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【一輪の恋】

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「涙の色か。じゃあ、今日は金のシールに

してもらった方が、良かったかもな」

両手にのせられた花束を見下ろした僕に、

はっ、として彼女が言った。

「ごめんなさい。このお花、贈り物なんですね。

おリボンに変えましょうか?」

慌てて手を差し伸べた彼女に、ゆっくり首を振る。

僕は笑って首を振った。

「いえ、あなたが気にしないなら、僕はそれで」

「?」

話の意図が見えない彼女が、首を傾げる。

僕は静かに息を吸いこんで、いま、受け取った

ばかりの白い花束を彼女の手にのせた。

「あなたに」

彼女の瞳が大きく開かれた。表情が止まる。

何かを口にしようと唇が開かれたが、言葉は

出てこなかった。僕は、今にも口から飛び出して

しまいそうな心臓をぐっ、と飲みこむと、

まっすぐに彼女を見つめ、言葉を繋いだ。

「あなたが、好きです。

もし、僕の気持ちが迷惑でなければ、

この花を受け取ってくれませんか?」

シンと店内が静まり返った。

彼女は目を見開いたまま、固まっている。

緊張のあまり、激しくなりすぎた血流が

耳の奥でざらざらと音を鳴らしたので、

僕は彼女の声を聞きとろうと、耳を澄ました。


突然、糸が切れた人形のように、

彼女がペタリとその場に座り込んだ。

「大丈夫ですか!?」

驚いて彼女の前に屈んだ僕の顔をみつめると、

彼女は両手を胸にあてて息を吐いた。

「びっくりした。明日から、もう、お店に

来てくれないのかと……思っちゃった」

微笑んだ彼女の瞳に、涙が滲んでいる。

僕は信じられない気持ちで、彼女の瞳の中の

自分を見つめ、その先の答えを待った。

「嬉しいです。私も、あなたが好き…っ…」

彼女が言い終えるまで、待てなかった。

僕は花束ごと、彼女の肩を抱きよせた。


-------20××年7月2日。


この日、僕と弓月の恋が始まった。



                 20××.7.3(日)


トルコキキョウの彼、上手くいって良かったね。

別に、悩むことは何もないよ。好きなら好きで、

自分の気持ちに素直に生きればいいと思う。

私はもう、誰も愛さないって決めているけど、

それは、あんたには関係のないことだから。

大丈夫。私はいつだって、あんたの味方だよ。


D-3089 宜しく。




「お待たせいたしました」

目を落としていた単行本をパタと閉じて、

声の主を見上げる。銀のトレーを手に、

テーブルの横に立つ店員さんが軽く頭を下げた。

「こちら本日の珈琲、コロンビアです。

ご注文は以上でお揃いですか?」

「はい」

品の良い笑顔を向ける女性に、頷く。にこり、と、

また頭を下げてカウンターの奥へ戻る背中を見送り

ながら、僕は店の壁時計を見た。

時刻は6時12分。

弓月が店を閉めて、2軒となりのカフェ

“イチゴイチエ”に来るのはたぶん、

6時40分過ぎだろう。

狭い店内の一番奥、2人掛けのソファーに

ゆったりと腰を下ろして、僕はカップを口に

運んだ。甘く優しい香りが、気分を満たしてくれて、

ほっと息をついた。


弓月が花束を受け取ったあの日から、

もうすぐ3週間になる。

仕事を終えた僕が先にこの店に入り、

弓月と待ち合わせをして、ふたりでお茶をするのが、

僕たちの平日の過ごし方になっていた。

テーブルに置いた単行本を、また、手に取って開く。

読書が唯一の趣味である僕が、お薦めの本を弓月に

貸してあげるのは、今日で3冊目だ。

この探偵シリーズは本当に面白い。

面白くて、何度も読み返したから、

ラストの3、4ページはほとんど暗記していて、

目を閉じていても暗唱できるほどだった。
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