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最終章後編

六章-1

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 六章 盲目恋慕


   1

 早朝になり、クリスティーナがトラストンの家を訪ねたとき、店舗の中には誰もいなかった。とはいえ、店の中はトラストン個人の事情から、灯りの類いは使っていないから、いつ来ても薄暗いことには変わりない。
 しかし店の出入り口が閉じており、ガラス窓から中を覗いても、開店の準備をしているトラストンの姿も見えなかった。


「あら。どうしたのかしら?」


 祖父から受け継いだ商売に、固執している――というのが、ローウェル伯爵とクリスティーナの見解だ――トラストンが、なんの前触れもなく店を休みにするはずがない。
 クリスティーナは手にしたポーチから三つの鍵がぶら下がった鍵束を取り出すと、家屋側の玄関へと廻った。
 金属で補強された玄関にある、二つの鍵を上、下の順番に解錠したクリスティーナは、ドアを開けて中に入った。
 シンと静まり返った家の中は、まるで廃墟のように他者の気配がない。そのことに不安を覚えたクリスティーナは、施錠も忘れて階段を駆け上がった。
 トラストンの寝室は、もう何度も来ているから把握している。真っ直ぐに二階の寝室まで来ると、ドアノブを廻した。


「空いてる――まさか」


 トラストンは就寝時、必ずこのドアは施錠している。そのドアが開いていることに、クリスティーナは愕然とした。震える手でドアを開けると、部屋の左端にあるベッドに、平服のままのトラストンが熟睡していた。
 平服のまま俯せで眠っているトラストンから、僅かに汗の臭いが漂っていた。
 クリスティーナは腰に手を当てて苦笑すると、傍らに置いてある竜の指輪を突いた。


「ガラン――トトを起こさないなんて、珍しいですわね」


 クリスティーナが声をかけてから数秒ほど、なんの返事もなかった。
 さすがのクリスティーナも怪訝な表情を浮かべかけたときになって、竜の指輪から半透明の小さなドラゴン――ガランが姿を見せた。


〝クリスティーナ……か〟


「ガラン……どうかしましたの?」


 クリスティーナの問いに、ガランは躊躇するように目をベッドにいるトラストンへと向けた。


〝昨晩は――トトは知人の手伝いに呼ばれてな。そのせいで生活……人の言葉ではなんといったか……習慣、定例的なもの……〟


「リズム?」


〝ああ……リズム。それが乱れているようだ。トトだけでなく、我もな〟


「あら。そんなことがあるんですのね。でも、もう起きませんと。お店も開店できませんから」


 クリスティーナはトラストンの両肩を揺すったが、目を覚ます気配はなかった。
 普段とは違うトラストンの様子に目を丸くしたものの、ガランの説明を聞いていたこともあり、深刻には考えなかった。


「トトったら……起きないあなたが、悪いですからね」


 クリスティーナはトラストンの頭を優しくずらして、横向きにした。右の手袋を外して、トラストンの唇に振れさせた途端、クリスティーナの目が見開いた。
 指先に伝わってくると思っていた体温が、まったく感じなかった。心なしか、唇も赤みが失せ、青紫っぽくなっているように見える。
 精気のないトラストンの顔色に、クリスティーナは顔を青ざめさせた。怯えと悲壮さの入り交じったように表情を強ばらせながら、トラストンの身体を揺らす。


「トト――トト! 起きて下さいまし! お願いですから、目を覚ましてっ!!」


 悲鳴に似た声で呼びかけていると、トラストンの瞼がピクリと動いた。


「その声……クリステ――いや、クリス嬢?」


「ああ……トトっ!!」


 上半身を起こしかけたトラストンの首元に、クリスティーナは涙を浮かべながら抱きついた。
 目を閉じたトラストンは、クリスティーナの背中に、ぎこちなく手を回した。


「どうしたんです、か?」


「だって、だって……トトの容体がまた、悪化したのではないかって……唇の色も悪かったですし、触れたら冷たくて……」


「本当、ですか? えっと……今は、どうですか?」


 トラストンは僅かに身体を離すと、目を瞬かした。
 クリスティーナはトラストンの顔を見回してから、その唇に触れた。


「いつもどおり……唇も温かいですわ」


「気のせいだったかもしれませんね。あとは光の加減で、色が悪く見えたのかも。あとは……なにかあったか、な」


 指折り数えながら、原因を並べていくトラストンに、クリスティーナは泣き笑いのような顔で、彼の胸元に顔を埋めた。
 竜の指輪の近くにいた、半透明のガランが消えていたことなど、もうクリスティーナは気にしていない。
 トラストンの体温と鼓動を感じながら吐息を漏らしたとき、不意にドアがノックされた。


「熱烈なところ、申し訳ない」


 いつからそこにいたのか――ドアの側に、複雑な顔をしたマーカスが立っていた。
 クリスティーナが慌ててトラストンの身体から離れる姿に、マーカスは苦笑しながら部屋の中に入った。


「クリスティーナ嬢、すいません。出歯亀じみたことをするつもりでは、ありませんでした。ドアの鍵も開いてましたので、勝手に入ったのは事実ですが。ただ、こちらも時間が無くて」


「いえ……それで、御用件はわたくしにですか? それともトト?」


「そうですね。まずはトトから」


 マーカスはトラストンに向き直ると、ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
 それを丁寧に広げた紙面には、手書きだが街の地図が記されていた。


「トト。君は昨晩、街の南側にいなかったかい? いやね。僕の部下が見かけたようなんだが……声をかけようとしたら、見失ったらしくてね」


 マーカスが記したあたりは、スピナル――エキドアがいた倉庫の近くだ。トラストンは数秒ほど黙っていたが、やがて淡々と答えた。


「知人の手伝いに、この近くの倉庫へ行ってました、けれど。それが……どうかしたんですか?」


「それは、本当かい?」


 怪訝そうなマーカスに、トラストンに代わってクリスティーナが割り込んだ。


「わたくしも、そう聞きましたわ。お寝坊さんの理由は、知人の手伝いに行ったからだと」


 マーカスはクリスティーナへ、なにかを言おうと口を開きかけたが、すぐに閉じた。首を微かに振ってから、大きく深呼吸をして、クリスティーナへと目を向けた。


「なるほど……参考になります。ですが、少し二人で話をしたいんですよ。辛抱をお願いします」


 マーカスに窘められ、クリスティーナは不満げな顔をしながらも、少しだけ二人から離れた。
 マーカスは地図をトラストンに見せながら、倉庫が建ち並ぶ辺りに指先を沿わせた。


「君が向かった先は、どのあたりだい? 差し支えがなければ、教えてくれないか?」


「いや……構いませんが」


 トラストンはしばらく地図を見てから、街の南端の建物を指さした。


「途中から、案内があったので……多分ですが、ここです」


「……なるほど。わかった、ありがとう」


 マーカスは地図を再びポケットにしまうと、クリスティーナに向き直った。


「さて、次はクリスティーナ嬢ですが……ここではなんですので、屋敷に戻られてからで結構ですよ。ローウェル伯へも挨拶に行かなければと思っていましたし」


「……そうですか。なら、わたくしたちはお店の開店準備を致しますわ。ああ、トトはお風呂と朝の御食事も」


「風呂……入らないと拙いですか、ね?」


「ええ。それでお店に出るなんて、わたくしが許しませんわ」


 自分の袖や手の臭いを嗅ぐトラストンに、クリスティーナは腰に手を当てながら、大袈裟に頷いてみせた。
 その顔はどこか戯けているようだったが、トラストンの反応は薄かった。
 クリスティーナがトラストンを急かす様子を最後に見てから、マーカスは小走りに一階へと降りた。
 そして玄関の外に待たせていた部下たちと合流すると、地図を広げて、トラストンが示した場所を指で示した。
 そのまま彼らに地図を手渡したマーカスは、客待ちの辻馬車が並ぶ大通りへと急いだ。

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本作を読んで頂き、誠にありがとうございます!

わたなべ ゆたか です。

本文中は蛇足かな……と思って書いてませんが、三本目の鍵はトラストンの寝室の鍵です。ちなみに本人には内緒で作ってるという設定ですが。
蛇足かなと思って、書くのを止めてみました。そういう雰囲気でもないですしね。
クリスティーナのこういうところ、ローウェルの血筋のなせる業です。多分。

少しでも楽しんで頂けたら幸いです。

次回もよろしくお願いします!
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