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(9) 対決

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 悠太郎ゆうたろう大谷おおたには、道場の中央で相対あいたいして構えた。大谷の気迫は、さすが柔道部主将だけあって、鬼気きき迫るものがある。だが悠太郎もそれに押される風もなく、堂々としていた。まだ体がふらつく紘也ひろやは、道場の出入り口近くの壁にもたれ、遠目に二人の闘いを見守る。もし渡辺わたなべが来てくれたとき、一刻でも早く対応できるからだ。

 じりじりと間合いを詰めた大谷が、右足をすばやく前に進めたかと思うと、ついに悠太郎の道着の前をつかもうと襲いかかってきた。

「気をつけろ! ゆう!」

 紘也は思わず叫ぶ。だが悠太郎は、両えりをつかまれる寸前でとっさに腰を下に落とすと、重心を低く保ったまま、大谷の太腿ふとももに体当たりし両腕で組み付いた。彼の両膝の裏に掌底しょうていを入れバランスを崩すと、不意をつかれた大谷のひざをがっしりと両腕で抱え込む。そのまま体を大きく左後ろに反転させ、大谷の軸足じくあしを宙に持ち上げると、そのまま床にその巨体を引き落とした。ずしんと大きな音が道場に響きわたる。 

 仰向けに倒されたまま、呆然ぼうぜんとする大谷を見下ろすと、悠太郎は乱れた道着を直し、紘也の方に向かって言った。

「紘也、帰るぞ」

「待て……! 貴様っ! ここはプロレスのリングじゃないぞ!」

 大谷は叫びながら起き上がると、道場を立ち去ろうとする悠太郎を、大股でどすどすと追いかけてきた。悠太郎の道着のえりの後ろをわしづかみにし、憤怒ふんぬ形相ぎょうそうで背後から乱暴に引き寄せようとした。

 悠太郎は大谷に背を向けたまま、さっと両手を掲げ、腰を低く落として足を広げた。左足を大きく引くと反動をつけ、右足を軸にして体を回転させた。道着のえりをつかまれたまま、大谷の腕の下をもぐり抜ける。すばやく回転して大谷と向かい合うと、大谷の方に向かって大きく踏み込みながら、手のひらでそのあごを下から強く押した。のけぞってバランスを崩した大谷を、悠太郎は再び床に引き落とす。目にも止まらぬ速さだった。

 二度も倒された大谷は、怒りのあまり真っ青になり、すぐには言葉も出ないようだった。悠太郎は、そんな大谷を見つめながら静かに言った。

「立ち姿勢から、いきなり帯下おびしたを攻撃するのは、今の柔道では反則らしいな。悪いけど、俺のやってたのは南米で発展した柔術がメインなんだ。いきなりの双手刈もろてがり……タックルも認められてる」

 ようやく立ち上がった大谷は、激昂げっこうして叫んだ。

「俺が倒れたのは、不意打ちを食らったからだ! いきなり反則を仕掛けてくるとは思わないからな。ここは、神聖な道場だぞ! 柔道のルールにのっとって試合するべきだろうが! 汚らわしい! それに、今しかけた技も、柔道じゃないだろう! 俺は、異種いしゅ格闘技をするなんて言った覚えはない!」

「あれは合気道の護身術だよ。暴漢に襲われたときに、撃退できる技だ。習っておいて役に立ったよ」

「俺が、暴漢だとでも言うのか? この……」

「卑怯者、とでも言いたいのか? その言葉、そっくりそのままあんたに返すよ。あんた案外、甘いんだな。きっと、競技以外で闘ったことなんかないんだろう。アメリカは治安も悪いし、格闘技は実戦重視なんだ。ルールにこだわってたら、いざというとき身を守れない」

 悠太郎のすぐそばまで詰め寄って来た大谷は、顔を近付け、怒りに震える声で言った。

「ここは日本だぞ! ルールに従って、もう一度やり直せ!」

「勝負はついたと思うぜ。俺は実戦であんたに勝った。あんたも、格闘家だっていうなら、認めろよ。それに、目的のためには手段を選ばないと言ったのは、あんたの方だろう?」

 大谷はぐっと言葉に詰まった。そのとき、息をのんで二人のやり取りを見守っていた紘也の耳に、玄関の方から今井いまいの声が聞こえてきた。

「遅くなってすまん。小野寺おのでらは来ているか?」

 今井の声を聞き、大谷は気勢を削がれたのか、悠太郎を無言で押しのけ道場の出口へと向かってのっそりと歩いた。悠太郎も小さく息を吐き、その後に続く。二人のいさかいが中断したのと、教師が来てくれたことにひとまず安心し、紘也は玄関に出て今井を迎えた。

「はい、先生。見学はもう、終わったところです」

「あれ、みなみも来ていたのか。どうした? あおい顔して……」

 今井は意外だったのか、目を丸くして紘也の顔を見る。紘也は、玄関の開け放された扉の外に、渡辺わたなべとボランティア部顧問の数学教師である竹中たけなかの姿を認めた。よほど急いで来たのか、二人とも息を切らしながら玄関に入って来る。

「やれやれ、渡辺君があまり急がせるものだから、年寄りは息が上がってしまったよ」

 ハンカチを取り出すと、初老の竹中は銀ぶちの眼鏡を外し、ひたいの汗を拭きながら笑った。

「おや竹中先生、そんなに急いで、どうされました?」

 今井が驚いてたずねると、竹中は再び眼鏡をかけながら、こう切り出した。

「いやね、担任である今井先生への相談が遅れたんですが、小野寺君という生徒に、ぜひ私が顧問をしているボランティア部に入ってもらえたらと思いましてね」

「えっ? 本人に確認したんですが、特に入りたい部はないって言ってたもので……。だから、柔道部を見学するよう勧めたんですが。小野寺が、入部の希望を出していたんですか?」

 怪訝けげんそうな顔をしてたずねる今井に、竹中は首をふった。

「あくまで、私の提案です。というのも、こちらの渡辺君から、相談を受けたんですよ。小野寺君は奉仕活動にたいへん興味を持っているのだが、始めるきっかけがないと悩んでいるとね。今時の若者らしく、他の生徒の評判が気になるらしい。カッコつけだとか言われるのが、嫌なんでしょうなぁ」

 かかっと笑う竹中を前に、今井はまだ納得できない風でいる。そこへ、苦虫にがむしみ潰したような顔をした大谷に続き、悠太郎も姿を現した。

「小野寺、お前ボランティア部に入るか悩んでいたんだって? それならそうと、なぜ素直に言わない?」

 今井にいきなりたずねられ、悠太郎は一体何のことかと驚いたようだった。悠太郎が口を開くよりも早く、渡辺が会話に割って入った。

「俺のせいなんです。実は、俺が小野寺君に話したんですよ。ボランティア部に入ったとき、信頼してた先輩から『偽善者』って責められて、すごくショックを受けたって。そしたら彼、めちゃビビってしまって……。そんな風に言われて周りから浮くんなら、入部する勇気なんかないって悩んでたんですよ」

 今井は渡辺の話を聞くと、少し怒ったように言った。

「誰なんだ、その生徒は? ひどいことを言うやつだ」

 竹中が眼鏡の奥の小さな目をわずかに細めて、大谷をじっと見つめながら語りかけた。

「私は、別に犯人探しをしようと思ってここに来たわけじゃない。ただ、人がまごころを込めて真剣にやっとるのに、侮辱するようなことを言うのは、よくないですな。その生徒にも、自分のやったことを、改めて考えて欲しいと思いますがね」

 竹中の目線の先を追った今井はその意味を理解したのか、ため息をつきながら肩を落とした。

「竹中先生、解りました。小野寺は、ボランティア部に入部するのが最善でしょう。こいつのこと、どうぞよろしくお願いします」

 竹中に深々と頭を下げた今井は、頭を上げると渡辺に向き直った。

「渡辺、お前は中等部まで柔道をやってたそうだな。大谷から聞いてたよ。続けてくれなかったのは残念だが、柔道は素晴らしいスポーツだ。嫌いにはならないで欲しい。お前が柔道で得た経験は、これからいろんなところで役に立つだろう。俺は、そう信じてるよ」

 そう言ってから、今井は悠太郎の肩を叩いた。

「すまなかったな、小野寺。ちゃんと話を聞いてやれなくて。まあ、やりたいことがあるなら、良かったじゃないか。周りの目なんて気にするな。うちに入部してくれたら嬉しかったが、仕方ない。それから……」

 努めて怒りを抑え、平静を保っているように見える大谷を横目で鋭く見すえながら、今井は続けた。

「渡辺が受けたような侮辱や嫌がらせを、もし今後も受けるようなことがあれば、必ず俺に知らせろ。俺は堂々とした力勝負は好きだが、卑怯な小細工は許さない。それを改めて、弟子たちにも徹底する。だから安心するといい」

 そう言うと、今井は渋い顔をした大谷の袖をつかみ、厳しい表情で、無言のまま道場の中に引っぱって行った。

 結局、悠太郎が一言も発する間もなく、彼がボランティア部へ入部することが決まった。悠太郎はあっけにとられたような顔をしている。まだ状況が飲み込めていないようだ。紘也は心から安堵し、まだふらつく体が床に座り込みそうになった。

「おい、大丈夫か」

 悠太郎がやっと口を開き、慌てて紘也に手を差し伸べる。竹中先生も、渡辺も急いで駆け付けてくれたのだ。自分もあと少しだけ、気をしっかり保とう……。そう思った紘也は、悠太郎の腕につかまり立ち上がりながら、竹中と渡辺に向かって、精一杯の感謝の気持ちを込めて微笑んだ。

「竹中先生、ありがとうございます……! 渡辺、ほんとに助かったよ。着替えたら、小野寺と一緒に部活に行くから……先に戻ってて欲しい」

 竹中が、心配そうな面持ちでたずねた。

「南君、きみ顔色が悪いぞ。体調が悪いなら、すぐ保健室へ行きなさい」

「そうだよ、俺が連れてってやるよ」

 渡辺もそうさとしたが、紘也はつい強がってしまう。

「平気だよ。だから……」

 いきなり、横からぐいと腕を取られた。悠太郎が紘也の体を引き寄せ、自分に寄りかからせたのだ。

「全然、平気じゃないだろ」

 少し怒ったようにそう言うと、悠太郎は紘也の体を支えながら、竹中と渡辺に頭を下げた。

「あの、俺……。南の機転で、助けてもらったようですね。感謝します。とりあえず俺が、こいつを保健室まで連れて行きます。そのあと、家まで送り届けますから」
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