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第一章:失ったもの

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 なのに「じゃあ、行ってくる」と、手を振
って歩き出した姉の背を追いかけることは出
来ない。古都里の腕は傍らにいた母にがしり
と掴まれていた。腕を掴む力に眉を寄せ覗く
ように母を見た古都里は、緩やかに落胆した。

 「お願いだから、これ以上余計なことは言
わないでちょうだい。今日は妃羽里の人生が
決まる大事な日なの。受験は一発勝負なのよ。
今日のために死に物狂いで勉強してきたの!
だから、可笑しなことを言ってあの子を不安
にさせないでちょうだい。古都里だってお姉
ちゃんの人生を応援してあげたいでしょう?」

 きっと母は、一生信じてくれないのだろう。
 低い声で捲くし立てるように言った母親を
見、そう直感した古都里は涙が滲んだ目を逸
らし、こくりと頷く。


――行きたい大学に受かったって、命がなく
なってしまえば元も子もないのに。


 そんな思いが頭を擡げていたけれど、とて
も口にする勇気はなかった。

 「ちょっと妃羽里、受験票はちゃんと持っ
たんでしょうね!?」

 そう言って部屋を出て行ってしまった母の
背を視界の隅で捉えながら、古都里はただた
だ、姉の無事を祈ることしか出来なかった。


――それから数時間が過ぎ、夕刻になっても
古都里の携帯が鳴ることはなく。


 代わりに家のリビングの電話が不気味に鳴
り響く。受話器を手に泣き崩れた母の顔を、
古都里は生涯、忘れることは出来ないだろう。

 その日を境に『妃羽里』という掛け替えの
ない存在を失った家は、灯が消えたように暗
く沈んでしまったのだった。


 古都里は遣る瀬無さを吐き出すように細く
息を吐くと、姉の面影を脳裏に映した。

 姉は花が咲くように美人で、聡明で、両親
にとっても自慢の娘だった。やや赤みを帯び
た茶褐色の髪はミニボブで柔らかな丸みのあ
る顎のラインを引き立てていて姉に似合って
いたし、明朗快活な姉は誰にでも好かれ、ど
こにいても姉の笑顔は輪の中心にあったよう
に思う。もちろん、両親は古都里のことも分
け隔てなく大切に思ってくれているのだろう
けど……。姉に掛ける期待は、古都里に求め
るそれとは少し違っていたように感じた。

 母が箏の教師をしていたこともあり、姉妹
は幼いころから箏を嗜んでいた。年子だった
姉は四歳の頃から、古都里は五歳の頃から箏
を習い始め、自宅の二階で母と共に三人で箏
の練習に励んでいた。

 けれど自分よりも二年早く箏を習い始めた
姉の成長は目まぐるしく、次々に新曲を修得
してゆく姉に古都里はいつしか尻込みしてし
まうようになる。

 そんなある日、その技量を証明し、箏を人
に教えることの出来る立場になるための免状
を取得した姉に、母は満面の笑みで言った。
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