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第六章:蛍の苦悩
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蛍里はどうしていいかわからず、俯いた。周囲に社内の人間は
いない。だから、自分に触れる彼の指から逃げる必要もない。
けれど、どうしても、その指に応えることは出来なかった。
自分は、彼をさらうことが出来なかったのだ。あの時、自分は
彼の想いから逃げてしまった。なのに、今さら好きだなんて、
言えるわけがなかった。
「あの……」
蛍里は堪らずに口を開いた。頬に触れていた指が、去ってゆく。
そのことが、どうにも口惜しい。
「ここは冷えます。早く中に戻りなさい」
その声に顔を上げれば、そこには上司の顔があった。蛍里は
何も言えずに、頷く。ようやく彼と二人になれたというのに、
今の自分には彼と話すべき言葉がないことに、気付いてしまう。
「それじゃ」
黙ったまま立ち尽くしている蛍里にそう声をかえけると、専務は
借りた傘を差して雨の中を歩き始めた。蛍里は遠ざかっていく
背中を、じっと見送る。
いつか読んだ本に、雨の日は別れる恋人たちが多いのだと、
書いてあったことを思い出す。天候などの自然界の変化に、
人の心は多少なりとも影響を受けるのだそうだ。
-----どうしていま、そんなことを思い出すのだろう。
蛍里は雨で霞む景色の中に、彼の背中が消えたのを見届けると、
吹き抜けのロビーを抜け、エレベーターへと向かった。
母が病を患ったのは、僕が中学を卒業する少し前のことだった。
思い出の中に父の姿はなく、担当医からの余命宣告に同席
してくれたのは、子供の頃から良くしてくれた、母方の伯母と
義伯父だった。
「やれるだけのことは、やろう」
話を終え、病室に戻る途中の廊下で、義伯父はそう言って僕の
肩に手を置いた。そしてその言葉通り、彼は治療にかかる一切の
費用を、快く負担してくれたのだった。
治療は決して楽なものではなかったが、母は存外に明るかった。
「小説家になるのが夢だったのよ」
そう言って、ベッドの上で自分が綴った作品を僕に見せて
くれる母の笑顔から『死』という言葉をイメージすることは難しく、
僕はその頃から物語というものを書くようになっていた。
けれど、余命宣告の日を半年ほど過ぎた頃、その日は突然
訪れた。葬儀の手配から事務手続きのすべては、伯母夫婦が
やってくれた。僕は母が居なくなったという事実に、ただ呆然と
するばかりで、悲しみに暮れる余裕すらなかった。僕は独りだ。
そう思いながら、ひとり縁側に腰かけていた僕に、義伯父は
傍らへとやって来て言った。
「うちの息子にならないか?」
ざわざわと、背後で弔問客の声がしていたはずだったが、
その声だけは、やけに鮮明に耳に届いたのを今も覚えている。
伯母夫婦には子がいない。だから、後継ぎがなく困っている。
いない。だから、自分に触れる彼の指から逃げる必要もない。
けれど、どうしても、その指に応えることは出来なかった。
自分は、彼をさらうことが出来なかったのだ。あの時、自分は
彼の想いから逃げてしまった。なのに、今さら好きだなんて、
言えるわけがなかった。
「あの……」
蛍里は堪らずに口を開いた。頬に触れていた指が、去ってゆく。
そのことが、どうにも口惜しい。
「ここは冷えます。早く中に戻りなさい」
その声に顔を上げれば、そこには上司の顔があった。蛍里は
何も言えずに、頷く。ようやく彼と二人になれたというのに、
今の自分には彼と話すべき言葉がないことに、気付いてしまう。
「それじゃ」
黙ったまま立ち尽くしている蛍里にそう声をかえけると、専務は
借りた傘を差して雨の中を歩き始めた。蛍里は遠ざかっていく
背中を、じっと見送る。
いつか読んだ本に、雨の日は別れる恋人たちが多いのだと、
書いてあったことを思い出す。天候などの自然界の変化に、
人の心は多少なりとも影響を受けるのだそうだ。
-----どうしていま、そんなことを思い出すのだろう。
蛍里は雨で霞む景色の中に、彼の背中が消えたのを見届けると、
吹き抜けのロビーを抜け、エレベーターへと向かった。
母が病を患ったのは、僕が中学を卒業する少し前のことだった。
思い出の中に父の姿はなく、担当医からの余命宣告に同席
してくれたのは、子供の頃から良くしてくれた、母方の伯母と
義伯父だった。
「やれるだけのことは、やろう」
話を終え、病室に戻る途中の廊下で、義伯父はそう言って僕の
肩に手を置いた。そしてその言葉通り、彼は治療にかかる一切の
費用を、快く負担してくれたのだった。
治療は決して楽なものではなかったが、母は存外に明るかった。
「小説家になるのが夢だったのよ」
そう言って、ベッドの上で自分が綴った作品を僕に見せて
くれる母の笑顔から『死』という言葉をイメージすることは難しく、
僕はその頃から物語というものを書くようになっていた。
けれど、余命宣告の日を半年ほど過ぎた頃、その日は突然
訪れた。葬儀の手配から事務手続きのすべては、伯母夫婦が
やってくれた。僕は母が居なくなったという事実に、ただ呆然と
するばかりで、悲しみに暮れる余裕すらなかった。僕は独りだ。
そう思いながら、ひとり縁側に腰かけていた僕に、義伯父は
傍らへとやって来て言った。
「うちの息子にならないか?」
ざわざわと、背後で弔問客の声がしていたはずだったが、
その声だけは、やけに鮮明に耳に届いたのを今も覚えている。
伯母夫婦には子がいない。だから、後継ぎがなく困っている。
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