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【月が輝く理由】
しおりを挟む「どうしてマスターに素性がばれるような
リスクを犯してまで、彼女がこの店に来たの
かが謎だな。足りない勘定は、また、ゆづるの
姿で夜に来た時に清算すればすむ話だろう?」
テーブルに頬杖をついてそう言った俺に、
マスターが、確かにそう言われてみれば、
と首を捻った。けれど、数秒の沈黙のあと、
もしかしたら、と口を開いた。
「別の人格に替わっている間、自分がどんな場所で、
どんな人間と関わっているのか、知りたかった
のかもしれないよ。日記を読んだだけじゃ
全部はわからないだろうし」
「記憶の穴埋めをしに、ここへ来てたってことか。
そういう理由なら、何となくわかるな」
俺は記憶がないことでうつ状態になっていた、
という小林医師の話を思い出した。
“もうひとりの自分”が知らない場所で酒を
飲んだり、誰かと会っていたりしているのだ。
出来ることなら少しでも記憶を手繰りたい
と思うのは当たり前かもしれない。
「それで。恭さんは、どうするつもりなの?」
「どうするも何も……」
唐突にどうするのかと訊かれ、答えに窮して
いる俺を横目で見ながら、マスターは残りの酒を
一気に飲み干した。空っぽのグラスが少し乱暴に
テーブルを鳴らす。
「普通なら、ここでやめるんだろうな」
「まあ、そうだろうね」
「戸籍上存在しない、架空の人格に惚れる
なんて馬鹿げてる」
「ふむ。存在するのに、存在しない。
幻のようだよね、彼女は」
頓知のようなことを呟きながら、
マスターは顎に手をあて、天井を仰いだ。
「それに、どうも俺は父親に良く思われて
いないらしいんだ。俺が亡くなった義兄に
似ていることで、彼女の病状が悪化する
ことを気にしてるんだろうけど」
俺はあの時の父親の顔を思い出した。
出来ることなら、もう、関わらないで欲しい。
そう、言っているようにさえ感じた。
「それでも……」
不意に、穏やかな声でそう言って
マスターが俺を見た。目尻が優しくさがる。
「忘れられないって、顔してるよ。恭さん」
俺は目を見開いた。
「もうとっくに、捕まっちまってるからな」
マスターの口髭がいたずらっ子の笑みの
ように歪む。その顔を見れば、もう、観念する
するしかなかった。俺は相好を崩した。
「ああ。参ったよ。ほんとうに」
口にした瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
胸が痛むのは、始まったばかりの恋が、
終わろうとしているからかもしれない。
まだ、愛し始めたばかりだというのに、
ゆづるは隣にいない。
つい、この間まで腕の中にいたのに、
もう、二度と会えないかもしれないのだ。
ツンと鼻先が痛んで、俺はきつく唇を結んだ。
「やっぱり、ここに来て、良かった」
声が震えてしまわないようにするのに、
少し苦労した。そう、とマスターが笑って頷く。
「でも、それを飲んだら帰ったほうがいい。
顔色が悪いよ。また、寝ていないんだろう?」
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