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(5) 編入の条件

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 中間試験が終わったころ、紘也は悠太郎と共にホームルームの終わった教室に残っていた。そのとき、担任の教師の今井が悠太郎に声をかける。

「小野寺、少し話があるんだが、いいか?」

「あ……はい。何でしょうか」

 悠太郎は答えると、今井の立つ教壇に近付いていった。今井は三十代半ばの男性教師で、中背でよく日に焼け、がっしりとした体格をしていた。その顔は角ばっていて眉が濃く、いかにも柔道部顧問という強面こわもてに見える。規律を乱した生徒は容赦なく指導したが、普段はその風貌と反して、人あたりはきわめて柔和にゅうわだった。そのギャップからか、多くの生徒たちに人気がある。

 他のクラスメイトたちはあらかた帰っており、教室には他に数人の生徒が残っているのみだった。今井は悠太郎がそばに立つと、彼にだけ聞こえるよう小さな声で言った。

「お前、中間試験、頑張ったな。秀才だとは聞いていたが、全教科ほとんど好成績じゃないか。古文は平均ちょい上くらいだが、それでも帰国子女のお前にしたら相当努力したんだろう。たいしたもんだ」

 白い歯を見せて、今井は感心したように笑う。今井を無気力そうに見つめ返しながら、悠太郎は言った。

「ありがとうございます。話って……成績についてですか?」

「いいや、違う。お前がこの学校に慣れるまで少し待ってたんだが……そろそろいいかと思ってな。お前、部活、入ってないだろう?」

 悠太郎は今井から目をらし、さして興味のない様子で答えた。

「そうですね。まだ新しい環境に慣れるのが精一杯なんで、勉強に専念できたら嬉しいんですが……」

 今井は、ひと呼吸置いてから、こう切り出した。

「高等部では、部活動については本人の自由意志ってことになってる。放課後、受験に備えて予備校に通っている生徒も多いからな。だが、お前はアメリカの姉妹校からの編入生だ。詳しい事情は知らされていないが、あちらの大学の理事会からの要請で、お前には授業だけでなく部活動もするよう指導しろと言われているんだ。健全な学生生活を送れているか、随時報告して欲しいとな。それが、編入の条件でもあるんだ」

「健全……ですか」

 悠太郎はうつむき、つぶやく。今井は続けた。

「こないだの柔道の授業、驚いたぞ。お前、基礎が出来てる上に、パワーも技のセンスもある。アメリカで習っていたのか?」

「はい。小さいころから護身術を教える道場で、日本武術の基礎は一通り学びましたが……」

「やはりそうか! それで……また始める気はないのか?」

「いえ……。今は痩せて体力も落ちてるし、運動部には、出来れば入りたくないんです」

 悠太郎が淡々と答えるのを聞いて、今井は困ったような顔になった。

「実は、俺が顧問をしている柔道部の主将に、お前のことを話したんだよ。ぜひ会ってみたいと言ってる。この学校の柔道部は、毎年インターハイで全国大会に進出するほどの強豪だけど、優勝経験はないんだ。みんな、今年こそはと張り切っている。お前ほどの体格と技術があれば、少し鍛え直せばきっと主戦力になれるよ。他に入りたい部がないなら、一度、見学だけでもしてみないか? 頼むよ。俺の顔を立てると思って」

 そう言うと、今井は悠太郎に向かって頭を下げた。教室に残っていた数人のクラスメイトたちの視線が、壇上の二人に集まる。紘也もなぜか心配で成り行きを見守っていた。余計な詮索をされるのも嫌だと思ったのか、悠太郎は小さくため息をつくと、うなずいた。

「解りました。見学だけなら……。いつ行けばいいですか?」

 今井は顔を上げ、嬉々ききとした大声で答えた。

「おお、そうか! 早速、今日の放課後はどうだ? すまないが、俺は今日は職員会議で、顔を出すのがかなり遅くなる。主将の大谷に伝えておくから、先に道場に行っててくれないか。じゃあ、頼んだぞ」

 豪快ごうかいに笑うと、今井は悠太郎の背中をばんと叩き教室を出て行った。今井の姿が見えなくなると、紘也は急いで悠太郎のそばに近付いて行って、小さな声で話しかけた。

「悠、柔道部に入るのか?」

 悠太郎は紘也の方を振り向くと、苦笑しながら答えた。

「見学に行くだけだよ。体育の授業のとき、今井が俺に目をつけたみたいだ。柔道部の主将に、俺のことを話したらしい。仕方がないから、顔だけでも出してくる」

 柔道部の大谷主将は百九十センチを超える長身で、高校生とは思えないほど筋骨隆々とした体格だった。黒帯で柔道三段、強豪の部を率いる猛者もさとして、学院でも中等部の頃から注目の的だった。

 そんな大谷と、紘也は以前一度だけ話したことがあった。高等部に上がってすぐの頃のことだったが、紘也はそのとき、威圧するような恐ろしさと狡猾こうかつさを、彼に感じたのだった。それを思い出し、不安を抑えられなくなった紘也は悠太郎に言った。

「止めた方がいいよ、悠。柔道部のキャプテンの大谷先輩って、めちゃ怖い人なんだ。俺がもと柔道部のやつに聞いた話だけど、入部希望者はまず、それなりの洗礼を受けさせられるらしい」

「洗礼って……技をかけられるってことか? まさか見学に来ただけのやつを、痛めつけるような真似はしないだろう」

 悠太郎は怪訝けげんそうな顔をしたが、紘也は首をふった。

「甘いよ。だから先生はわざと自分が遅くなる日に誘ったんだ。先生と大谷先輩の間の、暗黙の了解ってやつさ。もちろんケガまではさせられないだろうけど、相当痛い目に会わされるかも知れないよ」

「そんなことしたら、せっかくの入部希望者がほとんど逃げ出してしまうじゃないか」

 あきれたように言い、悠太郎は紘也の顔を見つめてふっと笑った。悠太郎はあの書店での出来事以来、徐々に紘也に打ち解け、普通に会話するようになってきている。紘也にはそれが嬉しかったが、今は心配のあまり、悠太郎を引き留めるのに必死だった。

「それが、大谷先輩のやり方なんだよ。いきなり問答無用の指導をした上で、実力とやる気を試したいんだ。入部テストみたいなもんさ。弱音を吐くやつは振るい落として、見込みのある選手だけ入部させるんだと思う。もし強引に入部させられたら、嫌でもなかなか辞められないよ。先生のお墨付きもあるから、悠への期待は大きいだろうし……絶対に何か仕掛けられる。入部するつもりがないなら、関わり合いにならない方がいいよ」

 悠太郎は自分の席に戻ると椅子に座り、腕組みをしてしばらく考え込んでいた。紘也も悠太郎の前の席に座り、じっと彼の様子を見守る。悠太郎はようやく口を開いた。

「心配してくれてありがたいけど、やっぱり顔だけは出すよ。今井には何かと世話になってるし、俺はこの学校に預けられてるような立場だからさ」

 紘也はあきらめず、なおも説得した。

「その今井先生も、大谷先輩と結託けったくしてるんだぜ? うまいこと言いくるめられて、入部させられたらどうするんだ?」

「何をされようが、柔道部に入るつもりはないよ。編入の条件に部活動があるらしいから、どこかに入部せざるをえないけど……俺は、今さら格闘技をする気なんかない」

 つぶやくように言う悠太郎の表情が、悲しげに曇ったような気がした。紘也はとまどいながら、たずねた。

「……どうしてさ?」

「一番守りたかったやつを……結局守れなかった。いくら武術を極めても、そんなもの無駄だって……思い知ったからさ」

 紘也は驚いた。悠太郎が、こんなふうに心の内を打ち明けてくれたのは、初めてのことだった。だが、詳しい事情をたずねる勇気はない。瞳を大きく見開いたまま言葉を失っていると、悠太郎はわずかに微笑んで言った。

「なんて顔してるんだよ。とにかく見学には行くけど、入部の意志はないって初めにはっきり伝える。それなら大丈夫だろう?」

「じゃあ、俺も一緒に行っていいか? 見学希望ってことでさ。お前に連れがいれば、先輩たちも無茶はできないと思うんだ」

 紘也があまりにも切羽詰せっぱつまった様子で頼むのがおかしくなったのか、悠太郎は笑い出した。

「解った。好きなようにしろ。南、お前って、本当に心配性だな。大丈夫だって」

「これからすぐ、行くのか?」

「ああ、頼まれごとは早く済ましたいし」

「俺は自分の部の方に、少し遅れるって連絡してから行くよ。悠、本館の玄関の前で待ってるから、あとからゆっくり来てくれないか? そこで落ち合ってから、一緒に道場へ行こう」

「ああ」

 紘也は悠太郎がうなずくのを見ると、先に教室を出た。携帯の使用は放課後のみ、しかも授業の行われる校舎である本館の外のみと校則で決められている。ラインやメール位なら教師の目を盗んで行う生徒もいたが、今の紘也には悠長に文章を打っている余裕はなかった。

 通話のできる玄関の外に出るため、急いで階段を駆け降りる。下校する他の生徒たちが何事かと見つめる中、紘也は玄関の外に走り出た。自分の携帯を取り出すと、同じボランティア部に所属する二年の渡辺わたなべの携帯に電話をかける。幸い、渡辺はすぐ電話に出た。息を切らしながら電話してきた紘也に、渡辺は驚いてたずねた。

「どうしたんだよ、南。そんなに慌てて」

「渡辺、大谷先輩のことで相談があるんだ。ほら、柔道部の主将のさ……」

「もちろん、忘れるわけないけど……。あの先輩がどうかしたのか?」

「俺のクラスの転入生が、今から柔道部に見学に行くんだ。何か事情があるらしくて、無理やり入部させられるかも知れない。何とか止めたいんだ。今から俺が頼むこと、平田部長と顧問の竹中先生にかけあって欲しい。急いでくれないか」

 紘也が渡辺との通話を終え顔を上げると、悠太郎が本館の玄関の外に歩み出てきたところだった。悠太郎と目が合うと、小さく深呼吸してから、紘也は覚悟を決めたように言った。

「行こう」

 悠太郎と並んで道場に向かって歩き始めた紘也は、ちょうど一年前……高等部に上がったばかりの一年生の春のことを思い出していた。
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