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(7) 罠

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「あれ、見学者は一人じゃなかったっけ? えっと、どっちが小野寺おのでら君?」

 声をかけられ、紘也は我に返る。紘也と悠太郎は、体育館の別棟べつむねの玄関近くまで来たところだった。道場は、その別棟の中にある。声をかけてきた生徒は道着を着ており、大きく開け放された両開きの扉の奥で立っていた。むくつけき風貌ふうぼうはいかにも柔道部員らしく、二人を見て怪訝けげんそうな顔をしている。悠太郎ゆうたろうはその生徒に、小さく手を挙げながら答えた。

「僕が小野寺です」

「へえ、きみハーフなのかい? 上背うわぜいあるなぁ。そっちのきみは?」

 紘也《ひろや》もその部員に答えた。

「僕は同じクラスなんですけど、一緒に見学させてもらえませんか?」

「そうか……。一応、主将に聞いてくるから、ちょっと待っててくれ」

 そう応じると、彼はいったん道場の中に戻り、しばらくしてから道着を二人分抱えて戻って来た。

「待たせたね。主将が、もちろん歓迎するって言ってる。他の部員は、俺も含めてこれから外にランニングに行くから、応対するのは主将だけになるけど……。君たちは、この道着を着て道場に入ってくれないか」

 紘也は、警戒してたずねた。

「あの……今日は見学のみを希望なんですが。道着、着なきゃだめでしょうか?」

 部員は苦笑しながら、半ば強引に道着を二人の腕に押し付けた。

「すまないね。一応、道場は神聖な場所だから、見学だけでも道着は身につけてもらうことになってるんだよ。じゃあ、頼んだよ」

 外履きを履きながら、その部員は二人の方を心配そうな顔でちらりと見やったが、やがてそそくさとグランドの方へ走り去って行った。紘也は、この状況をはっきりと罠だと悟った。

「悠、他の部員を締め出すなんて、何かおかしいよ。やっぱり帰ろう!」

 不安をつのらせる紘也に対し、悠太郎はさして心配する風もなく答えた。

「まさか、取って食われるわけじゃないだろう。挨拶するだけだし、挑発に乗らなければ大丈夫さ。俺なら、ほんとに一人で大丈夫だ。お前は帰りなよ」

 そう言いながら悠太郎は外履きを脱ぎ、道着を持って更衣室の中にためらわず入って行く。悠太郎は、あの大谷の怖さを知らないのだ。こうなった以上、自分も大谷ともう一度向き合うほかない。

「ここまで来たんだ。俺も行くよ」

 紘也も改めて覚悟を決め、悠太郎のあとに続いた。


 二人が道着に着替えて道場の中に入って行くと、おそらく八十畳はある空間の中央に、道着姿の大谷が目を閉じたまま正座していた。他に人影はなかった。二人の気配に気付くと大谷はゆっくりと目を開け、あの鋭い眼光で再び紘也を射抜く。紘也は、身がすくむのを感じた。

「初めまして。今井いまい先生の紹介で、見学に来た小野寺ですが……」

 おくする様子もなく、悠太郎は淡々と自己紹介する。大谷はしばらく紘也を凝視ぎょうししていたが、やがて悠太郎に目線を移して言った。

「ああ、よく来てくれた。待っていたよ。先生の話だと、かなり筋がいいそうだな。才能を眠らせておくのは、もったいないと思わないか? ぜひ、うちに入部して欲しい」

 太く低い声が、静かな道場に響く。悠太郎は無言のまま大谷の正面まで歩み寄り、少し距離を置いたところに正座した。紘也も、少し後ろに離れてそれに習いながら、道着をまとった悠太郎の、りんとした所作の美しさに見とれていた。

 午後の日差しが高い位置に設けられた窓から差し込み、三人の姿に長く伸びる影を落としている。畳に両手をついた悠太郎は、大谷の顔を見すえた。

「お誘いいただき、ありがとうございます。しかし残念ですが、今は柔道をやる気はないんです。ご期待に添えず、申し訳ありません」

 はっきりとそう言ってから、深々と頭を下げた。

 大谷は片方の眉を少しだけ動かすと、若干けわしい口調になった。

「では、見学に来たというのは嘘か? そんなことを言うためだけに、柔道部に貴重な時間をかせたのか?」

「はい。お断りするにしても、お会いして、ご挨拶した上で申し上げるのが礼儀かと思いまして……。お気持ちを害されたのなら、謝ります」

「俺は、納得できない。見学者を迎えるために、こちらも準備して待っていたんだ。せめて少しでも、柔道部の活動を体験してもらおう。帰るのは、それからだ」

 紘也は、嫌な予感が的中したと思った。おそらく大谷は、何らかの手段で悠太郎を部に取り込もうとするだろう。それは何としても阻止そししたかった。もうすぐ、渡辺が手を打ってくれるはずだった。それまで少しでも時間を稼がねばならない。

「では俺を、指導していただけますか? 体験ということで。それを小野寺が見れば、見学の義務は果たせるでしょう」

 そう言った紘也を、悠太郎がぎょっとした顔で振り返る。今まで冷静さを崩さなかった悠太郎だが、明らかに動揺し、小声で懸命に訴えてきた。

「バカ、やめろ! 南! 何を言い出すんだ! 挑発に乗るなって言ったろ!」

 紘也はそれを無視して、立ち上がった。

「よろしくお願いします。大谷主将」

 大谷は冷めた目で紘也を見つめながら、自らも立ち上がった。悠太郎をも超える百九十センチ以上の長身で、紘也を尊大そんだいに見降ろす。

「貴様のことは覚えてる。うちを辞めた渡辺とつるんでいた、南とかいうやつだな。今はボランティア部に入っているんだろう。柔道部に何の用だ」

「柔道部の……いえ、大谷主将の部員の勧誘のやり方に興味がいたんです。いろんな意味で。大切な友人が関わることなんで、なおさらです」

 含みを持たせた紘也の言葉に、大谷の表情はさらに険しくなった。

「いいだろう。そんなに興味があるなら、身をもって体験するがいい。主将の俺が自ら指導してやる」

 悠太郎が焦ったように立ち上がり、二人の間に割って入って言った。

「待って下さい! 南は、柔道は授業でしか習ったことない初心者なんだ。もしどうしてもと言うなら、俺が先輩の相手になりますから」

 大谷は鼻で笑うと、悠太郎を乱暴に押しのけた。

「それでは、こいつのうるわしい友情を無駄にするようなものだ。安心しろ。初心者なりの指導をしてやる。小野寺、お前はそこに座って見ていろ」



 紘也は、道着の両えりを向かい合った大谷につかまれ、緊張した面持ちで立ち構えた。大谷は、巴投ともえなげの基本を教えると言い、自分が技を受けると提案してきたのだ。かたわらでは悠太郎が正座したまま、不安そうに二人を見守っている。

「よし、俺の両手のひじの上をつかんで、ゆっくりと体を後ろへ倒せ」

 警戒心が体を強張《こわば》らせるのを感じたが、紘也は言われるまま腰を後ろへ落とし、背中を床に着けた。大谷は紘也のえりをつかんだまま、腰から上を紘也の上に大きく屈め、さらに指示した。

「両足のかかとで俺の腰骨の下を支えて、一気に後ろへ回転するんだ。俺の体重がかかり過ぎないよう、加減してやる」

 紘也は大谷と組み合ったまま、顔を横に向けて悠太郎を見た。大丈夫だと言うように悠太郎がうなずくのを見て、紘也は思い切って後ろにはずみをつけた。

 大谷の巨体が宙を舞い、見事な受け身で背中から着地する。紘也が息を切らしながら起き上がろうとすると、大谷は仰向けに寝転んだまま、にやりと笑って言った。

「まだ終わりじゃない。投げ飛ばした相手の上を取るんだ。俺の上にまたがって来い」

 悠太郎がこらえきれなくなったかのように、口を開いた。

「もう充分でしょう? 先輩の指導の素晴らしさは解りました」

 大谷は冷ややかに答えた。

「お前は口を挟むな。俺は今、南の相手をしてるんだ」

 大谷の矛先ほこさきが悠太郎に向かう前に、少しでも時間を稼ぎたい……。そう思った紘也は呼吸が整うのを待って、承諾しょうだくした。

「俺、やります。最後まで教えて下さい」

 仰向けの大谷の腹の上に、紘也がまたがった瞬間だった。大谷は素早く腕を交差させ、紘也のはだけた道着の首近くのえりもとを強くつかんだ。そのまま紘也の頭を強く自らの胸に引き寄せ、逃げられないように両足でその細い腰を下から締め付けた。交差したたくましい腕が首の頸動脈けいどうみゃくを強く圧迫し、呼吸が奪われる。声すらも出ない。頭に血が登り、視界がかすんで行くなか、悠太郎が叫んでいるのが聞こえた。

「紘也っ!」

 初めて、名前で呼んでくれた……。

 そう思ったのち、紘也は意識を失った。
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