた。
「いいんだ、わかったから。おまえ、早く消えろ…」
 その場を走り去るヨシオの背中を見ながら、ケイはポケットのタバコを取り出して、震える指先で一本取り出すと口にくわえた。
「ライターがないや。さっきの店で忘れたか……」
 霞んでくる視界に目をしばたかせるとケイは夜空に散りばめられた星を見て笑った。
〈やっと居場所に悩まなくて済むなぁ。白姫は向こうで待っててくれてるだろうか……〉
 声を出すこともなく、そうつぶやくケイの口からタバコが地面に落ちて転がった。


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みんなの感想(1件)

おおば かもん

 大阪難波の久左衛門町や三津寺のカジノや、日本橋辺りのマンションの光景が思い出されます。
誰がもめたとか、飛んだとか、部屋に散らかっていたチラシ迄思い返されるような、、、
ちょっとしたことで巻き込まれてしまう、ふとかけた情からがんじがらめになってゆく。
お互い今が平穏で良かったですね。
これも続編期待しています。

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