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(6) 手段は選ばない

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渡辺わたなべ。お前どうして、柔道を続けないんだ」

 渡辺の肩を、後ろからいきなりつかんで呼び止めたのは、険しい目つきをし、がっしりとした体格をした大柄な生徒だった。その生徒の隣には、紘也ひろやのよく知る先輩も立っている。中等部で所属していた陸上部のキャプテン、水守みずもりだった。水守も険しい顔をして、紘也をにらみつけていた。

 紘也は、高等部一年でクラスメイトになった渡辺と、彼に誘われて入部したばかりのボランティア部の用事で外出するところだった。学院と同じ経営母体の聖グレゴリウス愛寺院あいじいんの子供たちに、絵本を寄贈してくれる出版社があり、それを受け取りに行く予定だったのだ。

 ボランティア部への入部を決めたのには理由があった。部では愛寺院での活動の他に、不登校の子供たちが通うフリースクールへの支援も行っている。妹のみどりには手を差し伸べることができないが、せめて少しでも、彼女と同じ悩みを持つ子供たちの力になりたかったのだ。

 学院の本館前の大きな広場には、優雅な天使像を中央に据えた円形の噴水があった。その縁に腰掛けて友人と談笑するものや、くつろいで読書するものもいて、学生たちの憩いの場となっている。紘也と渡辺は、ちょうどその横を通り過ぎようとするところだった。

 春の午後の日差しが包む穏やかな空気が、紘也たちの歩いていたその場所だけ、瞬時に張り詰めたものとなった。

 渡辺は観念したように小さく息を吐くと、大柄な生徒の方に向き直り、深々と頭を下げて言った。

「すみません、大谷おおたに主将。柔道部は本当にやりがいがあったんですけど……。俺、体も貧弱だし、実力にも限界を感じて。高等部では、別のことをやりたいって思ったんです」

 大谷は無言で渡辺をにらみつけたままだった。そんな大谷の様子を横目で見ながら、水守がいった。

「渡辺、お前のことは大谷から聞いてるよ。強くはないが、経験者として熱心に初心者を指導してたらしいじゃないか。大谷も、お前のことを頼りにしてたんだぞ」

 どうやら水守と大谷は、お互い中等部で運動部のキャプテンだったこともあり、友人同士らしい。水守は紘也の方に向き直ると、さらに続けた。

みなみ、お前だって同じだ。お前のことは、高等部でも短距離のエースとして活躍してくれるだろうと、俺はそれは期待してたんだ。なんで裏切るような真似をするんだ?」

 紘也は落胆らくたんしていた。陸上部にいた頃は主将の水守をそれなりに尊敬していただけに、陸上を辞めたことを、いまさらこんな風に責められるとは意外だったのだ。続けるも続けないも、本人の意志次第だ。スポーツは他人に強制されてやることではない。

 ミッションスクールである聖グレゴリウス学院は、都内でも有数の進学校でありながら、概ね自由な教育方針だった。高等部からの部活への参加を強制しないのも、学生本人の意志を尊重してのことらしい。だが、こと練習のきつい運動部にとっては、そのことにより部員の確保が難しくなる。

 実力のある部員はもちろんのこと、実力はなくとも、中等部で真面目に取り組んでいた部員を引き留めようとするのは、この学校ではよくあることらしかった。

 大谷も水守も、部長という役割をになった以上、綺麗きれいごとは言っていられないのだろう。だが、二人の言いがかりはスポーツマンらしくはなかった。紘也が水守に抱いていた憧れや尊敬はすっかり消え失せ、ただ残念な気持ちだけが残る。

「もういい。水守」

 眼光するどく渡辺をにらみつけていた大谷が、ようやく口を開いた。

「こいつらの本性を、見抜けなかった俺たちが悪いんだ。こんな根性の腐ったのを、信じちまった報いだよ。俺たちが親身に面倒を見てやったことも、すっかり忘れているみたいだ。人の信頼を裏切れば、いつか自分にも跳ね返ってくるって思い知るだろう。途中で目標を投げ出すのが当たり前になって、きっとこいつらは一生、何も成し遂げられずに終わるさ」

 それから大谷は渡辺の肩に手を置き、今度は優しくさとすように言った。

「だが、俺はまだお前を信じたい。本当のお前は、そんなやつじゃないだろう? 今、ここで謝ってくれたら、すべて水に流して柔道部への復帰を許す。渡辺、間違いに気付いたのなら、素直に戻れ」

 渡辺は大谷の気迫に押されて立ち尽くしていたが、再び深く頭を下げて叫んだ。

「お……俺、今はボランティア部にとてもやりがいを感じているんです! だから復帰はできません。も……申し訳ありません!」

 大谷はそれを聞くと、渡辺の肩に置いた手を離し、吐き捨てるように言った。

「偽善に逃げれば、気が楽だろうな。見下げはてたやつだ。もう勝手にしろ」

 渡辺は、反論さえあきらめたように頭を下げたままだった。だが紘也は、友人である渡辺が受けた理不尽な侮辱に、どうしようもなく腹が立った。普段はめったに激昂げっこうすることなどないクールな性格だが、この時ばかりは大谷に食ってかかった。

「いいかげんにして下さい! 部の都合で、辞めたやつを脅すなんて最低だよ。部活は、同じスポーツを楽しむもの同士の集まりでしょう? 目標を高く持つのは素晴らしいけど、そんなの、あくまで個人の気持ちの問題だ! 先輩だからって、そこまで失礼なことを言われる筋合いはない!」

「お、おい! よせよ、南! 大谷さんを怒らせたら……」

 渡辺があおくなって小声で止めても、紘也は大谷をにらむのを止めなかった。大谷も鋭い視線でそれを受けとめていたが、やがて大きくため息をついて言った。

「俺にあそこまで説得されたら、大体は奮起ふんきして戻ってくるもんだ。少しでも根性があればな。ボランティア部だかなんだか知らないが、軟弱な文化部でせいぜい楽をするがいい。お前らみたいな偽善者にはお似合いだ」

 そう言うと大谷は、紘也の姿をつま先から頭のてっぺんまで凝視ぎょうしした。

「南とか言ったな。俺に意見した度胸はめてやろう。だが言っておくが、俺には俺の信念がある。柔道部の部員を、全国制覇に導いてやるってな。そのためには、どんな手段だって使う。お前のありがたい正論は、犬にでも食わせておくんだな」

 大谷は険しい表情のまま、その場を立ち去って行った。水守は紘也をにらみつけてから、そのあとを追う。

 やっと顔を上げた渡辺は、噴水の縁に腰が抜けたように座り込んだ。

「まったく……お前って、そんな甘いマスクしてるくせに、どんだけ度胸あるんだ? あの大谷先輩にかみつくなんて……。俺が柔道部から脱落したのは、大谷先輩の恐ろしいしごきに耐えかねたからなんだぜ」

 そう言うと、渡辺はほっと胸をなで下ろした。紘也は彼らの去って行った方をながめながら、つぶやいた。

「あの大谷って……怖い人だな。俺だってもう二度と、関わりたくないよ」

 少し気持ちが落ち着いた紘也は、大谷について考えを巡らせていた。相手をとことん追い詰めた上で慰めの言葉をかけ、懐柔しようとする。それは大谷にとっては、技の駆け引きと同じなのだろう。必要と思ったら人をひどく傷つけたり、おとしめることも出来る。それに対するためらいが全く感じられなかったことが、紘也には恐ろしかった。

「やばい! ずいぶん時間をくっちまった! もうすぐバスが出ちまう。急ごうぜ!」

 渡辺が立ち上がって、紘也に向かって叫んだ。二人は噴水のある広場を、息をきらして駆け抜ける。新緑が彩るプラタナスの並木にはさまれた長い一本道を、学院の正門に向かって急いだ。正門を出ると、ほど近いところにあるバス停に、バスが停車するところだった。

「乗りまぁす!」

 渡辺が叫び、バスに向かって手をふる。バスに向かい走りながら、紘也の心には、大谷の「手段は選ばない」と言う言葉が、鮮明に焼き付いて離れなかった。
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