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【僕が死んだ理由】

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その日、義父は不在だった。


古い友人に会うと言って出かけて行ったが、

その言葉を信じる者は、この家に誰もいなかった。

義父のいない夜は、いつにも増して母が荒れる。

母が心を病んでいることは知っていたが、

僕は義父を責めるつもりも、責める資格もなかった。


誰よりも弓月が愛しかった。

だから僕は、心のどこかで、弓月に辛くあたる

母を疎ましく思っていたのかもしれない。

そして、それは言葉にしなくとも母に伝わって

いたようだった。唯一の味方を失った母は、

僕の知る優しい面影をも失っていった。


義父が帰らぬその日も、僕は弓月の部屋で

過ごしていた。母は夕食後風呂に入り、

そのまま1階の客間で眠る。だから、

この家の2階には、僕と弓月しかいない。

僕たちは、恋人でいられる時間を愛しんでいた。

不意に、今日も帰らないのかな、と弓月が呟いた。

僕はベッドに腰掛ける弓月の肩を抱きながら、

どうだろうね、と曖昧に首を傾げた。

父親の不貞行為には、弓月も心を痛めている。

それでも、心から両親の幸せを願えるほど、

僕たちの想いもまた、軽くはなかった。

一日も早く、他人になりたい。

義兄でなく、義妹でもなく、家族でもなく。

永遠に、結ばれることが赦される赤の他人に……

その想いばかりが、僕たちの中で募っていた。

もう、元には戻れないよね。と、弓月が言った。

僕は、家を出ていくときの義父を思い出しながら、

そうだね、と頷いた。弓月が小さなため息をついた。

そして、ずっと胸に留めたまま、口にすることの

なかった言葉を、口にした。口に、してしまった。


------なら、早く離婚すればいいのに。


僕は、どきりとして部屋の入り口に目をやった。

母に聞かれたら不味い。万が一にでも。

そう思って、ドアの方に目をやった僕は、

血の気を失った。ほんの数センチほど開いた

ドアの隙間から、母がこちらを睨んでいたのだ。

母さん……擦れた声で僕がそう呼んだ瞬間、

大きくドアが開け放たれた。部屋に飛び込んで

きた母の形相は鬼のようで、弓月は怯えた顔を

して立ち上がった。僕は咄嗟に弓月を背に庇い、

母の前に立ちはだかった。けれど、母は何かを

喚きながら、凄い力で僕を突き飛ばした。そして、

弓月に掴みかかった。僕は母を引き剥がそうとしたが、

母の力は驚くほど強いもので、びくともしない。

正気を失った母は、あろうことか、弓月の首に手をかけ、

力を込めた。瞬く間に、弓月の顔が赤く染まり、

息が止まる。制止する僕の声も、母には届かない。

たった数秒のうちに、母の腕を掴んでいた弓月の

手が、だらりと力を失くした。

このままでは弓月が死んでしまう。

僕には考える時間も、余裕もなかった。


一瞬、机の上の大理石の時計に目がいったが、

それに手を伸ばすことはなかった。自分の母親を、

この手にかけることは出来なかった。

僕はベランダの窓を開け、柵に手をかけた。

下を見下ろし、振り返る。


-------確信があった。


ここから飛び降りれば、母はその手を離し、

僕を追ってくる。必ず、僕の後を追ってくる。


------弓月が助かる。


そう思った瞬間、僕の中から恐怖が消えた。

僕は母に向かって叫び、柵に脚をかけた。

弓月の首を絞めていた母が、僕を振り返り、

柵の向こうに立つ僕を見て、悲鳴をあげる。

僕は手を離し、暗闇に身を投げ出した。

重力に躰が吸い込まれる瞬間、ベランダから

手を伸ばす母の指が、微かに僕に触れた。

僕は母に笑んだ。落ちてゆく視界の中で、

母が柵を乗り越え、僕に手を伸ばしている。

やがて、母もその柵から手を離すだろう。

これで、弓月は助かる。

弓月を苦しめる存在も、いなくなる。

後悔はなかった。死の恐怖も。僕は弓月の命を守った。

そう想えるだけで、僕は誰よりも幸せだった。

けれど意識が闇に消える瞬間、

弓月の悲痛な顔が脳裏を過ぎった。


-----だけど弓月、僕は君の心まで守れるだろうか?-----





                          完

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