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大学のキャンパス
しおりを挟む五月の朝。晴れた空がまぶしいほど澄んでいるのに、拓也の足取りはどこか重かった。
大学のキャンパスに着くと、いつものように人の波に紛れながら、教室棟へと向かう。昨日までと何も変わらない日常。けれど、自分の内側は、昨夜の“あの体験”で確実に揺れていた。
階段を上がりかけたところで、声がかかる。
「おい、渡辺!」
振り返ると、木村真人が笑いながら駆け寄ってきた。高校時代からの付き合いで、気取らず、時々うるさくて、それでも一番信頼している友人だ。
「お前、昨日LINE既読にならなかったけど、何やってたんだよ? ゲーム誘ったのにスルーかよ。珍しいじゃん」
その一言に、拓也は一瞬だけ返事に詰まった。
「……あー、ごめん。ちょっと、寝てたっていうか……いろいろあってさ」
「ふーん、“いろいろ”ねえ?」
木村はじっと拓也の顔を見つめたあと、ニヤリと笑った。
「お前さ、なんか雰囲気変わったよな。髪、ちゃんと整えてるし、アイロンもかけてるっしょ? いつもぐしゃぐしゃのシャツ着てたくせに」
「……そうか?」
言いながら、拓也は無意識に前髪を直していた。昨夜、ユイとして鏡の前に座ったときのクセが、手に残っていた。
「彼女でもできたか?」
「ちが……うよ」
言葉に詰まりそうになりながらも、なんとか笑ってごまかす。けれど、木村は思いがけず、静かな声で言った。
「……もしさ、なんか言いづらいことがあるんなら、言わなくてもいい。でも、お前がちゃんと元気なら、それでいいよ」
拓也は驚いたように木村の顔を見た。その目は真っ直ぐで、いつもふざけてるようで、ほんとうは誰より人の気持ちに敏感なやつだと、改めて思った。
「ありがとう。……ちょっと、自分のこと、考えてただけなんだ」
「そっか。まあ、でも――」
木村はぐいっと肩を叩いて笑う。
「悩んでる暇あったら、昼メシ行こうぜ。今日、学食カレー150円の日だってさ!」
「おまえ、そんな情報ばっか早いな」
「俺が目指してんのは“生きる知恵”だからな!」
拓也はようやく、小さく笑った。心の奥にまだ整理できないことはある。でも、こうして笑える場所があることに、少しだけ救われた気がした。
ユイとしての時間は、現実の自分を偽るための逃げではなく、本当の自分を知るための入口だったのかもしれない。そう思いながら、拓也は木村と並んで歩き出した。
そしてふと、ポケットの中のスマホを握りしめた。
画面を開けば、またユイに戻れる。でも今は、それをしなくても“ちゃんと歩いていける”気がしていた。
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