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【一輪の恋】

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この美味しすぎる弓月のオムライスは、

僕の良く知る母のオムライスとは、まったく

違っていた。

『手抜きばっかりで、ごめんね』

そう言いながら、母は忙しい時間の合間に、

いつも手料理を作ってくれた。

肉が入ってない焼きそばとか、具が少ない

ハヤシライスとか、育ち盛りの子供には

少々物足りなかったけれど……

それでも、僕はちゃんと幸せで、満たされていた。

中でも、母が作るオムライスは玉ねぎが大きくて、

ちょっと炒め方が足りなくて、卵がカラカラで……

お世辞にも「美味しい」とは言えなかった。

だからかもしれない。

今も、いちばん心に残っているのは、母のその

オムライスで、仕事から帰ってきて慌てて作る

母の背中が、僕は大好きだった。

でも、もう二度と、あのオムライスは食べられない。

当たり前だけど、母のオムライスは、

もう、どこにもない。

突然、何かが喉を突き上げてきて、

僕はスプーンを止めた。飲みこもうとしても、

オムライスが喉につっかかって、うまくいかない。

口に溜めたまま、僕は噛むのをやめた。

「和臣さん?」

僕の様子に気付いて、弓月が首を傾げる。

けれど僕は、彼女を向くことも、その声に答える

こともできなかった。急に瞼が熱くなって、

視界がボヤけた。温かな滴が、頬を伝って一粒、

また一粒と落ちてしまう。

僕は、母が好きだった。

ずっと、大好きだった。

だから、許せなかったのかもしれない。

ずっと二人きりで生きてきたのに、

ある日突然、あの男を連れてきて………

「一緒に暮らそう」と僕に言った。

僕は、最期まで母を「妻」にしようと

しなかったあの男が嫌いで、

母を大切にしなかったあの男が大嫌いで、

母を嫌いになった。

嫌いになったと、思い込んでいた。

僕の「心」を守るために………

堪え切れずに、嗚咽を漏らし始めた僕の頭を、

弓月がそっと抱いた。

涙で濡れた頬を、彼女の胸に押し付ける。

ふわ、と、優しい香りが「心」の柔らかな部分を

刺激して、余計に涙が溢れた。


今日は、最悪だ。

大好きな人に、醜態をさらして、

カッコ悪いところばかり見せて。

本当に、最悪だ。

そう思うのに、溢れてしまう涙を止められないまま

鼻を啜った僕に、彼女が言った。

「ほんとうに、可笑しな人」

温かな毛布で包むような、ふわと胸が軽くなるような、

やさしい声だった。

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