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(10) ラヴ・ポーション

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 紘也は保健室でしばらく休んだあと、悠太郎に送られて家路についた。自宅に着いたのは、午後六時半を少しまわったころだった。
   
 紘也の自宅は、学院の隣町の閑静な住宅街にある。大きな庭とガレージを備えた、二階建ての現代建築だった。あたりは夕暮れの淡く優しい光に包まれ、やわらかな風が、近隣の家々から夕餉ゆうげの仕度のどこか懐かしい香りを運んで来た。

「すまなかった。少し上がっていけよ。のど、乾いたろ」

 鍵を開け中に入ると、紘也は開いたドアの外にいる悠太郎に声をかけた。ふらつきはすっかりなくなり、気分も良くなっていた。玄関の内側は、二階まで吹き抜けの開放的な造りになっており、静かな空間に紘也の声が反響する。悠太郎は紘也に続き中に入ろうとして、ふと立ち止まった。ドアのノブに手をかけたまま、とまどった様子で言う。

「せっかくだけど、今日は遠慮しとく。家の人とか、お前のお母さんに挨拶するのも照れ臭いし」

 お母さん……そう言った悠太郎の表情が、わずかに優しくほころぶのを紘也は感じた。おそらく、彼は自分の母親と仲がいいのだろう。一抹いちまつの寂しさをぬぐえぬまま、悠太郎に努めて明るく笑いかける。

「うち、父子家庭なんだ。親父おやじもしょっちゅう仕事で家を空けるから、一人暮らしみたいなもんさ。今日も誰もいない。気兼ねしなくていいよ」

 悠太郎は驚いたように目を見開いて、小さな声で謝った。

「そうか、ごめん……。その、お前のお母さんて……」

「安心しろ、生きてる。離婚さ。別に気にしないでくれ。男二人で、気楽にやってるんだからさ。まあ、とにかく入れよ」

 紘也は軽い調子で答えると、靴を脱いで先に中に上がり、リビングルームを通り抜け、ダイニングルームの奥のオープンキッチンへ向かった。冷蔵庫からアイスティーのペットボトルを取り出し、大理石のカウンターの上にグラスを二つ並べ、氷を入れる。

 悠太郎はやや遅れて、リビングへと入って来た。そこは紘也の父親の好みなのか、モノトーンのモダンなインテリアでまとめられている。広々とした空間に、高級感のある、大きな黒い革張りのコーナーソファがL字型に配置されていた。その前には、楕円形のガラストップのローテーブルが置かれている。ソファと反対側の壁面には大画面のテレビと、専門的なオーディオシステムがしつらえてあった。

「そこのソファに座っててよ。アイスティーでいいかい? コーヒー、切らしちゃってさ」

「ああ」

「甘くする? 無糖だけど」

「そのままでいいよ」

 紘也は二つのグラスにアイスティーを注ぐと、両手にそれを持って、リビングに向かう。悠太郎はまだ先ほどの話を気にしているのか、気まずそうな顔をしてソファに腰かけていた。紘也はローテーブルの上にグラスを置き、悠太郎の隣に腰を降ろした。悠太郎の顔を横からのぞき込みながら、心配していたことをたずねる。

「悠、今日のことだけど……。俺の独断で、お前を勝手にボランティア部に入れることになって、悪かったと思ってる。もしお前が嫌だったら、竹中先生にもう一度相談して取り消してもらうよ。お前が無理やり柔道部に勧誘されるのを、見てられなかったんだ……。あんな手しか、とっさに思いつかなくてさ」

 悠太郎は瞳をふせた。

「謝らないでくれ。嫌だなんて思ってない。むしろ、俺が礼を言わなきゃ。今井も納得してくれたし……。言い方は悪いけど、格闘技以外の部ならどこでもよかったんだ。ボランティア部で、とりあえず頑張ってみるよ」

 紘也はそれを聞き、ほっと安堵のため息をもらす。張りつめていた緊張の糸が緩み、急にのどの渇きを感じた。露を結ぶアイスティーのグラスに手を伸ばしかけたとき、悠太郎がぽつりと言った。

「だけど……。これ以上、お前に迷惑はかけられない」

 驚いた紘也は、つい大きな声で叫んだ。

「何言ってるんだよ! 迷惑だなんて、これっぽっちも思ってない!」

「今日だって、俺に関わらなければ、お前はあんなひどい目に合わずに済んだだろう?」

 悠太郎はそう言ったあと、しばらく視線をさまよわせ、ひどく迷っている風だった。だが、やがて両手のひらを合わせてぐっと握り、覚悟を決めたように切り出した。

「大谷の脅しのネタ……。何だったか教えてやるよ。俺、同性愛者なんだ……いわゆるゲイ、だよ」

 紘也の心臓がドクンと大きく波打つ。

「安心しろよ。別に、お前を押し倒そうとか思ってないから……。でも、友達として付き合うなんて、気持ち悪いだろう?」

「そ……そんなこと……」

 胸の鼓動が速まり、少し息苦しくなった紘也は、ようやく口を開いた。

「そんなこと、俺は……気にしない」

 悠太郎はうつむいたまま、途切れ途切れ、言葉をつむぐように、続けた。

「紘也に……感謝してるよ。あんなに無視してたのに…親身になってくれてさ……。俺みたいなやつと、あきらめずに…友達になろうとしてくれて……嬉しかった……。他人にこんなにも…気にかけてもらったのって……ずいぶん久しぶりな気がする」

 悠太郎は顔を上げ、そのはしばみ色の瞳を悲しげに潤ませて、紘也の顔をじっと見つめた。やがてすっと目をらすと、声を震わせた。

「でも……俺、今日みたいに……親しくなったやつを、自分のせいで危険な目に合わすのが……本当に怖いんだ。俺に関わると、ろくなことがない。今日のことだって、きっと、俺が受けるはずの罰だったんだ……。お前が、身代わりになったんだよ。だから、もう放っておいてくれないか」

 しばらく忘れていた悠太郎の心の闇を、紘也は再び見せつけられた気がした。懸命に、その闇を照らそうと語りかける。

「悠、どうかしてるよ! 罰だとか、身代わりだとか……そんなの、バカげた思い込みだと思わないのか? せっかく日本に来たのに……友達になれたのに、寂しいじゃないか……! お前だって、ほんとは一人きりなんて、寂しいに決まってる!」

「俺は平気だ。もともと、日本では友人なんか作らないって決心して来たんだよ。でも部活では、最低限の役割は果たすつもりだ。お前の気持ちは嬉しいけど……必要のないときは、なるべく一人にさせてくれ」

「そうやって、誰かと親しくなりかけたら、そのたびに逃げるのか? そんなこと、一生続けられるわけないだろ!」

「一生続けるしか、ないんだ。俺だけが、仲間に優しくされるとか、いつも笑って生きるとか……そんなこと、絶対に許されないんだ。でも、ほんとに平気なんだよ。俺……今、消えたら、母さんまで道連れにしかねないと思って、漠然ばくぜんと生きてるだけだからさ……」

「しっかりしろ、怒るぞ! 悠! 消えるとか……そんな縁起でもないこと、冗談でも言うなよ!」

「引いただろ。こんなクソ重たい話して……。でも、俺はそういう危ないやつだって……紘也に知って欲しかったんだ」

 悠太郎は辛そうに顔を曇らせ、うつむいてしまった。おそらく彼は、誰かに罪の意識を強く感じ、思い詰めているのだろう。その贖罪しょくざいのために、孤独でいることを貫こうとしているのだ。紘也はそう確信した。

 やっと寄り添えたと思った悠太郎の存在が、再び大きく離れていく気がした。光のもとに踏み出し、差し伸べた手をつかんでくれたと思ったのは、錯覚だったのだろうか。嫌だ。やっとつかんだその手を、離したくない……。だが、悠太郎は再び、自分だけの闇に戻ろうとしている。紘也はうろたえて、グラスに伸ばした手が震えた。その手を戻し握りしめると、悠太郎から顔を背けて立ち上がった。

「忘れてた……。俺、苦い紅茶だめだったんだ。シロップ取って来るよ。レモンも入れたいし」

 紘也はキッチンへ向かうと、食器棚からシロップやレモンのポーションを探しながら、激しく動揺する気持ちを落ち着かせようとする。だが裏腹に、抑えきれない熱い思いが、心に大きな波となって押し寄せ、溢れて来た。


 ――どんなことをしても、絶対に、お前の手を離さない――


 瞳を閉じ、静かに深く深呼吸すると、努めて何気ない口調で、悠太郎に背を向けたまま呼びかけた。

「悠、明日、土曜日だろ。昼って、何か予定ある?」

「別にないよ……。寮で勉強してると思う」

「俺、料理が得意なんだ。いつも自炊してるし。よかったら、改めてゆっくりうちに遊びに来ないか? うまい昼飯、食わせるよ。親父も当分、出張で留守だしさ」

「ごめん。さっきも話したけど、俺は……」

 紘也は、悠太郎の言葉を強くさえぎった。

「解ってる。関わるなって言うんだろ。俺はただ、今日送ってもらった礼をしたいだけだ。それで気が済んだら、もうお前にしつこくしないから」

「紘也……」

 悠太郎は、とまどうようにそう言ったきり黙ってしまう。一瞬、躊躇ちゅうちょしたが、紘也は思い切ってさらに続けた。

「実は、試験前に貸した古文の本、いったん返してくれると助かるんだ。英会話の先生のマークが、ちょっと急ぎで貸して欲しいって言ってきてさ。明日持ってきてくれたら、日曜にマークに会うときに渡せるんだけど……。明日会おうって言う理由には、それもあるんだよ」

 決めかねているのか、悠太郎はしばらく間を置いてから、ようやく口を開いた。

「解った。持って来るよ」

 嘘をついたことに、紘也の胸は痛んだ。マークからそんなことを頼まれてはいない。悠太郎に、誘いを断らせないための口実だった。後ろを振り返る勇気がなく、キッチンにたたずんだままの紘也に、悠太郎が焦ったように言った。

「あっ、もうこんな時間だ。寮の門限、八時だし……俺、もう戻るよ」

「う……うん、気をつけて帰れよ」

「じゃ、また明日来る」

 悠太郎はソファーから立ち上がり、足速あしばやに部屋を出て行く。玄関のドアが閉まった音が響いても、紘也はキッチンに立ち尽くしたまま、動けないでいた。手のひらには、シロップとレモンのポーションが握られたままだ。

 ラヴ・ポーション……。英語では、媚薬びやくの入った水薬を指すのだと、紘也は以前聞いたことがある。

 頑なに閉じられていた扉が、ほんのわずかでも開いている間に、どうしてもその隙間に手を差し伸べたかった。その扉が再び固く閉ざされてしまえば、手遅れになる。暗く冷たい深淵しんえんに人知れず沈んでしまう前に、自分が悠太郎をつかまえて、光のもとへ引き戻す……。たとえ馬鹿げているとしても、その方法しか今は思いつかなかった。もしかしたら、彼に軽蔑され、さらにうとまれるかも知れない。それでも構わない。賭けてみようと、紘也は思った。
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